トキーオ(19.2)




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 宮沢賢治は、童話の中では東京を「トケイ」「トケウ」「トキーオ」などと呼んでいました。「トキーオ」は、エスペラント語で東京のことです。


 東京での賢治の足跡をたどります。





高井戸





 さて、つぎの訪問先は、杉並区高井戸の尾崎喜八旧居跡です。




神田上水
(井之頭用水) 高井戸駅付近
井之頭池から流れています。



 尾崎喜八(1892-1974)は、高村光太郎と白樺派の影響下にあった詩人・翻訳家で、東京市京橋の造り酒屋の跡取り息子として生まれ、商業学校を出ましたが、恋愛のために父に勘当され、以後独学で仏独語を習得し、ロマン・ロラン、ヘッセ、リルケなどの翻訳を世に出しました。

 こんにちでは、田園詩人・山岳詩人としても、高い評価を受けています。

 尾崎喜八は、1924-28年のあいだ、豊多摩郡高井戸村(現在の杉並区上高井戸付近)に畑付きの一軒家を得て、新妻とともに入居し、園芸耕作と著述の生活を送りました。

 宮沢賢治が尾崎宅を訪れたのは、この間 1926年12月のことでした。



 この高井戸の新居について、『尾崎喜八 略年譜』では、つぎのように書いています:



「大正十二年(三十一歳)1923年

 詩作もその発表も、翻訳の仕事もすべて前年と変りなく、実子との親近も深まってついに相愛の間柄になった。
〔…〕

 九月一日正午にいわゆる関東大震災。自宅にも水野氏の家にも多少の被害はあったが、遠く東京の空にそびえ立つ大火災の煙柱を見ると急に矢も楯もたまらなくなり。交通機関のすべてとだえた戦場のような混乱の中を、京橋区新川の、今では親子の縁もない元の我が家へと数里の道を駆けつけた。
〔…〕

 要するに、この事あって以来急転直下、父親と私との間に和解が成り、そのうえ水野実子と結婚したいという希望もすらすらと受けいれられた。
〔…〕

 東京府豊多摩郡高井戸村大字上高井戸の畑地の中に一戸を新築して、そこに新夫婦で別居するがいいという事になった。玉川上水を窓のむこうに、井ノ頭用水を背に、居ながらにして遠く富士や丹沢の山々を見ることのできる洋風二間の家と二反歩の畑地。
〔…〕



大正一三年〜昭和三年(三十二歳〜三十六歳)1924年〜1928年

 十三年三月水野実子(十九歳)と結婚。文学の仕事と畠仕事に専念する高井戸時代の生活がはじまった、畠仕事とは言っても二人とも全くのしろうとだったから、何を作るにしても一々江渡氏の家の人達や近所の農家の指導にまった事は言うまでもない。私たちは怪しげな乎つき腰つきで鍬を動かし、肥料桶を運んだ。一個の桶を二人で担うのだった。そして百姓なみに旱天には雨を祈り、虫害を憂え、雀を追った。輪作に間作に、私たちの作った主なものは麦、大根、甘藷、里芋、白菜、馬鈴薯、胡瓜、葱などだった。それぞれの季節の収穫は、これを粉にしたり、漬物にしたり、乾燥したりして、貯蔵のできる物はすべて貯蔵した。さまざまの花も作った。これは奨められて切り花にして売ってもらった。鶏も白色レグホーンを飼った。その卵は食膳を賑わした。ほとんど収入にもならない詩を書き、幾らかは生活の足しになる散文や翻訳の仕事をしながらの自給自足の生活だったから、毎日同じような物が食卓にならぶ事が多かった。
〔…〕

 多くの、実に多くの友人の来遊があった。高田博厚、片山敏彦、上田秋夫のような連中は荻窪や西荻窪に住んでいて近くもあったので、頻繁に訪ねても来れば訪ねても行った。高村氏も四五回来た。
〔…〕ロマン・ロランの会という小さい親しいグループを作っていて、集まるたびに寄せ書の手紙をロランその人に送っていた。ヴィルドラックは、それ故、言わばロランの友情の使節として私たちには会いに来たのだった。〔…〕

 十五年の五月にはフランスの詩人シャルル・ヴィルドラック夫妻が来日して、この高井戸をも訪れた。私たち
〔…〕昭和三年三月改めて実家に入籍して家督相統。同時に思い出多い高井戸を後にして東京市京橋区新川の実家に移った。」






 当時尾崎喜八の家と畑があった場所は、番地がわからないために正確な特定は困難ですが、「高井戸村大字上高井戸」で、「玉川上水を窓のむこうに、井ノ頭用水を背に」していたという記載から、

 現在の環八道路・中央道交差付近で、高井戸駅側ではないかと思われます。かつての「玉川上水」の暗渠の上に中央道が通っており、「井ノ頭用水」とは、井之頭池から流れ出ている「神田上水」のことと思われます。




杉並区上高井戸3丁目 
広い通りは、環状八号線。






「宮澤賢治生前の唯一の詩集『春と修羅』は、関東大震災の翌年
〔…〕発行されたが、それは奇しくも今連れ添っている妻と私とが結婚して、その頃の東京府豊多摩郡上高井戸の田舎の新居に家庭生活を営み始めた同じ春のことだった。

 或る日幾つかの郵便物にまじって、その畑中の一軒家へ一冊の詩集が届けられた。差出人は遠い岩手県に住んでいる未知の人で、タンポポの模様を散らして染めた薄茶色の粗い布表紙の背に、『詩集 春と修羅 宮澤賢治作』とあった。私もその頃『高層雲の下』の原稿をまとめていたが、今と違って知らない人から自著の寄贈を受けることなど稀だったので、新婚早々のおおらかな気分、世の中との新しい交わりや人の訪れを広々と迎えようとする気持ちも手つだって、この未知の詩人からの贈り物を一つ大いなる祝福のように喜んだ。ときに宮澤賢治二十八歳、私は三十二歳だった」

尾崎喜八「賢治を憶う」,in:『小原流挿花』,1968年1月号.
⇒:尾崎喜八資料・第7号





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