トキーオ(20.3)




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 宮沢賢治は、童話の中では東京を「トケイ」「トケウ」「トキーオ」などと呼んでいました。「トキーオ」は、エスペラント語で東京のことです。


 東京での賢治の足跡をたどります。






田園調布
(3)




【トキーオ(20.2)】からつづく

 ところで、尾崎喜八の“矛盾証言”について、もう一度考えてみたいと思います。

 尾崎は、『宮澤賢治追悼』に寄稿した 1934年の段階では、大津三郎のところでレッスンが実現したことを知らなかったと思われます。紹介はしたけれども、賢治の帰郷の予定が迫っていて、レッスンの実施まで行かなかったと思っていたのです。

 そこで、…ギトンの推測ですが…この 1926年12月の時点では、けっきょくレッスンはできなかったのではないか?…尾崎は、その時点での情報を大津から聞いていて、レッスンは実現しなかったと記憶していた。

 しかし、賢治は、その後も大津と連絡をとるとかしてレッスンを頼み続け、翌年明け(大津の言う「春浅い頃」)か、もっと後で、チェロを持って再度上京し、“3日間のレッスン”を受けたのではないか?…

 その過程で、塚本社長か、あるいはほかの誰かの口添えもあって、大津は“無茶な”レッスンをしてあげる気になったことが考えられます。

 塚本社長の口添えの動機についても、憶測の余地があります。「塚本商行」の1階は楽器売り場でしたが、賢治はここで、チェロだけでなく、『羅須地人協会』で“農民楽団”を編成するための楽器一式を買いそろえたのではないか?……根拠は長くなるので述べられませんが、総額200円、現在の貨幣価値で 100万円は下らないでしょう
(いや‥550円かもしれない!なお1921年、稗貫農学校の賢治の初任給は 80円でした)。これほどの“お得意様”に頼まれたら、社長じきじきにレッスンの仲介もしなければならないでしょう‥‥



 尾崎は、1928年3月に上高井戸を引き払って京橋区新川の実家(造り酒屋)に移り、家督相続しています。その時点で、交友範囲にも大きな変化があったと思われます。大津から、“宮沢賢治レッスン”の続報を聞く機会がないまま、賢治の他界を迎えたのではないでしょうか?

 尾崎の戦後のテレビ番組での発言は、1952年に『音楽之友』に出た大津の記事を読んだか、大津から直接聞く機会があったかして、レッスンが実現していたことを知った後なのでしょう。「2時間ぐらいそそくさとやってもらって」という言い方が、大津の昔語りを引き継いでいます。




数寄屋橋 塚本商行・跡 
銀座4丁目2,3
手前右のスーツカンパニーが、戦後の塚本ビル(現在は塚本素山ビル)。
戦前「塚本商行」のあった番地「4丁目3番」は、路地の奥・突き当り。







 さて、そうすると、“3日間のレッスン”は、大津つや子夫人の言うように、1927年以後だということになりますが、これを補強する証言は、賢治側にもあります:



「確か昭和二年
〔1927年〕十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村〔→根子村下根子の賢治別宅〕に於て農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居られました。其の十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。

 『沢里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞剣だ少なくとも三ヶ月は滞京する俺のこの命懸けの修業が、花を結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる、貴方もバヨリンを勉強してゐてくれ。』

 さうおつしやつてセロを持ち單身上京なさいました。

 其の時花巻駅迄セロをもつてお見送りしたのは、私一人でた。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが先生は

 『風を引くといけないからもう帰つてくれ、俺はもう一人でいゝいのだ。』

 折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此処で見捨てて帰ると云ふ事は私としてはどうしても偲びなかつたし、又、先生と音楽について様々の話をし合ふ事は私としては大変楽しい事でありました。滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。

 最初の中は、ほとんど弓を彈くこと、一本の糸を弾くに、二本の糸にかゝからぬやう、指は直角にもつていく練習、さういふ事にだけ、日々を過ごされたといふ事であります。そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国
〔→帰郷〕なさいました。」
沢里武治・手記〔 〕内はギトン註 ⇒:みちのくの山野草



 花巻農学校卒業生で賢治の教え子、賢治からとくべつに音楽の才を認められていた沢里武治が、1927年11月ころ、チェロを抱えて東京へレッスンをしに行く賢治を見送ったと言うのです。

 沢里の記憶では、この時賢治は3か月近く東京に滞在してチェロの練習に励んだとされます。大津三郎のレッスンは(おそらく最初の)3日間で、そのあとは自分で練習したり、他の人に看てもらったり‥ということだったかもしれません。



 ところで、チェロのレッスンは、1926年12月だったのか、27年11月〜だったのか、……この問題に、これまで何人かの研究家がこだわり
(たとえば、奥田弘氏)、ギトンもこだわっているのは、なにも重箱の隅をつつきたいからではありません。

 宮沢賢治が新品の楽器を買いそろえて
(これじたい、まだ推測ですが)、立ち上げた『羅須地人協会』の“農民楽団”は、1927年1月31日『岩手日報』に紹介記事が載って県下の注目を浴びましたが、あまりに反響がよかったために、かえって思想警察に目を付けられ、不穏活動の疑いで賢治が取調べを受ける事態となりました。

 賢治は、教え子たちに迷惑はかけられない‥ということから、楽団活動も農民劇活動も中止してしまうのです。こんな当たり障りのない文化活動さえ、農村では疑いの目をもって見られ、禁圧されるご時世でした。

 それにしても、宮沢賢治といえば、社会観念には疎くて、権力に対しては草のようになびき、「自己犠牲」とファシズムに向かってまっしぐら――という(誤った)見方があります。

 しかし、その年11月に賢治自身はチェロのレッスンを再開し、「今度は俺も眞剣だ‥‥俺のこの命懸けの修業が、花を結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる」と言い、いつかまた“農民楽団”を再開すべく、自らの技能を磨いていた――それが事実だとすれば、権力になびくどころか、意外にも屈強な“抵抗の人”だったのではないか?‥数多くの欠点と“ゆらぎ”はありながらも、彼なりに時流に掉さしていたのではないか‥?

 言い古された宮沢賢治像を、正しく塗り替えるための根拠が、こうしてまたひとつ増えることになるのです。






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