トキーオ(20.2)




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 宮沢賢治は、童話の中では東京を「トケイ」「トケウ」「トキーオ」などと呼んでいました。「トキーオ」は、エスペラント語で東京のことです。


 東京での賢治の足跡をたどります。





田園調布
(2)





【トキーオ(20)】からつづく

 しかし、大津三郎自身が、戦後まもない時期に音楽雑誌に書いた記事によると、3日間・各2時間の“手ほどき”を、宮沢賢治に授けたと言います:



「大正15年[1926年]の秋か、翌昭和2年[1927年]の春浅い頃だつたか、私の記憶ははつきりしない。

 数寄屋橋ビルの塚本氏が現在のビルの位置に木造建物で東京コンサーバトリーを経営していた。
〔…〕新交響楽団を結成した私たちが〔…〕そのコンサーバトリーを練習場に借りていた時のことである。

 ある日帰り際に塚本氏に呼びとめられて、『三日間でセロの手ほどきをしてもらいたいと云う人が来ているが、どの先生もとても出来ない相談だと云つて、とりあつてくれない。岩手県の農学校の先生とかで、とても真面目そうな青年ですがね。無理なことだと云っても中々熱心で、しまいには楽器の持ち方だけでもよいと云うのですよ。何とか三日間だけ見てあげて下さいよ。』と口説かれた。

 
〔…〕私が紹介されたのは三十歳位の五分刈頭で薄茶色の背広の青年で、〔…〕扨、二人の相談で出来上つたレッスンの予定は、毎朝 6時半から 8時半迄の 2時間ずつ計 6時間と云う型破りであつた。

 神田あたりに宿をとつていた彼は、約束通りの時間に荏原郡調布村まで来るのは仲中の努力だつたようだが、三日共遅刻せずにやつて来た。8時半に練習を終つて、私の家の朝食を一緒にたべて、同じ電車で有楽町まで出て別れる……これが三日つずいた。

 第1日には楽器の部分名称、各弦の音名、調子の合せ方、ボーイングと。第2日はボーイングと音階、第3日目にはウエルナー教則本第1巻の易しいもの何曲かを、説明したり奏して聞かせたりして、帰宅してからの自習の目やすにした。
〔…〕

 3日目には、それでも30分早くやめて
〔…〕お別れの茶話会をやつた。その時初めて、どうしてこんな無理なことを思い立つたか、と訊ねたら、

 『エスペラントの詩を書きたいので、朗誦伴奏にと思つてオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロ方がよいように思いますので‥‥』とのことだつた。

 『詩をお書きですか、私も詩は大好きで、こんなものを書いたこともあります』と私が書架から取り出したのは、大正5,6年の『海軍』と云う画報の合本で、それには軍楽隊時代の拙作が毎月1篇ずつ載つていたのである。

 
〔…〕私はこの時詩人としての彼を全く知らなかつたのだ。

 次々に読んで行つた彼は『先生の詩の先生はどなたですか』と云う『別に先生はありません。
〔…〕今では尾崎喜八さんのものが大好きです』と答えると、彼は小首をかしげ乍ら、大正5年頃にこんな書き方をした人は居ないと思っていましたが……〔…〕篇中の――と( )を指して、大正5,6年にはまだ使われて居なかつたように思う、と云うのであつた。

 当時、私の家は両隣りへ 2,3町もある一軒家で割合に広い庭には1本のえにしだと何か2,3本植つて居たのに対して、彼はしきりに花壇の設計を口授してくれた。
〔…〕

 ウエルナー教則本の第一と信時先生編のセロ名曲集一巻を進呈して別れたのだつたが数日して彼から届いた小包には、『注文の多い料理店』と渋い装幀の『春と修羅』第1集が入つて居て、扉には

 献大津三郎先生      宮澤賢治

 と大きな几帳面な字で記してあつた。」

大津散浪(三郎)「私の生徒宮沢賢治――三日間セロを教えた話」,in:『音楽之友』,10巻1号,1952年1月,pp.106-107. [ ] 内はギトン註。

※ 大津三郎「三日でセロを覚えようとした人」(昭和文学全集,角川書店,月報14,1953年6月,pp.5-6.)は、「私の生徒‥」の一部を省略したほか同文です。



 大津三郎(1892-1957)は、海軍軍楽隊員として、東京音楽学校(現・東京芸大音楽学部)で弦楽器を学び、1920年退役後は、日本交響楽協会にトロンボーン奏者として参加、同協会分裂後は、近衛文麿の新交響楽団に加わりました。その傍ら「東洋キネマ」などの活動写真館でトロンボーンやチェロの演奏を担当しています。





池上本門寺から千鳥、久が原方面を望む







 ↑上の大津三郎自身の回想記事によって、賢治が大津宅を訪ねて、チェロの“手ほどき”を受けた事実は、まちがえないと思われます。ただ、その細かい点になると、問題が少なくはないのです。

 大津の回想文は非常に具体的で詳細なので、細部まで正確なものだと思ってしまいがちですが、1926-27年から 25年後に、はたしてこれほど詳しく覚えているものなのかどうか…

 しかも、佐藤泰平氏によれば、周辺資料と突き合わせてみると、いくつもの矛盾点が浮かび上がります。⇒:MLAJ研究セミナー(2003.11.7)《講演「宮沢賢治の音楽」》



 @大津が宮沢賢治に贈ったという信時潔・編『ヴィオロンセロ名曲集』第1巻は、1928年2月の発行なので、1926年12月、あるいは翌27年早春には、まだ存在しなかった。なお、信時潔・平井保三・共編『セロ教本』第1巻が、1927年6月8日に発行されている。

 A賢治にチェロのレッスンをすることになった経緯について、大津は、新交響楽団が2階に練習場を借りていた有楽町『数寄屋橋ビル』の塚本商行社長・塚本嘉次郎(1890-1956)の依頼に応じたと言っており、尾崎家の紹介については触れていないのです。

  弦楽器を弾いたことのない賢治に、“3日間でチェロが弾けるように教える”などという無茶な依頼を、塚本社長がなぜ仲介しなければならないのか、おおいに疑問です。宮沢賢治のような“おのぼりさん”に頼まれて、ほいほい引き受けるようなことがらではありません。よほど親しい人か、有力者にでも捻じ込まれたか?…しかし、塚本社長が誰から頼まれたのかについては、まったく言及がありません。

 B大津は、「8時半に練習を終つて、私の家の朝食を一緒にたべて、同じ電車で有楽町まで出て別れる……これが三日つずいた」、つまり、練習後は宮沢賢治と、練習場のある有楽町まで一緒に行ったと言うのです。

  新交響楽団の練習場は、たしかに 1926年12月には、「塚本商行」の2階にありましたが、翌 1927年6月に荏原区長原に自前の練習場ができて、そちらへ移転しているのです。

  なお、つや子夫人の記憶では、レッスンは 1927年で、練習後は大津三郎は池上線長原の練習場へ出かけたと言います。
(夫人は奥田氏に、26年3月次女が生まれてから「1年ほどたった頃、賢治がたずねてきた」と語っているが、練習場の場所から推定すれば 6月以後)



「大津つや子夫人の記憶では、次女日出子氏(大15・3生まれ)が生まれて、1年ほどたった頃、賢治がたずねてきたそうだ。たしか、次女を背負って応対したので、誕生から推して、昭和2年だったと思うということだ。

 
〔…〕大津夫人によれば、大津三郎が、午前9時か10時には池上線長原の新響練習所に出かけねばならぬので、その前に、〔ギトン注――賢治が〕大津宅まで通ったわけである。」
奥田弘「宮澤賢治の東京における足跡」,in:小沢俊郎・編『賢治地理』,1975,學藝書林,p.158.




  つまり、@とBは矛盾しています。もし、@が正確で、レッスンは 1927年後半ないし 28年以降だとすると、Bの、有楽町まで一緒に行ったというのは記憶違い、Aの塚本社長の仲介も怪しくなってきます。






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