妄想-1 アメリカザリガニ

太陽が町中の水分を温めて、ぶくぶくと膨れあがった雲の輪郭が日を重ねるごとに強くなっていく。
にもかかわらず、ラジオ体操のスタンプカードは最初の一回以降全て押されないままに夏休みを終えてしまった。ラジオ体操に行かなくなってしまったのは、小学生ながらにハマってしまった朝ドラを見逃さない為でもラジオ体操の行われている町会会館までの坂道が急すぎるからでも無く、高速道路の完成に合わせてこの町から引越してしまったからだった。

本当は1月にこの町を出る予定で、クラスで送別会まで開いてもらったのだが、結局ゼネコンの談合かなんかの問題で高速道路の工事は完成せず、7ヶ月も経っての引越しになってしまった。
高速道路誘致の話がとなり町からこの町に来たのはぼくが産まれるずっと前だったし、実際にうちの畑が大々的に工事に引っかかることになり、都内の小さなマンションの一室を買えるほどの値段で買い上げられる契約が結ばれたのは、ぼくがまだ2歳の頃の話だった。
それからの両親はといえば、東京という町がいかに大きく、美しく、希望に満ち溢れているかを仕切りに語り、そしてその後必ず、この町がいかに小さく、汚く、衰退の一途をたどっているかを語った。そして付け加えるように、幼い頃から東京に住むことが出来るぼくがどれだけ幸せ者であるかを説いた。
その一言一言にぼくは辟易していたし、12歳になる頃には、行ったことのない「東京」という町に嫌悪感さえ抱いていた。なにより、友人や、好きな女の子に別れを告げるのが嫌だった。別れてしまうことそのものよりも、別れを切り出す方がぼくには辛かったのだ。それだけを避けるために、引っ越しを強く拒んだこともあったけれど、もちろん両親は聞く耳などもたず、また一から 東京がいかに大きく、美しく、希望に満ち溢れているかを語り、そして例のごとくこの町の悪口をつらつらと吐いて、ぼくがいかに恵まれているかを綿々と説いたのだった。

一学期の修了式が終わり、教室に戻ったぼくたちは明日からの夏休みをどのように過ごそうかという話題で浮かれていた。たった9人しかいないクラスメイトたちの騒ぎ声と、長期休み前特有の高揚感が充満していて、ぼくは未だに明後日にはこの町を出ることを言えずにいた。たった9人しかいないクラスメイトだ。親たちはみんな引越しの話を聞いているだろうし、クラスメイトたちもそれを親から聞いているだろう。一昨日も親友のタカちゃんのお母さんは、ぼくが夕飯を食べ終わるまでうちのお母さんと引越しの段取りやら文通の約束やらをしていたというのに、そのタカちゃんをはじめ、ほかのクラスメイトたちも ぼく引越しのことについてはだれも話題にあげなかった。
もしかしたらみんな親から何も聞いていなかったのかもしれないし、1月のときのように「どうせまた引っ越さないんだろ」と思っていたのかもしれない。ぼくが言わないから話しづらいだけかもしれないし、ぼくが引越すなんて誰も信じていないのかもしれない。口裏を合わせて触れないようにしていたのかもしれないし、それぞれがどーでもいいと思っていたのかもしれない。とにかくその時、ラジオ体操の話と、市民プールの料金が中学生から値上げしてしまうから今年いっぱいいっておくべきだという話と、近所の川に、町会長の小指を切ったとされているビッグ・レッドという伝説のアメリカザリガニがいるという話と、ぼくの引越し予定日の8月2日の夜、神社での小さな夏祭りに今年から亀すくいの出店が出るという噂話だけをして、それぞれが帰路に着いた。

8月1日、ラジオ体操にはクラスメイトのうち、タカちゃん、テツ、ナツコの3人だけが来ていた。体操を終えるとぼくたちは町会長のもとに駆け寄り「どうして小指がないの?ほんとうにビッグ・レッドにに切られちゃったの?」と まくし立てた。町会長は何も答えずにいたが、横にいた副町会長が何故だか焦りながら「ザリガニに切られてしまったんだよ」と教えてくれた。
こうしてはいられない。
ビッグ・レッドは夕暮れ時が弱いという先輩たちからの助言を基に、タカちゃんとテツとナツコとぼくの4人は近所の川に18時に集合した。ビッグ・レッド討伐のためだった。あの優しい町会長の仇をとるのだ。
酒屋の息子のテツが店先からくすねてきたアタリメを。渡辺商店という小さなスーパーの次女のナツコはタコ糸を。物好きの観光客しか行かない、田舎料理屋の癖に「ダイア」という店の息子のタカちゃんは、店の生簀用の網をそれぞれ持ち寄った。
ぼくの家はもともと農家だったが、父は山を下ったここよりも少し大きな町でサラリーマンをしていた。特に家から持ち出せるものもなく、引越し前夜である今夜、父が飲むつもりだったであろう瓶ビールを一本、隠すようにタオルにくるんで持っていった。ぼく以外の3人がこの超特大任務に必要なアイテムを自慢げに紹介する中、ぼくが一番誇らしげに包んでいたタオルを得意げに解き、みんなはまず驚いたあと「ビッグ・レッド関係ないじゃん!」とひとしきりぼくを責めた後、一斉にケタケタと声を上げて笑った。12歳のぼくたちの中に、飲酒経験のある不良少年少女はおらず、その初めての経験にひどく高揚した。栓抜きを忘れてしまったので河原の石ころで注ぎ口の部分を叩き割って、それぞれ持っていた水筒のコップに「おっとっと」なんて大人の真似をしながら注ぎ、意味も知らない、初めての「乾杯」をして一気に飲みほした。
今まで経験したことのないその苦味に全員が水筒の麦茶で口をゆすいで、大人たちがなぜこれを好んで飲んでいるのか、テツの家は町の大人たちを騙してこれを売っているんじゃないのか、なんてふざけあっているとアルコールが小さな体にぐんぐん巡り、視界もなんだかぼやけて、みんなぼーっと川を眺めていた。
風が川面を撫でて、写り込んだぼくたちの姿がゆらゆらと溶けるのに流れて消えてしまわないことがなんだか不思議だった。

やはり ぼくと、ほかの3人の間には微妙な気まずさが流れていた。告げなくてはいけないことを胸に秘めていながら、ぼくは誰かがこの沈黙を破ってくれるようにと願った。ぼくは弱虫だったのだ。

岩場で甲羅を乾かしていた亀があまりの暑さに水に飛び込んだ音をきっかけに「あのさ」とタカちゃんが言った。少しの間のあと、
「秀弥、明日の祭りで亀とったらさ、ビッグ・レッドと戦わせようぜ。今日はもう川入りたくねーしな」と続けた。
「秀弥、明日の祭り、父ちゃんが射的だすんだけど、右から3番目のキャラメルは絶対に倒れないらしいから、間違っても狙うなよ」テツが言った。
「秀弥、明日の祭りのあと、遠足の時の写真あげるからね、ちょっと、時間ちょうだいね」ナツコが言った。
その全てにぼくは笑顔で了承すると、3人はホッとした顔を見合わせて頷きあった。するとタカちゃんがタモを差していたリュックサックから線香花火を4本と、ろうそくとマッチを出してきて「一番早く火が消えた奴が明日他の3人にかき氷おごること!!」と声高々に言い、それを知っていたであろうテツもナツコももちろん乗り気だった。ぼくが引越しに行かないことがわかったらこのゲームをするつもりだったのだろう。3人の嬉しそうな顔が、ぼくにはとても辛かった。明日の朝引っ越すから祭りには行けないんだ、と、どうして言い出せなかったんだろうか。1分前の自分とまだ言い出せずにいる今この瞬間の自分を心の中で強く責めた。そんなぼくの思いとは裏腹にタカちゃんはテキパキと河原の石にろうそくを固定して火をつけた。
河原にしゃがみ、4人一斉に線香花火に火をつけた。5秒、10秒、どうか落ちないでくれ。16秒、たった瞬間 ナツコがぼくの頬に突然口づけをした。ぼくはあまりのことに仰け反り、そのままバランスを崩して線香花火ごと後ろ向きに川に倒れこんだ。呆然とする男子3人にナツコ「秀弥の負け!」と笑い、照れ隠しでタカちゃんとテツの頭を叩いた後、川に浸かったままのぼくに手を差し出した。我に返ったぼくは、好きな女の子にキスをされた喜びよりも、好きな女の子にここまで勇気を出させて、嘘をついていることをとても恥ずかしく思った。
今言うしかない。
グッっと覚悟を決めて「ナツコ、あのさ、実はさ、俺」ボソボソと言いかけたぼくの口をナツコが指で塞ぎ、続けてぼくの両耳を塞ぐと、涙目になり、ボソッとなにか、二言、呟いた。何を言っているかは分からなかった。「いかないで」と言っているようにも「しらないよ」と言っているようにも見えた。「だいすき」と告白してるようにも「うそつき」と罵倒しているようにも見えた。落ちかけの太陽にナツコがちょうど重なって逆光で唇を読み切れなかったが、これ以上惨めにならないように、ぼくはナツコが「しらないよ うそつき」と言ったのだと思い込むようにした。その言葉には似合わない笑顔でぼくの手を引き、立ち上がらせ「じゃあね!」と叫ぶと夕陽の中に走って消えてしまった。ぼくの初恋はその日、太陽に溶かされてしまったのだ。

蝉たちの騒ぐ静寂の中、ナツコの去ってしまったあとを固く拳を握り締めながら眺めていると「秀弥!秀弥!右手!!」とタカちゃんが声を荒らげた。右手に目をやると赤い何かが握りつぶされていた。ビッグ・レッドだった。図らずもぼくは先程川に倒れこんだ時に今日集まった本来の目的、ビッグ・レッド討伐の任務を遂行したのだった。

すっかり日も暮れて、ぼくたちは自転車を押しながら歩いた。
「タカちゃん、お店の網持ってきちゃって大丈夫だったの?」
「大丈夫だよ、町会長の仇をうったっていえば許してくれる。逆に褒めてくれるかもしれない!」
「いやタカちゃんはなんにもしてねーじゃん!」
「テツだって結局万引きしただけだからな!しかも自分ちの店の商品。バレたら相当絞られるな!」
「やめろよそんなこというの!...帰るの怖くなってきたな」
そんないつも通りの幼い会話を長い坂道を登りきるまで話した。ここからは、ぼくだけ別方向だ。
「じゃあまた明日もラジオ体操でな!」ナツコとは違い、ぼくの言葉を信じて疑わなかったタカちゃんとテツは明日と、明日以降の約束をぼくに取り付け
分かれ道からの坂道を立ち漕ぎで登っていった。その背中に「じゃあな!」とだけ声をかけて家に帰った
。親友2人に最後まで本当のことを言えなかったこと、朝にはあの高速道路でこの町を出ること、好きな人がぼくを好きでいてくれたこと、その全てが頭を巡り、ぼくは一睡もすることなく朝を迎えた。せめて夢でも見られれば、目が覚めたとき、引越しなんて夢だったのかも、なんて思えたのかもしれなかったが、目を開けたまま迎えた朝にあったのは、情けない少年のためのただの現実だった。

準備を終え、父の運転する車に乗り込んだ。高速道路のインターチェンジ付近には開通セレモニーを一目見ようとたくさんの人だかりができていた。何もめでたくないのに。道路は開通したての高速に乗ろうという車で渋滞していて車はビクとも動かなかった。何もめでたくないのに。どうせこの町を出るなら、さっさと出てしまいたいのに。
こんなところに停まっていたら、車を降りてラジオ体操に行きたくなってしまうじゃないか。町会長に褒めてもらいたくなってしまうじゃないか。

しばらくすると地元のテレビクルーが高速道路開通についての生中継を始めて、2台前の車にインタビューをしているようだった。1分ほどインタビューをすると次の車に運転手に話を聞き、そしてぼくの乗っている車にもその番が来た。コンコンとドアをノックされた母が助手席の窓を下げようとするのを後部座席のぼくが止め、回転式のレバーを右に回して窓を勢いよく下げたぼくは、インタビュアーの開口を待たずに「高速道路なんてできなきゃよかったんだ!」と、出る限りの声で叫び、大急ぎでレバーを左に回して窓を上げた。
母がインタビュアーにすいません、すいませんと頭を下げ、振り向いてぼくを叱ろうとしたところで車がゆっくりと動き始めた。セレモニーが終わったのだろう。車はどんどんとスピードをあげ、ついにぼくらは高速道路に合流した。高速道路から初めて見下ろしたぼくらの町は両親の言うように、やっぱりとても小さかったけれど、生まれてからずっとこの町で過ごしてきたぼくにとって、これ以上雄大で壮大な景色など他にあるはずも無かった。目に焼き付けておこうとしたものの、高速道路の制限速度は早すぎて、あっという間に、ぼくの視界から外れてしまったのだった。

あれから13年の月日が経ち、ぼくはどこにでもいる、なんてことのない大人になった。25歳になり、一人暮らしをして、なんてことのない仕事をしているただの大人だ。
お盆休みに久し振りに両親の住むマンションに帰ると、母親がハガキを一通渡してきた。タカちゃんからの同窓会の案内状だった。こういうハガキが来たら電話で連絡してほしいと何度も言っているのだが、母はぼくが一人暮らししているのをよく思っていないので「もっと頻繁に帰って来ればいい話でしょ?」という。頑固すぎる性格も困ったもんである。
日程は 8月15日 18時。場所は田舎料理屋 大赤
大赤字みたいで縁起の悪い店名だ。なんだよ、大赤って。ダイアから改名したのかよ。ほんのちょっとだけ面白いじゃないか。
「俺ちょっとタカちゃんのとこ行ってくるわ」
「いまから?18時でしょ?間に合うの?」
「高速飛ばせば19時には着くと思う。それに」
「それに?」
「かき氷を奢らなくちゃいけない約束があるんだ」

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