右手のプシュケ - 3 -




「山本はそのなんとかいう橋から飛び降りたっていうこと?」
「うん」
いつも丁寧な健一にしては珍しく返事はぶっきらぼうな " うん" だけだった。
私は視線をそらして窓に映る見慣れた室内をぼんやり眺めた。
窓の外が暗くなるこの時間帯が一番寂しい。
長いことここにいるけれど、この寂しさにだけは いつまでたっても慣れることができない。
塾は暗くなってからが書き入れ時で、10時過ぎまで賑やかに時が過ぎる。
ここでは暗くなれば後は、不毛だった一日が終わるのを待つばかり。
それが虚しくて情けなくてひたすら寂しい。
「下から見上げた画像しかないけど、こんなとこだよ、滝の口渓谷。高さは深いところで100メートル近くある」
健一がスマホの画像を見せた。
崖下から渓谷にかかる橋を見上げた写真だった。曇り空、谷底に散乱する枯れ枝、人面に似た絶壁。
山本はなぜこんな不気味な崖下に身を投げなければならなかったのだろう。
「なんで…
疑問が多すぎて何を尋ねたらいいかわからなかった。
「彼、東北大の編入試験を受けたらしいんだ。でも失敗して絶望した?…学部編入の合格発表の日なんだ、亡くなったの」
「どうして…
また後が続かなかった。
「芽生さんの話だと理系の学部に編入したがっていたみたいだね。駒場で取っていたのは落とした文系科目だけじゃなくて、編入に必要な理系科目もかなりあったみたいだ。1年の後期から取り始めたから結構大変で、でも頑張ってたって。全然知らなかった、そんなこと」
「学内転部の方が楽だったんじゃないの?」
「いや、文系から理系はかなり難しい。それに比べて東北大はわりと編入に寛容で、転部希望の学生が押しかけてたんだって、それに…
「それに?」
「何より東北大には右手のプシュケがいたからね」
何を言っているのかわからなかった。
「プシュケがいたって?」
「うん、芽生さんに右手のプシュケの話をしたら、彼女、言下にそれは山本君でも、山本君の亡霊でもないって、そう言うんだ」
「そりゃ、彼女は山本が死んだのを知ってたんだから……
「いや、そうじゃなくて。山本君の不自由だった腕はね、右じゃないんだ。彼には左手がなかったんだ。芽生さんはそのことをしっかり覚えてた。ほら、これ」
健一はそう言ってスマホに取り込んだ古い写真を見せた。
卒アルのスナップだった。
山本と何人かのクラスメートが湖をバックに写っていた。
山本は学ラン姿で右手で左腕を抱える仕草をしている。彼のいつものポーズだった。
そうだった。いつも隠すように 不自由な方の腕部を抱えていた。
「左…だね、ないのは…じゃあ…だれ?右手のプシュケは」
「芽生さんも分からないって言うから、まずは調べてみようと思ってね。調査はお手の物だし。
真っ先に東北大の理系学部を調べてみた。知り合いがいたのかなって思ったからね。検索してみたら東北大には応用物理っていう学科がなくて、あるのは宇宙地球物理学科だけだった。
これだなって思ったから地球物理の研究室に電話してみたんだ。
可能性は薄いかなって思ったけど「右手が不自由な研究者の方いらっしゃいますか」って
健一は口頭弁論の時の弁護士みたいにちょっと間をあけて私の顔を窺った。
もったいぶった様子で、先を促すのが癪だったから私も黙って健一の顔を見返した。
彼は少し目を細めて、手のひらで左の頬をひと撫でしてから続けた。
「ビンゴだったよ。針谷正樹さんっていう教授がいた。右手のない地球物理学者」
「彼が山本の知り合いだったってこと?」
「うん、山本匡さんと同窓の者ですって伝えてもらったら先生、すぐに電話に出てくれた。山本君とは養護学校で一緒だったって。針谷さんの方が一学年下だったけど、養護学校では同じクラスで、2人とも海外のSF小説が好きだったとかで すぐに仲良くなったらしい。中学まで一緒で、山本君が高校に進学してからも電話や手紙で連絡を取り合っていた。ケーニッヒは時々、彼の手紙に登場する山本君の友人だったみたいだよ」
「…でもそんなに親しくはしてなかったのに…
「うん、でもね、針谷先生が言ってたけど障害のある彼らに普通に話しかけてくるクラスメートはそんなにいないんだって。君はさりげなく荷物を持ってあげたり、ロッカーの鍵を開けてあげたり、上着を着るのに手を貸したり、ほら、新通りのラーメン屋とかパスタの店、ああいうとこは片手だと入りにくいらしいんだけど、君が誘ってくれたって」
私にとってはなんて言うことのない当たり前の日常だった。
「それを聞いて僕は何をしていたんだろうって思った。僕は高校だけじゃない、大学も学部も一緒だったのに山本君に手を貸したことも、親しく話したこともなかった」
「たまたまだよ。口をきいたことのない同級生なんていくらでもいるよ。それより、山本が編入試験に落ちたっていうのが俺には納得がいかない。目的意識が強くてきちんとやるべきことを万端やりきってから臨むタイプだったからね」
「それがね、針谷 先生が言うにはたぶん面接で落ちたんだろうって」
「成績は足りていたってこと?じゃあ、なんで?」
「それは…だって…わかるだろ」
健一はそう言って白色光が小さな光溜まりを作るクッションフロアに目を落とした。
端正な横顔が怒っているようにも悲しんでいるようにも見える。
夕食の空容器を運ぶワゴンの車輪がコロコロと音をたてて遠ざかり、やがて、しんと静まりかえった。


















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