…なつかしい…

1週間が過ぎ、1か月が経って教壇の高さにもそこから見える教室の景色にもすっかり慣れた。咲き誇っていた桜に代わって少し遠慮がちなハナミズキが街路を彩るようになり、その可憐な白やピンクは慌ただしい日常の小さな慰めになった。
早起きは苦手だったけれど、生徒達と少しずつ仲良くなれる毎日が楽しくて、朝5時半の起床もそれほど苦にはならなかった。
授業では例の色白の少年が何かにつけ私を助けてくれる。
「和差積の公式どう?使える?どんなふうに教えたらみんな分かってくれるか頑張って考えて来たんだけど…
「先生、分かりやすいよ。少なくともベルよりは全然」
「ベル?」
「鈴木先生、鈴はベルじゃん。あと、怒鳴るとベルみたいにうるさいし」
田嶋 伸は私の投げかけに必ず答えてくれた。
「鈴木ってさ、できないやつのこと分かんないんだよね。なんでこんなのわかんないの?みたいに俺らのこと見るよな。馬鹿にしてるってゆうか」
田嶋の言葉を与謝野が引き継いだ。
「俺、ほら いわゆる劣等生だったから高校の頃、だからみんながどこで引っかかるかわかるんだ。自分もしょっちゅうつっかえてたからね」
「先生、劣等生だったの?」と田嶋。
「うん、数学はね、かなり苦手だった」
「えっ、何で?じゃあ何で数学の先生になれたの?」
「苦手だったけど、好きだったからかな、数学」
「好きとかわけわかんない。大嫌いなんですけど、数学」
振り返って吉野真奈美が言った。
ぱんぱんに張った丸い頬はまだ5月だというのに褐色に日焼けしている。
「全部できるようになろうとするから嫌いになっちゃうんだよ。どんな科目でもそうだけど、数学もね、ここだけわかるようになろう、他んとこはいいやって割り切っちゃうと楽になるよ。吉野さんはとりあえず、加法定理の公式を覚えて、あと今日やった和差積んとこの問題だけできるようになればいい。
だけ っていうのが大事。
そもそもこんなにいっぱいあるやつ全部って無理だもの」
「だけでいいの?」
「うん、だけ。だけがだんだん溜まっていって、そしたら数学、ちょっと好きになるかもしれない。誰だってちょっとずつ貯金していって通帳にお金貯まってきたりするとうれしくなるだろ」
「じゃあ加法定理と和差積?それだけやってみる」
「うん、だけの気持ちでね、欲張らないで」
「先生すごいね」
田嶋に突然褒められた。
「え?何で?」
「だって吉野、やる気にしちゃったじゃん」
チャイムが鳴って救われた。
人に褒められるのが何より苦手、22歳の私は褒め言葉を上手に受け止めることのできないまだ未熟な照れ屋だった。
「じゃあ、終わるよ。和差積の公式きちんと使えるようにしといて、42ページの問3、宿題」
教室を出て廊下を職員室に向かう。
途端に憂鬱になる。
あの洞窟のような職員室に戻ると思うとそれだけで気持ちが暗くなる。
私の勤務する大宮の高校では職員室は教科別に分かれていて数学科は三階、西階段の手前にあった。
細長い5〜6坪ほどの部屋に事務机が向かい合わせに8台。突き当たりの窓側、教科主任の机だけがこちら向きになっている。
窓は主任の後ろのそれだけだったから昼なお暗く、窓を背にして座る50がらみの彼がまた死神のように細く干からびていて、その存在が部屋をさらに暗くしていた。
私の席はドア近くの末席、向かいは空席で机の上には教材や書類が山積みになっている。
右隣の井神は35歳、一番歳の近い同僚教師だったが、取っつきにくい男だった。
話しかけてもぶっきらぼう。
「いつも早いですね、どちらから通ってるんですか?」
「幸手」
「さって?何線ですか?」
「東武」
助動詞も助詞もつかない。
乱暴に名詞だけで答えて会話が終わる。
何度話しかけても同じ調子で、そのうち彼とは話をしなくなった。
井神の向こうには40過ぎのおじさん教師が鈴木を含めて4人と、たぶん50を過ぎていただろう、おばさんの教師も1人いて、彼女は時々気を使って私に話を振ってくれるのだけれど、頑なに会話に入ろうとしない井神の頭越しに彼らと話すのも億劫だなって思っているうちにいつの間にか私も寡黙な男になっていた。
休み時間に教材を取りに行くだけなら部屋の雰囲気が少々悪くても気にはならないが、昼休みは50分もあるから井神の隣でくすぶっているだけのこの時間はひたすら苦痛だった。
弁当を食い終わるとすることがない。
しかたがないから教材研究の振りをする。
隣の井神は顎の尖った黒い顔に眉根を寄せて、いつものように岳人をながめている。
本屋でよく見かける山岳雑誌だが、一度も手に取ってみようと思ったことがない。
そもそも山登りをする人種が理解できない。
理解できない私を井神は独特の嗅覚で嗅ぎ分けて、だから、私のことが嫌いなんだろう。
そう思うことにしていた。

沈黙の緊張に耐えかねて廊下に出た。
階段横の窓から夏支度を始めた新緑、その向こうに赤や青の屋根が見える。
ここからの眺めが好きだった。
わざわざ山になんか登らなくたってこれで十分だと思う。
景色は人間の営みが溶け込んでいた方が楽しい。
そんなことを考えていると階段上から男女の一団が降りてきた。
田嶋がいち早く私を見つけて
「先生、何してんの?」
「えっ、ああちょっと哲学な気分なんだ」
「何言ってるかわかんないよって、よく彼女に言われるでしょ」
生意気なことを言う。
「彼女いないからね、言われたことない」
「先生ってどこで飯食ってんの?」
今度は小森。
機敏そうな瞳がくるくる動く。
「そこ、数学職員室」
階段の向こうを指差した。
「なんかめちゃいいもん食ってそう」
「君らと一緒だよ。ママの作った弁当」
真奈美がママに反応して笑いながら
「ママ弁?」
「そう、ママ弁」
「ベルとかベムと一緒?」
話し手が田嶋に戻った。
「ベムって?」
「井神。妖怪人間ベム、そっくりじゃんあいつ」
なるほど、目が確かにベムだった。
ちょっと笑いながら
「そうベムの隣、ベルもいる。ベムとベル」
「つまんないしょ、あいつら」
「そもそも職員室がつまんない。息詰まりそう、あんなとこで毎日飯食ってたら間違いなく消化器系の病気になるね」
「じゃあ明日からうちらと一緒にお昼食べようよ、屋上で、ね?ケーニッヒのママ弁見たいし」
真奈美が前髪を右手でかきあげながら言う。
突然の申し出に照れ屋の私は戸惑った。
もちろん洞窟で食うより彼らと一緒の方が楽しいに決まってる。
「ねえ、ケーニッヒ先生そうしようよ」
安藤京子がちょっとしなを作る。
京子はクラス一、いや学年一の美少女だと思う。
黒目の比率が少女漫画のヒロイン並みに大きいのに他の造作は鼻も口も極端に小さく、それが全体的に可憐な雰囲気を醸し出している。
「よし決まり。明日俺たち迎えに寄るから、準備して待ってて」
田嶋がそう言って
「決まりだからね〜
真奈美が手をひらひらさせながら念を押して彼らは教室に戻って行った。





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