昔が…

教室から溢れ出てくる喧騒が懐かしかった。
ひとつひとつの他愛ない会話が塊になって大きな混合音を作り上げ、廊下に響きわたる。
前を行く教務主任の塚田は頑なに沈黙をまもったまま「ここです」とも「着きました」とも言わずに開いたままのドアから2年3組の教室に入って行った。
私も後に続く。
たちまち全てのおしゃべりが中断され、一度塚田に集まった生徒達の視線はすぐに私に向けられた。
「昨日の朝会で紹介したね。今日から君らの数学を担当してくださる渡辺先生です」
ちょっと間をとってクラス中を見回してから
「じゃあよろしくお願いします」
一言私にそう言って彼は出て行った。
何十もの若い好奇の眼差しが取り残された私に集中して、一瞬次にどうしたらいいかわからなくなった。
気づかれないように小さく深呼吸をしてから、平静を装って教壇に上がった。
「えー渡辺です」
しまった、声が小さい、しかも少し震えていた。
その失敗が用意していた次の言葉を奪ってしまった。
何を言うんだっけ。
授業に入るのはまだ早いし。
どうしよう。
「えー
と言ったまま数秒か数十秒、時が流れた。
落ち着いているつもりだったのにてんぱっていた。
助けてくれたのは窓際3列目、色白、細面の男子生徒だった。
「先生、いくつですか?」
憎めない笑顔、目尻にすこししわが寄る。
「えっ?ああ、22。って言っても3月生まれだからまだ22歳になっていくらも経ってない。あんまり22歳に慣れてないんだ」
教室が少し湧いて楽になった。
言うはずだった言葉を思い出した。
「わたなべけいにっていいます」
と言って黒板に渡辺圭仁と書いて、圭仁に線を引き、ふりがなをふった。
「これでけいにって読みます。ケーニッヒってドイツ語で王様、英語のキング、変な名前だけど22年間これでやってます」
生徒達は顔の片方だけほんの少し笑顔になって、うまい具合に緊張がほぐれた。
「じゃあ勉強始めるよ。鈴木先生から加法定理まで説明終わってますって、引き継ぎを受けたんだけど、大丈夫かな?…大丈夫じゃない?…」
窓越しに校庭の桜が少し風にそよいでいるのが見えた。
教師1日目の朝、ようやく落ち着いて周りが見えるようになっていた。







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