トキーオ(19.3)




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 宮沢賢治は、童話の中では東京を「トケイ」「トケウ」「トキーオ」などと呼んでいました。「トキーオ」は、エスペラント語で東京のことです。


 東京での賢治の足跡をたどります。




尾崎喜八と高井戸






 ああその古枝をかざる鮮かな銀と薄みどり、
 花梨
(かりん)の木陰に朝の水汲みに
 無量の地下水は由旬
(ゆじゅん)かなたの空よりも青い、
 野天厨房の釜の蓋を
 飯はただならぬ歓喜を押し上げ、
 田園の奥深い春を尋ねさまよう微風
(そよかぜ)
 あけひろげた窓や戸口を吹きめぐって、
〔…〕

 やがて来るのは昼間の静寂、仕事の時、
 杉戸をへだててそれと聴こえるペンの走り、
 絹のおもてを縫いすすむ針のあゆみ、
〔…〕

 けれどもやがて楽しい休息の時が来れば
 私たちの熱した心はときはなたれ、
 やがて太陽は傾き、木々の影の長くなるまで
 のびのびとした村の散歩に出かけるのだ、
 もう仏ノ座が畑の隅を空色にいろどり、
 紫雲英
(れんげそう)が田圃のあぜを赤くしているかと。〔…〕

尾崎喜八第三詩集『曠野の火』(1927年)より「天然の一日」(部分)⇒:尾崎喜八文学館






 宮沢賢治は尾崎に、自費出版の『春と修羅』を寄贈し、尾崎はこれをたいへん喜んで受け取っていたこと、また、高井戸での半農生活を表白した尾崎の詩↑を見れば、このふたりの詩人は、ひじょうに近い道を歩いていたように思われます。

 尾崎の生活ぶりが、賢治の「羅須地人協会」での自耕生活に近いだけでなく、「古枝をかざる鮮かな銀と薄みどり」「無量の地下水は由旬かなたの空よりも青い」といった詩の表現も、『春と修羅』からの影響を感じさせます。同じ時期のほかの詩には、雲のすがたを方解石にたとえて描いたものもあります。

 しかし、賢治が尾崎宅を訪問した時、あいにく喜八は留守でした。




杉並区高井戸東2丁目







「講師 宮沢賢治が先生のお宅に訪ねていらしたことがあったそうですね。

 尾崎 ありましたね。ちょうど私は旅行中で留守だったんです。
〔…〕宮沢さん、そのいらした用の中には、もうひとつ私に会う、私の顔を見ることと、もうひとつは童話を書いていらっしゃって、チェロ弾きゴーシュですか、そのチェロの弾き方ですか、それをまあ、簡単に教えてもらいたいと言って。私はその時分、今ですとNHK交響楽団ですが、その時分近衛秀麿さんがやっていた新交響楽団、そのチェロの人を知っておりましたので、その人に、その、紹介してくれって、してあげたらしいんです。家内が紹介してあげたんですね。そこでもって2時間ぐらいそそくさとやってもらって帰られたそうです。その時、高村さんの所に寄ったらしいんですよ。

 講師 先生のお宅へ行ってからその後で。

 尾崎 はあ。

 講師 そうですか。

 尾崎 高村さんはお会いになったらしいですよ。

 講師 そうですか。

 尾崎 私は、ついに会わない。」

NHK教育テレビ高校講座「現代国語」1970年8月3日放送.
⇒:尾崎喜八資料・第7号


∇ 関連記事(高村アトリエ訪問)⇒:トキーオ(18)






「昔賢治が喜八を訪ねてこられた事があり、生憎喜八は留守で実子だけがお逢いした。その時賢治にチェロを短時間で習いたいのだが誰か先生を紹介して欲しいと頼まれ、当時親しくしていた新交響楽団のトロンボーン奏者でチェロも弾かれる大津三郎氏を紹介した事があった、
〔…〕

 実子は、『喜八の不在中に岩手から賢治氏が訪ねて来られ、頼みに応じて大津氏ならその望みを叶えてあげて下さるだろうと思って住所氏名を教え、尾崎家から聞いてきたとおっしゃるようにと言ってお帰しした。』と覚えているが、その時期は定かでない。しかし、我が家ではこの事柄は私の幼い頃から言い伝えられてきている。」

「尾崎喜八と宮沢賢治」⇒:尾崎喜八資料・第7号







杉並区高井戸東2丁目

周囲はすべて宅地化されて、かつてのおもかげは
ありませんが、この一角だけは都市計画の
「生産緑地地区」として空き地が残っています。





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