ニセコ (5)




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北の大地に宮沢賢治の足跡を追っていきます。






羊蹄山と有島農場
(5)





「農場は開拓以来、十年に近い掠奪農業のため土地は痩せ、小作人は―第1次世界大戦の余波による好況時以外は―絶えず窮乏していた。凶作時の小作料の減額にも厳しく、この農場に君臨した父、武が没したのは大正5年
〔1916年――ギトン注〕であった。

 その後、解放の時期を待っていた有島が、解放後の農民の経済的自立を考え、勧業銀行から借金をし、水田造成のための灌漑溝工事にかかったのは大正10年である。大正11年
〔1922年――ギトン注〕7月18日、有島は場内の弥照神社に第1,第2の小作人を集め、農場全体を小作人全員の共有として無償解放することを宣言した。〔…〕

 有島は解放後の理想の農場の現実を目にし得なかった。大正12年6月9日、波多野秋子と軽井沢の別荘で縊死したからである。」

高山亮二『有島武郎とその農場・農団』より







農場解放紀念碑 
旧・有島第1農場

1922年に武郎が小作人に農場を解放(無償譲渡)
したあと、小作人らの懇請によって記念碑の
建立が計画されましたが、有島が起草した
碑文を当局は許可しませんでした。

1923年に有島が自死したあと、弟・有島生馬
によって、この題字だけを記した碑が建てら
れました。裏面には、生馬の案文で

 父有島武開拓之
 子武郎解放之

と記されています。







彌照
(いやてる)神社 旧・有島第1農場

1922年7月18日、有島武郎はここに
小作人たちを集めて、農場を
彼らに解放すること、今後は
自らの共有農場として管理
すべきことを告げました。

鳥居の向こうの緩やかな石段と社殿が
“解放宣言”を行なった場所。



「7月18日の午後、彼は弥照神社の社殿に第1,第2の小作人を集めて解放の主旨を話した。30分余に亘る話の要旨は次のようなものであった。


 『この土地の全てを諸君に無償で譲渡します。しかし、それは諸君の個々に譲るのではなく、諸君が合同してこの全体を共有するよう御願いするのです。

  その理由は、生産の大本となる空気、水、土地という類のものは、人類が全体で使用し、人類全体に役立つよう仕向けられねばならず、一個人の利益によって私有されるべきものでないからです。

  諸君全体がこの土地に責任を感じ、助け合って生産を計り、周囲の状況の変化する結果となることを祈ります。』


 農民達は有島の言うことを十分理解することは出来なかった。が〈もう年貢はいらない〉という現実だけは直感できた。彼等は転ぶように神社の階段をかけ降りたという。翌日狩太駅を発つ有島を小作人の大部分が見送り、名残りを惜しんだ。」

高山亮二『有島武郎とその農場・農団』より






「A 北海道農場開放に就ての御意見を伺ひたいのですが。殊に、開放されるまでの動機やその方法、今後の処置などに就いてですな。

 B 承知しました。

   
〔…〕私の場合は、勿論現代の資本主義といふ悪制度が、如何に悪制度であるかを思つたことゝ、直接の動機としては、資本主義制度の下に生活してゐる農民、殊に小作人達の生活を実際に知り得たからです。小作人達の生活が、如何に悲惨なものであるかは分り切つたことですが、先ず具体的に言ひませう。私の狩太村の農場は、戸数が六十八九戸、……約七十戸といふところですが、それが何時まで経つても掘立小屋以上の家にならないで、二年経つても三年経つても、依然として掘立小屋なんですね。

   北海道の掘立小屋は、それこそ文字通りの掘立小屋で、柱を地面に突き差して、その上を茅屋根にして、床はといへば板を列べた上に筵を敷いただけ、それで家の中へ水が這入つて来ないやうに家の周囲に溝を作へるのです。全戸皆がこんな掘立小屋で、
〔…〕

   農民達はそんなことに満足してはゐないのですが、家らしい家を建てるまでの運びに行かないのです。一口に言へば、何時まで経つてもその日のことに追はれてゐて、そんな運びに至らないのです。小作料やら、納税やら、肥料代やら、さういつた生活費に追はれてゐて、何時まで経つても水呑百姓から脱することが出来ないのです。――

 それにあのとほり、一年の半分は雪で駄目だものですからな。冬も働かないわけではないのですが、――それよりも、鉄道線路の雪掻きや、鯡
(にしん)漁の賃銀仕事に行けば、一日に二円も二円五十銭もの賃銭がとれるのですから、百姓仕事をするよりも余程お銭が多くとれるのですが、とればとれるで矢張り贅沢になつたり、無駄費ひが多くなつたり、それに寒いので酒を飲む、飲めば賭博をする。結極余るところが借金を残す位ゐのもので、何うにも仕様がないのです。

      
〔…〕

   これにしても北海道の商人はなか\/狡猾で、農民達の貧乏を見込んで、作物が畑に青いままである頃から見立て買ひをして、ちやんと金を貸しつけて置くのです。ですから、どんな豊作の時でも農民はその豊作の余慶を少しも受けないことになるのです。

 A 商人達の狡猾なのは論外です。殊に、北海道あたりでは、未だ植民地的な気風が残つてゐるのでせうから質が悪いかも知れません。――それにしても、あの農場を開放されるまでには随分と、各方面からの反対もありましたでせうな?

 B ありました。資本主義政府の下で、縦令
(たとへ)ば一個所や二個所で共産組織をしたところで、それは直ぐ又資本家に喰ひ入られて終ふか、又は私が寄附した土地をその人達が売つたりして、幾人かのプチブルジョアが多くなる位ゐの結果になりはしないか。結極、私がやることが無駄になりはしないか。といふやうな反対意見があつたのです。〔…〕

   実は共済農団を、共産農団にしたかつたのです。共済なんかといふ煮え切らないものよりは、率直に共産の方がいゝのですからな。ところが、これが又皆の反対を買つたのです。共産といふ字は物騒で不可い。他の文字にして欲しいといふのです。それも、森本君
〔武郎の親友で北大教授・弁護士。産業組合法に準拠して、解放後の共有農場の組織を設計した―――ギトン注〕なんかよりも、大学の若い人達や、村長、管理者などに反対者があるのですから可笑しいですね。

      
〔…〕

   私も一旦農場を寄附する以上、今後は何うなつてもいゝやうなものゝ、再び資本家の手に這入つて終ふやうなことは仕度くありませんので、その悪結果を防ぐ方法として、先つきの話のとほり、共産組合の組織にしようとしてゐるのです。

 今度の成案などは、まだ\/ほんの初めのことで、不完全なものでせうが、組織は農団組合を管理する理事を置いて、これが実務に当ることになるのです。その外に、幹事を数名置くことになりますが、これが会社でいふ監査役といふところです。こんなものが、農民自身の選挙で置かれることになります。
〔…〕




有島武郎像 
有島武郎記念館






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