ニセコ (3)




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北の大地に宮沢賢治の足跡を追っていきます。






羊蹄山と有島農場
(3)





「五月廿日

        *

 いま窓の右手にえぞ富士が見える。火山だ。頭が平たい。焼いた枕木でこさえた小さな家がある。熊笹が茂っている。植民地だ。

        *」

宮沢賢治『或る農学生の日誌』より。
(原文は旧仮名遣い) 




 賢治の『農学生の日誌』に、「植民地」という言葉が出てきますが、当時の語感ではこの言葉は、先住民を支配するという意味をかならずしも含んでいませんでした。未開の原野に移住して開拓することを、ふつうに「植民」と呼びならわしていました。すくなくとも使用者の意識では、それは「開拓」ないし「拓殖」と同義語でした。このあと、札幌で見学した開拓史の資料館である「拓殖館」を、賢治は「植民館」と呼んでいますが、これも当時のふつうの呼称だったと思われます。

 まったく同じことがらが、戦後は「植民」の語を避けて、「入植」という言葉に置き換えられていったのです。



 じっさい、「植民地だ。」という『農学生の日誌』の感嘆の叫びに呼応して、『白藤日記』では、窓外に展開する原野開拓の状況に驚きの声を上げる生徒たちのようすが記録されています。

 この狩太(戦後、町名と駅名を「ニセコ」に変更)のあたりは、道央で最も開拓が遅れた地域で、函館-小樽間の鉄道が貫通する前後から入植者が増え、開墾も本格化したのでした。

 羊蹄山、ニセコ連峰という火山群にかこまれた高原は、うねるようなゆるやかな傾斜の連続で、そこに開拓者たちは、冬の間も開墾の鍬を休めようとはしなかったのです。積雪した原野のなかに、雪をかぶっていない切り株が点々と見えることから、それがわかるのでした。







羊蹄山と耕野 
有島農場から






「北海道の冬は空まで逼
(せま)っていた。蝦夷富士といわれるマッカリヌプリの麓に続く胆振(いぶり)の大草原を、日本海から内浦湾に吹きぬける西風が、打ち寄せる紆濤(うねり)のように跡から跡から吹き払っていった。

 寒い風だ。見上げると八合目まで雪になったマッカリヌプリは少し頭を前にこごめて風に歯向いながら黙ったまま突立っていた。昆布岳の斜面に小さく集った雲の塊を眼がけて日は沈みかかっていた。

 草原の上には一本の樹木も生えていなかった。心細いほど真直な一筋道を、彼れと彼れの妻だけが、よろよろと歩く二本の立木のように動いて行った。

      
〔…〕


 この日も昨夜
(ゆうべ)の風は吹き落ちていなかった。空は隅から隅まで底気味悪く晴れ渡っていた。そのために風は地面にばかり吹いているように見えた。

 佐藤の畑はとにかく秋耕
(あきおこし)をすましていたのに、それに隣(とな)った仁右衛門の畑は見渡す限りかまどがえしみずひきあかざとびつかとで茫々としていた。ひき残された大豆の殻(から)が風に吹かれて瓢軽(ひょうきん)な音を立てていた。あちこちにひょろひょろと立った白樺はおおかた葉をふるい落してなよなよとした白い幹が風にたわみながら光っていた。

 小屋の前の亜麻をこいだ所だけは、こぼれ種から生えた細い茎が青い色を見せていた。跡は小屋も畑も霜のために白茶けた鈍い狐色だった。
〔…〕

 仁右衛門は一本の鍬で四町にあまる畑の一隅から掘り起しはじめた。外
(ほか)の小作人は野良仕事に片をつけて、今は雪囲(ゆきがこい)をしたり薪を切ったりして小屋のまわりで働いていたから、畑の中に立っているのは仁右衛門夫婦だけだった。

 少し高い所からは何処までも見渡される広い平坦な耕作地の上で二人は巣に帰り損ねた二匹の蟻のようにきりきりと働いた。
〔…〕
有島武郎『カインの末裔』より。
(原文は旧仮名遣い) 






旧・有島農場入口

に立つ「狩太共生農団」の碑

「狩太共生農団」は、地主・有島武郎が
無償解放した農地で、元小作人たちが
組織した共有者の相互扶助団体です。




有島記念館 
ニセコ町有島






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