南昌山と毒ヶ森(2)




ランキングヘ





 紫波山塊は、盛岡の南にあって、釣鐘形の峰が寄り集まった形をしています。

 これらは、古い火山の火道(噴火口の下にあるマグマの通り道)などの硬い岩塊が、まわりが浸蝕された後に残って突き出ているのだと言われています。







南 昌 山





「向うに毒ヶ森から出て来る小さな川の白い石原が見えて来ました。その川は、ふだんは水も大へんに少くて、大抵の処なら着物を脱がなくても渉れる位だったのですが、一ぺん水が出ると、まるで川幅が二十間位にもなって恐ろしく濁り、ごうごう流れるのでした。ですから川原は割合に広く、まっ白な砂利でできていて、処々にはひめははこぐさやすぎなやねむなどが生えていたのでしたが、少し上流の方には、川に添って大きな楊の木が、何本も何本もならんで立っていたのです。私たちはその上流の方の青い楊の木立を見ました。

 『どの木だろうね。』
 『さあ、どの木だか知らないよ。まあ行って見ようや。鳥が吸い込まれるって云うんだから、見たらわかるだろう。』

 私たちはそっちへ歩いて行きました。

 そこらの草は、みじかかったのですが粗くて剛
(こわ)くて度々(たびたび)足を切りそうでしたので、私たちは河原に下りて石をわたって行きました。

 それから川がまがっているので水に入りました。空が曇っていましたので水は灰いろに見えそれに大へんつめたかったので、私たちはあまのじゃくのような何とも云えない寂しい心持がしました。

 だんだん溯
(のぼ)って、とうとうさっき青いくしゃくしゃの球のように見えたいちばんはずれの楊の木の前まで来ましたがやっぱり野原はひっそりして音もなかったのです。

      
〔…〕

 野原には風がなかったのですが空には吹いていたと見えてぎらぎら光る灰いろの雲が、所々鼠いろの縞になってどんどん北の方へ流れていました。

      
〔…〕

 『きっと鳥はくちばしを引かれるんだね。』
 『そうさ。くちばしならきっと磁石にかかるよ。』
 『楊の木に磁石があるのだろうか。』
 『磁石だ。』

 風がどうっとやって来ました。するといままで青かった楊の木が、俄かにさっと灰いろになり、その葉はみんなブリキでできているように変ってしまいました。そしてちらちらちらちらゆれたのです。

 私たちは思わず一緒に叫んだのでした。

 『ああ磁石だ。やっぱり磁石だ。』

 ところがどうしたわけか、鳥は一向来ませんでした。」

宮沢賢治『鳥をとるやなぎ』より。
(原文は旧仮名遣い) 







煙山ダム

『鳥をとるやなぎ』で、二人の
少年が探検した河原は、今では
大部分が水底に没していますが、
一部は残っています。
これが、「煙山の野原」。




煙山ダム

よく見ると、ダム湖の岸にも、
楊の木立ちが並んで生えています。



 「やなぎ」と言うと、関東から西の人は、東京の銀座通りのような“しだれやなぎ”を思い浮かべますが、宮沢賢治の「やなぎ」は「楊」、枝がまっすぐ天に向って伸びている種類です。種名でいうと、「やまならし」「どろのき」「はこやなぎ」「ポプラ」などです。

 もともと中国では、“しだれやなぎ”は「柳」、まっすぐのやなぎは「楊」と云い、あわせて「楊柳」と呼びました。東北〜北海道でも、華北から朝鮮半島、シベリアにかけての地方でも、“やなぎ”は、下に垂れない「楊」が中心なのです。






「その時、こっち岸の河原は尽きてしまって、もっと川を溯るには、どうしてもまた水を渉らなければならないようになりました。

 そして水に足を入れたとき、私たちは思わずばあっと棒立ちになってしまいました。向うの楊の木から、まるでまるで百疋
(ぴき)ばかりの百舌(もず)が、一ぺんに飛び立って、一かたまりになって北の方へかけて行くのです。その塊は波のようにゆれて、ぎらぎらする雲の下を行きましたが、俄かに向うの五本目の大きな楊の上まで行くと、本当に磁石に吸い込まれたように、一ぺんにその中に落ち込みました。みんなその梢(こずえ)の中に入ってしばらくがあがあがあがあ鳴いていましたが、まもなくしいんとなってしまいました。

 私は実際変な気がしてしまいました。なぜならもずがかたまって飛んで行って、木におりることは、決してめずらしいことではなかったのですが、今日のはあんまり俄かに落ちたし事によると、あの馬を引いた人のはなしの通り木に吸い込まれたのかも知れないというのですから、まったくなんだか本当のような偽
(うそ)のような変な気がして仕方なかったのです。

 慶次郎もそうなようでした。水の中に立ったまま、しばらく考えていましたが、気がついたように云いました。

 『今のは吸い込まれたのだろうか。』

 『そうかも知れないよ。』どうだかと思いながら私は生
(なま)返事をしました。

 『吸い込まれたのだねえ、だってあんまり急に落ちた。』慶次郎も無理にそうきめたいと云う風でした。

 『もう死んだのかも知れないよ。』私は又どうもそうでもないと思いながら云いました。

 『死んだのだねえ、死ぬ前苦しがって泣いた。』慶次郎が又斯
(こ)うは云いましたが、やっぱり変な顔をしていました。

 『石を投げて見ようか。石を投げても遁げなかったら死んだんだ。』

 『投げよう。』慶次郎はもう水の中から円い平たい石を一つ拾っていました。そして力一ぱいさっきの楊の木に投げつけました。石はその半分も行きませんでしたが、百舌はにわかにがあっと鳴って、まるで音譜をばらまきにしたように飛びあがりました。

 そしてすぐとなりの少し低い楊の木の中にはいりました。すっかりさっきの通りだったのです。

 『生きていたねえ、だまってみんな僕たちのこと見てたんだよ。』慶次郎はがっかりしたようでした。

 『そうだよ。石が届かないうちに、みんな飛んだもねえ。』私も答えながらたいへん寂しい気がして向うの河原に向って又水を渉りはじめました。

 私たちは河原にのぼって、砥石になるような柔らかな白い円い石を見ました。ほんとうはそれはあんまり柔らかで砥石にはならなかったかも知れませんが、とにかく私たちはそう云う石をよく砥石と云って外
(ほか)の硬い大きな石に水で擦(こす)って四角にしたものです。慶次郎はそれを両手で起して、川へバチャンと投げました。石はすぐ沈んで水の底へ行き、ことにまっ白に少し青白く見えました。私はそれが又何とも云えず悲しいように思ったのです。

  その時でした。俄かにそらがやかましくなり、見上げましたら一むれの百舌が私たちの頭の上を過ぎていました。百舌はたしかに私たちを恐れたらしく、一段高く飛びあがって、それから楊を二本越えて、向うの三本目の楊を通るとき、又何かに引っぱられたように、いきなりその中に入ってしまいました。」

宮沢賢治『鳥をとるやなぎ』より。
(原文は旧仮名遣い) 







岩崎川 
河袋
ダム湖の 300m ほど上流。

このへんから上流は谷川になり、
大小の岩が河床にころがっています。



 ↑上の文中の「柔らかな白い円い石」は、「のろぎ」(ロウセキ)でしょう。『宮沢賢治語彙辞典』によると、「のろぎ」が産出するのは、もっと上流の北ノ沢・大滝附近ですが、煙山ダムからは、かなり距離があります。やはり、童話の舞台はそんなに奥のほうではなく、「のろぎ」の岩塊が下流まで流されてきているのだと思います。



「賢治と慶次郎は、川の水の中をばしゃばしゃさせながら小鳥を捜して歩いていたらしい。そのうち、突然、『百疋ばかりの百舌』が一ぺんに飛び立ち、ひとかたまりになって北に向っているのにぶつかったが、その群れは、大きな大きな楊の木の上までいくと本当に磁石に吸い込まれたように、この楊の梢の中に入ってしまった。二人の少年は驚きにかわったようである。

      
〔…〕

 とうとうエレッキの木を賢治たちは発見したらしい。特に、魔法の木に吸い込まれた鳥たちが、『死ぬ前苦しがって泣いた』という慶次郎の言葉に余韻が感じられるのはわたしだけだろうか。彼はもし本当にこの通り言ったのなら、まもなく自分を襲う死の運命を予告していたことになろうから。しかし、二人が木に向って石を投げると、百舌は、があっと鳴いて一斉に逃げ散り、エレッキの木の謎はたちまち嘘と分ったのであった。しかし、それでいてこの童話が少しも明るくなく、暗いイメージを漂わせているのは、童話の舞台が一層暗くさせているのかもしれない。」

金子民雄『山と森の旅』,pp.81-82.



 金子さんは、「エレッキの木の謎はたちまち嘘と分った」と書いておられますが、それはあくまで“おとな”の見方でしょう。ギトンの読み方は、少し違います。

 モズの群れが樹に吸い込まれて消えてしまう(食べられてしまう?)ように見えるが、石を投げれば飛び立つのだから、そんなことはない。鳥が一斉に樹に舞い下りただけだ。何かに引っ張られて落ちるように見えるのは、気のせいだ。―――これが“おとな”の見方であり、科学的な見方です。

 二人の少年もまた、“おとな”として行動したいと思っていますから、二人の間の会話では、科学的な見方に基いて、“エレキの楊の木など、ここにはない”と言うのです。

 しかし、かれらの内心の思いは、表面の言動を裏切っています。モズの群れが落ちてゆくのは、どうしても怪異現象のような気がしてしかたないのです。

 「野原はひっそりして音もなかった」「ぎらぎら光る灰いろの雲が、所々鼠いろの縞になってどんどん北の方へ流れていました。」空が曇っていたので「水は灰いろに見えそれに大へんつめたかったので、私たちはあまのじゃくのような何とも云えない寂しい心持がしました。」といった周囲の状況、また、「白い円い石」が水の中に青白く沈んでゆくようすなどが、少年たちの心理に影響して、そのような感情を起させている――と見ることは、もちろんできます。しかし、それもまた、外部からの科学的な観察にすぎません。科学的な観察によって、“人間の真実”を知ることはできないのです。

 「この童話が少しも明るくなく、暗いイメージを漂わせているのは、童話の舞台が一層暗くさせているのかもしれない。」といった、客観的・科学的な見方では、この童話は解けないと思います。

 「(鳥たちは樹の中から)だまってみんな僕たちのこと見てたんだよ。」という慶次郎の発言からもわかるように、少年たちは、鳥たちによって、また、野原全体の背後に隠れた超自然的な意志によって、自分たちの行動が監視されているように感じています。家や学校でのふだんの生活がある世界とは違う異様な世界、“意志ある自然”に支配された別世界に入りこんでしまったような、気味悪い感情にみたされてゆくのです。






「それから毒ヶ森の麓の黒い松林の方へ向いて、きつねのしっぽのような茶いろの草の穂をふんで歩いて行きました。

 そしたら慶次郎が、ちょっとうしろを振り向いて叫びました。

 『あ、ごらん、あんなに居たよ。』

 私もふり向きました。もずが、まるで千疋ばかりも飛びたって、野原をずうっと向うへかけて行くように見えましたが、今度も又、俄かに一本の楊の木に落ちてしまいました。けれども私たちはもう何も云いませんでした。鳥を吸い込む楊の木があるとも思えず、又鳥の落ち込みようがあんまりひどいので、そんなことが全くないとも思えず、ほんとうに気持ちが悪くなったのでした。

 『もうだめだよ。帰ろう。』私は云いました。そして慶次郎もだまってくるっと戻ったのでした。

 けれどもいまでもまだ私には、楊の木に鳥を吸い込む力があると思えて仕方ないのです。」

宮沢賢治『鳥をとるやなぎ』より。
(原文は旧仮名遣い) 




 作者は、この童話の最後を、「けれどもいまでもまだ私には、楊の木に鳥を吸い込む力があると思えて仕方ないのです。」と書いて、しめくくっています。少年たちは、「馬を引いた人」が語ったような怪異現象は、じっさいには無かったと確認する会話を交わしあいながら、内心では、怪異現象の確信をますます強めているのです。

 これを、もっと広いパースペクティヴで言うと、二人の少年は、「エレキのやなぎの木」は、電気か磁力装置で働く機械のようなものだという予感をもって、この探検を始めたのだと思います。


「風がどうっとやって来ました。するといままで青かった楊の木が、俄かにさっと灰いろになり、その葉はみんなブリキでできているように変ってしまいました。そしてちらちらちらちらゆれたのです。」


 という楊の樹のようすを見て、「ああ磁石だ。やっぱり磁石だ。」と叫ぶ彼らの“発見”に、そのことが現れています。少年たちは、彼らなりに、近代的・科学的な構えを持して、この場にやってきたのだと言えます。

 宮沢賢治が童話の創作をしていた 20世紀はじめの日本では、鉄道と電気が、近代化の推進力として急速に普及をはじめていました。石油ランプから、ガス灯、アーク灯へ、さらに白熱電灯へと、灯火は急速に進歩し、街と村のすみずみから迷信の暗い影を追い払ってゆくように見えました。山川藪沢の「やおろずの神」は迷信として否定され、村々の神社は国家統制のもとに編成・統合され、人々の心を近代国家建設に集中させるための帝国の“装置”として動員されたのです(吉見俊哉,テッサ・モーリス=スズキ『天皇とアメリカ』,2010,集英社新書,pp.43f,54f)。


∇ 参考記事(シヴェルブシュ『闇をひらく光』)⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 8.4.5.



 そのような時代環境のなかで、宮沢賢治という人の特質は、近代的⇔土俗的、科学的⇔内面的、国家主義的⇔自由主義的‥‥という顕著な二面性をそなえていたことだと思います。

 当時日本に2校しかなかった高等農林学校で修練を受け、科学者ないし農業技術者としての近代的で、国家主義にも沿う資質を発揮しつつも、その一方で彼の詩人の魂は、日本の近代社会と帝国国家が切り捨てようとしていた「やおろずの神」の領域、“迷信”の領域に、深く根を張っていたのです。彼の主張した「心象スケッチ」、“自然との交感”といったものは、あたかも科学的な装いをこらしながら、そのじつ、科学や近代宗教の枠からはみ出てしまうような“迷信”の世界、人間の内面の世界、少年期に純粋に表れるような超常感覚と感情の世界に深く入りこんでゆくものでした。

 『鳥をとるやなぎ』の二人の少年も、学校などでそうした近代的な教育を仕込まれ、そのスキームに沿って行動しようと心がけている一方で、地元の野山での体験は、怪異現象の世界、“内面の真実”の世界へと、彼らを深く没入させてゆくのです。

 賢治童話がもつ・この後者の側面は、その作品群が、1世紀をへだてた私たちにも深い感動を与える根拠となっています。しかしそればかりでなく、同時に、私たちの見方、生き方、また、こんにちの科学、技術、社会に関する私たちの洞察に対しても、大きなヒントになってゆくと思うのです。







宮沢賢治歌碑 
河袋
煙山ダムから 1.5km ほど上流の
岩崎川の畔にあります。
ここからは、南昌山がよく見えます。



      ※

 まくろなる
 石をくだけばなほもさびし
 夕陽は落ちぬ
 山の石原

      ※

 毒ヶ森
 南昌山の一つらは
 ふとおどりたちてわがぬかにくる

『歌稿B』#239,240.



 盛岡高等農林に入学した 1915年4月頃の短歌です。煙山〜南昌山のあたりに、岩石採集に来ていると思われます。「毒ヶ森」も歌われていますが、やはりこのへんからも「毒ヶ森」は見えません。もっとも、「一つら(連)」ということで、毒ヶ森に続く尾根は、たしかに見えているわけです。







毒ヶ森 
南昌山5合目附近から。
2つの山が重なっているのがわかるでしょうか?
右・奥が「毒ヶ森」。左・手前は無名峰。

この辺まで登って来ると、
ようやく、毒ヶ森が顔を出します。



 ↑ここは、高圧電線の鉄塔のおかげで灌木が刈り払われているので、見通しがよいのです。他の場所では、木の間越しにしか見えません。

 もちろん、「毒ヶ森」のすぐ麓まで行けば、よく見えるのですが、箱ヶ森から縦走してそこまで行ったのは、もうだいぶ前のこと。写真もアナログで、ここに出せないのが残念です。




毒ヶ森
(左) 南昌山(右) 雫石町春木場から。

「毒ヶ森」を平地から見るには、
“うら”から見たほうが、よく見えます。




∇ 参考画像(毒ヶ森)⇒:
【岩 頸】









南昌山頂上


山頂には古い石柱がたくさん立てられ
しめ縄が張られています。この石柱は
天候の安定を祈願するもので、傍らには
雨乞いのための「獅子頭」の石仏もあります。



 「南昌山」頂上の説明板と、『宮澤賢治語彙辞典』の記述を併せると、「南昌山」は、平安時代に坂上田村麻呂が、築城のために天候の安定を祈願して「徳ヶ森」と名づけ、宮柱を建てたとの言い伝えがあるそうです。

 しかし、江戸時代には、この山は「毒ヶ森」と呼ばれていました。山中には白竜が棲み、暴れると雲が峰を覆い、毒気で人々を苦しませると言われていたそうです。そこで、1703年に空念という僧が頂上に青竜権現の祠を建てて竜を鎮め、盛岡藩主南部信恩(久信)に進言して、中国江西省の山の名を借りて「南昌山」に改名したとされます。あるいは、信恩公が儒学者根市恭斉に命じて改名させたとも。

 つまり、「毒ヶ森」とは、もともとは現在の南昌山のことだったのです。おそらく、「南昌山」に変ったあとで、地元では、そのさらに奥の山を「毒ヶ森」と呼ぶようになったのでしょう。

 明治時代の『大日本地名辞書』(1900-1907年刊行)にも、南昌山の名はもと毒ヶ森だったと書いてあるそうです。そうすると、宮沢賢治も、この地名の由来を知っていた可能性は高いことになります。

 『鳥をとるやなぎ』の「毒ヶ森」は、こうした由来を踏まえているかもしれません。いずれにせよ、「南昌山」よりは「毒ヶ森」のほうが、怪異童話の舞台に聳える山の名にふさわしいと考えたのでしょう。



「この山の洞窟に青竜がいて、毒を吹いて雲を起こし雨を降らせたとも言う。実際この山に雨が降れば盛岡も必ず雨になると言う。」

『定本・宮澤賢治語彙辞典』「南昌山」より。


 青竜か白竜かわかりませんが、ともかく、山にいて疫病や災厄をもたらす竜を、偉い坊さんが洞窟や地下に封じ込めたという伝説は、全国に多くあります。

 宮沢賢治について言えば、『竜と詩人』という散文作品が想起されます:



「龍のチャーナタは洞のなかへさして來る上げ潮からからだをうねり出した。

 洞の隙間から朝日がきらきら射して來て水底の岩の凹凸をはっきり陰影で浮き出させ、またその岩につくたくさんの赤や白の動物を寫し出した。

 チャーナタはうっとりその青くすこし朧ろな水を見た。それから洞のすきまを通して火のやうにきらきら光る海の水を淺黄いろの天末にかかる火球日天子の座を見た。

 (おれはその幾千由旬の海を自由に漕ぎ、その清いそらを絶え絶え息して黒雲を卷きながら翔けれるのだ。それだのにおれはここを出て行けない。この洞の外の海に通ずる隙間は辛くも外をのぞくことができるに過ぎぬ。)

 (聖龍王、聖龍王。わたしの罪を許しわたくしの呪をお解きください。)

 チャーナタはかなしくまた洞のなかをふりかへり見た。そのとき日光の柱は水のなかの尾鰭に射して青くまた白くぎらぎら反射した。そのとき龍は洞の外で人の若々しい聲が呼ぶのを聽いた。龍は外をのぞいた。

 (敬ふべき老いた龍チャーナタよ。朝日の力をかりてわたしはおまへに許しを乞ひに來た。)

 瓔珞をかざり黄金の太刀をはいた一人の立派な青年が外の疊石の青い苔にすわってゐた。

      
〔…〕

 (
〔…〕誰かがミルダの森で斯うひそひそ語ってゐるのを聞いた。

  (わかもののスールダッタは、洞に封ぜられてゐるチャーナタ老龍の歌をぬすみ聞いて、それを今日歌の競べにうたひ、古い詩人のアルタを東の國に去らせた。)

  わたしはどういふわけか足がふるへて思ふやうに歩けなかった。そして昨夜一ばんそこらの草はらに座って悶えた。考へて見るとわたしは、ここにおまへの居るのを知らないで、この洞穴のま上の岬に毎日座り考へ歌ひつかれては眠った。そしてあのうたは、ある雲くらい風の日のひるまのまどろみのなかで聞いたやうな氣がする。そこで老いたる龍のチャーナタよ。
〔…〕あのうつくしい歌を歌った尊ぶべきわが師の龍よ。おまへはわたしを許すだらうか。)

      
〔…〕

 (
〔…〕スールダッタよ、あのうたこそはわたしのうたでひとしくおまへのうたである。いったいわたしはこの洞に居てうたったのであるか考へたのであるか。おまへはこの洞の上にゐてそれを聞いたのであるか考へたのであるか。おおスールダッタ。

 そのときわたしは雲であり風であった。そしておまへも雲であり風であった。
〔…〕

 (おお龍よ。そんならわたしは許されたのか。)

 (誰が許して誰が許されるのであらう。われらがひとしく風でまた雲で水であるといふのに。
〔…〕

  スールダッタよ。わたしは千年の昔はじめて風と雲とを得たとき己の力を試みるために人々の不幸を來したために龍王の
〔数字分空白〕から十萬年この窟に封ぜられて陸と水との境を見張らせられたのだ。わたしは日々ここに居て罪を悔い王に謝する。)」



 「鳥」についても、宮沢賢治の場合には、鳥が、この世と他界とを往き来して、生と死のあいだをとりもつという古い信仰――東南アジアの葬礼習俗からシベリア先住民の遺跡にまで見られる――の影が、しばしば表れます。その例は、詩「春と修羅」「白い鳥」「青森挽歌」「オホーツク挽歌」「鳥の遷移」〔こらはみな手を引き交へて〕など、枚挙しきれません。


∇ 参考記事(詩「春と修羅」と鳥)⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 1.9.5.

∇ 参考記事(弥生と長江文明の鳥信仰)⇒:
【マグノリア(6)】







 「南昌山」「毒ヶ森」の、くろぐろと空にそそり立つ特徴的な山の形が、この世と異界を往復するという鳥の群れの怪異とあいまって、賢治と「慶次郎」の童話の世界を形づくっているのだと思います。






南昌山
(賢治の絵と自筆短歌)
南昌山5合目の案内板。



 岩鐘の
 きわだちくらき
   肩に来て
 夕の雲は
   銀の
    挨拶

歌稿断片 #259.






∇ ひとつ前の記事⇒:南昌山と毒ヶ森(1)




.
しおり
記事一覧を見る

ギトンの人気記事

  • 南湖と大津(4)
    投稿日時:2018-03-18 17:28:18
  • ハームキヤ(17)
    投稿日時:2018-08-06 04:18:09
  • 札 幌 (4)
    投稿日時:2018-11-03 18:30:03

おすすめトピックス

カテゴリーランキング

趣味全般カテゴリーの人気記事ランキング

ピックアップブログ
新着おすすめブログ