南昌山と毒ヶ森(1)




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 紫波山塊は、盛岡の南にあって、釣鐘形の峰が寄り集まった形をしています。

 これらは、古い火山の火道(噴火口の下にあるマグマの通り道)などの硬い岩塊が、まわりが浸蝕された後に残って突き出ているのだと言われています。








煙 山
(けむやま)







紫波山塊 
盛岡城跡から



 盛岡市街地の南辺を東西に流れる雫石川をはさんで、岩手山のトイ面に見えるのが「紫波山塊」です。全国的な登山地図や登山ガイドには載っていませんが、地元のハイカーには馴染み深い山域。ただ、この山塊の奥まで縦走する人は今では少ないようで、箱ヶ森、赤林山、南昌山(なんしょうざん)それぞれに、麓の駐車場からピストンする路だけが異常に整備され、ピークから奥へたどる径は荒れているのが現状です。毒ヶ森まで行く人はほとんどいないのでしょう。

 しかし、宮沢賢治の時代には、燃料の雑木を得るために、この山塊の小径はよく踏まれていたようです。賢治は、盛岡高等農林在学中に裏側(北西側)の繋(つなぎ)方面から箱ヶ森に登ったことが短歌から分かります。南昌山にはしばしば登り、毒ヶ森附近にも足をのばしていたと思われます。






紫波山塊 
雫石町・七ツ森(生森)から
盛岡〜紫波方面から見た姿が“おもて”
とすれば、これは“うら”から見た山塊。



∇ 関連記事(生森(おうもり)
⇒:【七ツ森(5)】





 西は箱ヶと毒
(ドグ)ヶ森、  椀コ、南昌、東根の、

 古き岩頸
(ネツク)の一列に、  氷霧あえかのまひるかな。

      
〔…〕

 山よほのぼのひらめきて、  わびしき雲をふりはらへ、

 その雪尾根をかゞやかし、  野面のうれひを燃し了
(おほ)せ。

宮沢賢治『文語詩稿一百篇』「岩頸列」〔定稿〕より。



 「椀コ」
(わんこ)は、毒ヶ森と南昌山の間の無名峰だという説と、赤林山だという説があります。どちらも、見る角度によってはお椀を伏せた形に見えます。

 しかし、南昌山と毒ヶ森だけは、どんな角度から見ても、そそり立った釣鐘型です。正真正銘の“わんこ”ないし“岩頸”と言えるのが、この2峰なのです。




地図(紫波山塊)








「『煙山
(けむやま)にエレッキのやなぎの木があるよ。』

 藤原慶次郎がだしぬけに私に云いました。私たちがみんな教室に入って、机に座り、先生はまだ教員室に寄っている間でした。尋常四年の二学期のはじめ頃だったと思います。

 『エレキの楊
(やなぎ)の木?』と私が尋ね返そうとしましたとき、〔…〕

 私は授業中もそのやなぎのことを早く慶次郎に尋ねたかったのですけれどもどう云うわけかあんまり聞きたかったために云い出し兼ねていました。それに慶次郎がもう忘れたような顔をしていたのです。

 けれどもその時間が終り、礼も済んでみんな並んで廊下へ出る途中、私は慶次郎にたずねました。

 『さっきの楊の木ね、煙山の楊の木ね、どうしたって云うの。』

 慶次郎はいつものように、白い歯を出して笑いながら答えました。

 『今朝権兵衛
(ごんべえ)茶屋のとこで、馬をひいた人がそう云っていたよ。煙山の野原に鳥を吸い込む楊の木があるって。エレキらしいって云ったよ。』

 『行こうじゃないか。見に行こうじゃないか。どんなだろう。きっと古い木だね。』私は冬によくやる木片を焼いて髪毛
(かみのけ)に擦(こす)るとごみを吸い取ることを考えながら云いました。

 『行こう。今日僕うちへ一遍帰ってから、さそいに行くから。』

 『待ってるから。』私たちは約束しました。そしてその通りその日のひるすぎ、私たちはいっしょに出かけたのでした。

 権兵衛茶屋のわきから蕎麦ばたけや松林を通って、煙山の野原に出ましたら、向うには毒ヶ森南晶山
(なんしょうざん)が、たいへん暗くそびえ、その上を雲がぎらぎら光って、処々(ところどころ)には竜の形の黒雲もあって、どんどん北の方へ飛び、野原はひっそりとして人も馬も居ず、草には穂が一杯に出ていました。」
宮沢賢治『鳥をとるやなぎ』より。
(原文は旧仮名遣い) 



 「煙山」は、紫波山塊の東麓、矢巾町にある地名です。この童話の“舞台”はここのようです。しかし、出発点の「権兵衛茶屋」は、どこでしょうか?‥地図を探していたら、「山王茶屋前」というバス停がありました。行ってみると、茶屋はありませんでしたが、枝ぶりのみごとな松の木立ちがあります↓。そしてそこから、小さな川の流れにそって、上流の矢巾温泉まで、さらに南昌山頂まで、賢治童話関係の案内板が点々と設置されています。どうやら、多くの人が、『鳥をとるやなぎ』の舞台はここだと推定しているようです。




“山王茶屋” 
矢巾町煙山
「山王茶屋前」バス停付近。

茶屋はバス停の名前に残ってるだけで、
現在は何もありませんが、アカマツの
りっぱな木立ちが、昔は由緒のある
場所だったことを示しています。
茶屋があったとしてもおかしくはありません。
賢治の「権兵衛茶屋」はここだと推定しました。







南昌山 
“山王茶屋”附近

たしかに、南昌山はよく見えます。
しかし、毒ヶ森は、手前の尾根に
隠れてしまって、まったく見えません。



 賢治は、



煙山の野原に出ましたら、向うには毒ヶ森南晶山
(なんしょうざん)が、たいへん暗くそびえ、」



 と書いているのに、現地では毒ヶ森は見えないのです。ここから川をさかのぼって山に近づいて行くと、ますます見えなくなります。賢治童話のほうは、↓これから見ていくように、南昌山よりも毒ヶ森が中心になっていきます。

 なぜ、じっさいには見えない毒ヶ森が中心なのか?‥この謎は、次回記事で解いてゆくことになります。






「権兵衛茶屋のわきから蕎麦ばたけや松林を通って、煙山の野原に出ましたら、向うには毒ヶ森南晶山
(なんしょうざん)が、たいへん暗くそびえ、その上を雲がぎらぎら光って、処々(ところどころ)には竜の形の黒雲もあって、どんどん北の方へ飛び、野原はひっそりとして人も馬も居ず、草には穂が一杯に出ていました。

 『どっちへ行こう。』

 『さきに川原へ行って見ようよ。あそこには古い木がたくさんあるから。』

 私たちはだんだん河の方へ行きました。

 けむりのような草の穂をふんで、一生けん命急いだのです。

 向うに毒ヶ森から出て来る小さな川の白い石原が見えて来ました。その川は、ふだんは水も大へんに少くて、大抵の処なら着物を脱がなくても渉れる位だったのですが、一ぺん水が出ると、まるで川幅が二十間位にもなって恐ろしく濁り、ごうごう流れるのでした。ですから川原は割合に広く、まっ白な砂利でできていて、処々にはひめははこぐさやすぎなやねむなどが生えていたのでしたが、少し上流の方には、川に添って大きな楊の木が、何本も何本もならんで立っていたのです。私たちはその上流の方の青い楊の木立を見ました。」

宮沢賢治『鳥をとるやなぎ』より。
(原文は旧仮名遣い) 



「『鳥をとるやなぎ』という童話の舞台は、
〔…〕紫波郡矢巾町の真西に聳える南昌山の山麓である。〔…〕三角錐を立てたような南昌山が平野からにょっきりと聳え、その奥に毒ヶ森があるが、その山の間から一条の渓流が東へ流れ下っている。この渓流の畔が、まさしくこの童話のふるさとでもある。

      
〔…〕

 煙山とはいっても、別に山の名ではなく、いまはあたりも広々と開けた田園地帯で、南昌山ばかりが近々と聳えているのが目に入る。
〔…〕慶次郎という少年は、本当は健次郎という賢治の少年時代の親友のひとりで、明治43(1910)年に、賢治と一緒に南昌山に登ったりしたが、その年の8月に亡くなったという。少年時代の友を失うことは本当に寂しく悲しいことであるが、賢治もこの幼な友だちとの遊びが忘れられなかったらしく、『谷』『二人の役人』といった短編の童話にも彼を登場させている。」
金子民雄『山と森の旅』,1978,れんが書房,pp.76,78.






 この童話の「慶次郎」のモデルになったのは、藤原健次郎という盛岡中学の1年上級の生徒で、賢治が入学入寮した時に同室の先輩として知り合いました。当時、盛岡中学では先輩後輩の序列が厳しく、とくに寮では、新入りの1年生は上級生に扱き使われていました。しかし、健次郎は、温和な態度で賢治らに接し、意地の悪い上級生に難癖をつけられないように、ランプの上手な磨きかたなどを教えてくれました。








 のろぎ山のろぎをとればいたゞきに黒雲を追ふその風ぬるし


 のろぎ山のろぎをとりに行かずやとまたもその子にさそはれにけり


 キシキシと引上げを押しむらさきの石油をみたす五つのラムプ


 タオルにてぬぐひ終れば台ラムプ石油ひかりてみななまめかし

『歌稿B』#0c1-0h1.



 「のろぎ」は、ロウセキのこと。南昌山北麓の北ノ沢大滝周辺では、「のろぎ」や水晶を拾うことができます。

 「その子」は、藤原健次郎だと推定されます。賢治が、藤原の実家に行ったり、藤原と南昌山に登ったり、水晶を採集したことは、賢治の『文語詩篇ノート』などのメモに記されています。

 健次郎の実家は、盛岡と、賢治の実家のある花巻との中間の矢巾町にあったので、賢治はしばしば誘われて健次郎の実家を訪問し、南昌山に登ったり、その麓の沢で「のろぎ」や水晶を拾ったりしたと思われます。健次郎の家は、江戸時代からの漢学の私塾で、健次郎の父も、素養の高い在野の漢学者だったそうです。

 賢治の父は学問の好きな真宗信徒でしたが、若くから家業に従事したために小学校しか出ていませんでした。中学生の賢治に、漢文漢詩をはじめとする学問の香りにふれさせた人として、藤原健次郎の父は、詩人宮沢賢治の形成に重要な役割をしたひとりであったと思われるのです。

 しかし、健次郎は、賢治と知り合った翌年、1910年の8月、所属していた野球部の遠征(大館,北上)で野宿をした際、雨に濡れたためチフスを発症し、9月29日死去しました。当時は、運動部の遠征旅行は徒歩で、途中は野宿がふつうだったそうですが、この8月は試合が多数重なっており、疲労が蓄積していたことが考えられます。親族にとっても、納得できる事故ではなかったでしょう。



∇ 関連記事(盛岡中学校跡)⇒:【モリーオ(1)】

∇ 関連記事(盛岡中学校古写真)⇒:
【モリーオ(5)】










岩崎川 
“山王茶屋”付近

『鳥をとるやなぎ』に書かれている
「毒ヶ森から出て来る小さな川」は
この川と推定されます。
上流へたどってゆくと、矢巾温泉付近で
二手に別れ、一方は毒ヶ森の麓に水源が
あり(北ノ沢)、もう一方は
南昌山の南に水源があります。




煙山ダム 


現在は、岩崎川の途中にダムがあり、
ちょうど『鳥をとるやなぎ』の舞台
となった河原の附近が
人工池になっています。






∇ つぎの記事⇒:南昌山と毒ヶ森(2)




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