札 幌 (4)




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クラーク農場と石狩川





 札幌に残された宮沢賢治の“足跡”。

 北大農学部と農場を見学したあと、苫小牧へ向かう車窓から石狩平野の農地を観察して、感銘を深くしています。







北海道大学 
農学部

現在の北海道大学は、建物も
小分けに分散して開放的な
ふんいきですが、この一角にだけ
賢治が訪れた帝国大学時代の
おもかげが残っています。





「廿一日(札幌市、苫小牧、)

 本日も亦快晴なり。
〔…〕一行は午前十一時半

 北海道帝国大学に至る。
〔…〕

 次に農学部温室を視る。温室中桃実熟し蕃茄胡瓜花謝して既に盛夏の情あり。特に温泉地方出身の生徒に温度湿度等を注意せしむ。温泉を利用しグラスハウスを設け斯の種促成栽培を行ふこと浅虫の例もあればなり。

 農場未だ播種匆々にして見るべきなし。唯亜麻の連作跡地土色まで異れるあり。

 去て畜舎に入る。牛はみな給飼搾乳新式の固定器によりて危険なく操作せらる。

 次で医科教室に到る。医学諸標本解剖中の人体腹部等甚だ常識に資せり。斯て大学を辞し
〔…〕
宮沢賢治『修学旅行復命書』より。







ポプラ並木 
北海道大学
有名な並木道の左(西)側が「第一農場」



 北大・本部キャンパス内には、農学部附属の農場が2つあります。いただいた冊子によると、1895年に札幌農学校が文部省管轄となった時点で2つの農場が附属し、「第一農場」は「農学校生徒の農業実習や試験栽培の場」として、「第二農場」は「欧米式農牧混合農場経営の北海道への移植を試みる経済農場と位置づけられました。」

 『復命書』に「畜舎」の記述があることから見ると、賢治と修学旅行生が見学したのは「第二農場」のほうではなかったかと思われます。





「札幌農学校第二農場」 
北海道大学



 「第二農場」は、もともとクラーク博士の構想に基づいて、米国式畜舎(モデルバーン)を中心に農牧混合の大農経営のモデルを実践するために設けられました。「多数の畜力農具や外国種の牧草・家畜を導入し、洋式農法を実現して北海道畜産の普及拠点となりました。」

 校舎の増設によってキャンパスの中心部は手狭になったため、1909-12年に現在の場所に移転しました。移転後も、畜舎・加工施設に、広大な飼料穀物等の農場が附属しており、大農式農牧混合経営をモデル的に実践していました。

 賢治と修学旅行生たちが見学したのは、その頃でした。

 戦後、畜舎と家畜類は、獣医学部隣接地に建設された畜産研究施設へ移転しましたが、残った畜舎等の建物は、明治期の建築物として国の重要文化財に指定されて現在まで保存されています。







模範家畜房
(モデルバーン) 「札幌農学校第二農場」

内部は3層構造で、2・3階は乾草収納庫、
1階に2列の乳牛繋ぎ飼いストール、産室、
耕牛房、耕馬房があります。



 札幌農学校が開学した 1870年代までは、欧米でも冬季の飼料はもっぱら乾草によっており、そのため大容量の乾草収納庫を必要としていました。

 しかし、まもなく、サイレージ(サイロ)による発酵緑餌の生産が開発され、また根菜、飼料穀物で補うことにより、巨大な乾草収納庫は必要がなくなりました。1910年に建造された↓下の「牧牛舎」では、2階の乾草貯蔵スペースは小さいかわりに、石造サイレージとレンガ造りの根菜貯蔵庫をもっています。




牧牛舎 
「札幌農学校第二農場」

乳牛飼育に特化した畜舎で、もともとは
「牝牛舎」と呼んでいました。右手に
サイレージ(サイロ)が見えます。また、
手前のオレンジ色の建物は根菜貯蔵庫。




(左から)脱稃室・収穫室・穀物庫 「札幌農学校第二農場」

飼料用穀物を脱穀・貯蔵する施設。
脱稃機の動力は、当初は蒸気機関で、
左端の動力室から脱稃室に、
シャフトで動力を伝えていました。




(左から)精乳場・竃場 「札幌農学校第二農場」

「精乳場」は、生乳からバター・チーズ
を製造する施設。バター・チーズを
採った後に残る脱脂乳(ホエー)は、
「竃場(かまば)」で煮詰めて
豚のエサにします。



 このように、施設からはっきりわかるように、この農場の農牧経営は、


 穀物・根菜栽培 → 乳牛の飼育 → 生乳からチーズ・バターの製造 → 脱脂乳による養豚 → 食肉生産


 というように、有機的に一体化したシステムによって、最終的に付加価値の高い乳製品と食肉が生産されるしくみなのです。

 もっとも当時、中小農家の多い日本、とくに北海道以外の場所で、このような大農農法を実践できる条件があったかと言えば、疑問なしとしないでしょう。まして、脱脂乳は学校給食に用い、飼料作物のコーンももっぱら人間の食べ物とする日本の文化条件のもとでは、このアメリカ式農法はあまりにも贅沢に見えます。賢治の『復命書』が、農場と畜舎の記述をかんたんに済ましているのは、そのへんの違和感があったのかもしれません。

 北大総長の佐藤昌介も、クラークの大農式農法に代って、アメリカでも東部の中小農業経営の農法を現地で学び、北海道に導入しています。道庁がデンマークの農家を招いて、中小経営のモデル農場を実践させたのも(ラーセン農場:前回記事参照)、そうした努力の一環だったでしょう。

 前回引用の『復命書』で、佐藤昌介が修学旅行生たちに語ったことも、それと深く関連していました。合理的農法の導入によって、


 本州の古い農業地域を支配する
「旧慣幣風を改良し日進の文明を摂取すること」


 が、佐藤の夢だったのでしょうけれども、それは容易なことではありませんでした。佐藤は、古い農業地域の「旧弊」を打破することは、未開の荒野を開拓するよりも難しい―――


 「棒茨の未開地に当るよりも難く大なる覚悟と努力とを要する」


とまで言っていました。

 なぜ難しいのか?‥私たちは、すでに有島の諸作品と多喜二の『不在地主』からその原因を推しうる位置にあります。当時日本の農村を支配していた寄生地主は、農業への資本投下を極端に嫌っていました。地主制が発展すればするほど、土地の地力も農民も疲弊するばかりです。ことは寄生地主制とそれを容認する社会のしくみ、農民の意識に関わっていたがゆえに困難は大きかったのです。

 そして、このことは、佐藤の話に感銘を深くした宮沢賢治の胸にも、避けては通れない重い課題として刻まれたはずです。






〔…〕中島公園の

 植民館に赴く。
〔…〕

 植民館を辞し停車場に向ふ。途中

 北海道石灰会社石灰岩抹を販るあり。これ酸性土壌地改良唯一の物なり。

 米国之を用ふる既に年あり。内地未だ之を製せず。早くかの北上山地の一角を砕き来りて我が荒涼たる洪積不良土に施与し草地に自らなるクローバーとチモシイとの波を作り耕地に油々漸々たる禾穀を成ぜん。

 四時三分案内の大学生二氏に行進歌を以て謝意を表し札幌を発し

 車中苫小牧に至る。
〔…〕



 岩手県での耕地改良としての石灰施用については、盛岡高等農林の関豊太郎教授が賢治在学中の年に勧奨して以来、賢治もずっと関心を持ち続けていました。関係する賢治詩は、↓下の「種山と種山ヶ原」のほか、「雲とはんのき」「産業組合青年会」など多数に上ります。

 小岩井農場などでは、すでに早くから石灰施用をはじめていましたが、一般の農家や各地の農会には、依然として普及は進んでいなかったようです。



「     
〔…〕

 草の年々へるわけは
 一つは木立がなくなって
 土壌があんまり乾くためだ、
 木のあるところは草もいゝし、
 窪ほど草がいゝやうだ

      
〔…〕

 一つはやっぱり脱滷のためだ、
 採草地でなく放牧地なら
 天然的な補給もあり
 地力は衰へない筈だけれども
 ずゐぶんあちこち酸性で
 すゐばなどが生えてゐる
 どこか軽鉄沿線で
 石灰岩を切り出して
 粉にして撒けばいゝと云へば
 それはほんとにいゝことか
 畑や田にもいゝのかと
 さう高清が早速きく
 もちろんそれは畑にもいゝ
 アメりカなどでもう早くからやってゐる
 さう答へれば高清は、
 それならひとつ県庁へ行って
 株式会社をたてるといふ
 国家事業とか何とか云って
 株をあちこち募集して
 十年ぐらゐの間には
 誰がどうにかしたでもなく
 すっかりもとをなくしてしまふ
 馬はやっぱりうごかない
 人もやっぱりうごかない
 かげらふの方はいよいよ強く
 雲影もまたたくさん走る」

『春と修羅・第2集補遺』より〔行きすぎる雲の影から〕〔下書稿(二)〕
[#368,1925.7.19.「種山と種山ヶ原・パート4」改稿]








 『復命書』に


「案内の大学生二氏に行進歌を以て謝意を表し」


 とあるのは、賢治自作の「行進歌」を生徒たちが歌ったもので、「黎明行進歌」と「角礫行進歌」のどちらかでしょう。

 賢治は、この2曲や、「農学校精神歌」をはじめとする自作歌曲をおさめた『校歌集』を謄写版で作って、配布していました。この旅行でも生徒たちに持たせていたようです。

 前日の夜に中島公園の野外音楽堂で生徒たちが歌ったのも、この歌集の賢治自作歌曲だったと思われます。


∇ 関連記事(「農学校精神歌」の碑)⇒:
【ハームキヤ(5)】






「蛇紋山地の 赤きそら
 雲すみやかに過ぎ行て
 夢死とわらはん田園の
 黎明いまは果てんとす

 銹びし五日の金
(きん)の鎌
 かの山稜に落ち行きて
 われらが犂の燦転と
 朝日の酒は地に充てり

 起てわが気圏の戦士らよ
 暁すでにやぶれしを
 いま角礫のあれつちに
 リンデの種子をわが播かん

      
〔…〕


 【音源】⇒:黎明行進歌

 【解説】⇒:黎明行進歌


∇ 本記事はこちら⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 8.2.28






「     角礫行進歌

 氷霧
(ひょうむ)はそらに鎖(とざ)
 落葉松
(ラーチ)も黒くすがれ
 稜礫のあれつちを
 壊
(やぶ)りてわれらはきたりぬ

 〔独唱〕天
(てん)のひかりは降りも来ず
     天のひかりはそゝぎ来ず
     天のひかりは射しも来ず
     タララララ タララララ
     タラララ

 かけすのうたも途絶え
 腐植質
(フームス)はかたく凍(こご)
 角礫の稜
(かど)ごとに
 はがねは火花をあげ来
(こ)し」


 【音源】⇒:角礫行進歌

 【解説】⇒:角礫行進歌








江別付近の
石狩川 




「四時三分案内の大学生二氏に行進歌を以て謝意を表し札幌を発し

 車中苫小牧に至る。

 車窓見る処苗代稲苗漸く伸び直播又今正に行はる。本道独特の散点状村落並にその家屋の構造多少移住者の郷土を示すものあるを見る。而もその近時の築成に斯るものクレオソートを塗れる粗板二色の亜鉛版を用ひて風致津々たるあり。早く我等が郷土新進の農村建築家を迎へ、従来の不経済にして陰鬱、採光通風一も佳なるなき住居をその破朽と共に葬らしめよ。

 車窓石狩川を見、次で落葉松と独乙唐檜との林地に入る。生徒等屡々風景を賞す。蓋し旅中は心緒新鮮にして実際と離るゝが故に審美容易に行はるゝなり。若し生徒等この旅を終へて郷に帰るの日新に欧米の観光客の心地を以てその山川に臨まんか孰れかかの懐かしき広重北斎古版画の一片に非らんや。じつに修練斯の如くならざるよりは田園の風と光とはその余りに鈍重なる労働の辛苦によりて影を失ひ、農業は傍観して神聖に自ら行ひて苦痛なる一の skimmed milk たるに過ぎず。且つや北海道の風景、その配合の純 調和の単 容易に之を知り得べきに対し、郷土古き陸奥の景象の如何に複雑に理解に難きや、暗くして深き赤松の並木と林、樹神を祀れる多くの古杉、楊柳と赤楊との群落、大なる藁屋根 檜の垣根、その配合余りに暗くして錯綜せり。而して之を救ふもの僅に各戸白樺の数幹、正形の独乙唐檜、閃めくやまならし 赤き鬼芥子の一群等にて足れり。寔に田園を平和にするもの樹に超ゆるなし。
〔…〕



「札幌より苫小牧に至る

 札幌を四時の汽車で出発した、異国の空に漂ふ雲の行き往ふ姿もめづらしくと見てゐるときに汽車は石狩の平野を快速力で走つてゐた

 石狩川の濁流は小波を打つて流れてゐる

 黒い煙は広い野原の上に残つて次第々々に砕けて行く、」

『白藤慈秀日記』より。



 北大で佐藤昌介の話を聞き、農場でクラークの大農式経営を見、中島公園の「拓殖館」で開拓史のあらましをふりかえった宮沢賢治は、車窓に過ぎてゆく田園風景を見ながら、深く考え込んでしまったのではないでしょうか?‥それは、『復命書』に縷々綴られた縺れた糸のような記述を、白藤教諭の日記と比べてみればわかります。もちろん、彼の脳裡を占めていたのは、故郷岩手の農村の現実でした。

 賢治がここに綴った思考をどう評価するかは、人によって異なるでしょうけれども、‥‥農村の景観、外観、農民の心理的側面に、もっぱら解決の糸口を見いだすほかはない賢治の思考に、ギトンはやはり、どうにもやりきれない苦哀を感じてしまうのです。。。






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