札 幌 (3)




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北大とサッポロビール





 札幌に残された宮沢賢治の“足跡”。

 2日目は、サッポロビール園(現)から北大キャンパスへ







札幌麦酒工場
 現・サッポロビール園



「廿一日(札幌市、苫小牧、)

 本日も亦快晴なり。七時半旅舎を発し

 札幌麦酒会社に赴く。案内によりて糖化室より参観す。糖化罐四、各六十石を容る。麦芽汁スティームによりて六十二度に保たれ二過程に糖化せらる。
〔…〕

 大約人類の苟も思想する処何事か成ぜざらん。工業と云ひ農業と云ふ勢力と云ひ物質と呼ぶ何物か思想に非らんや。唯複雑にして征服し難き農業諸因子の中に於てその進歩容易ならざるのみなり。夫、長方形密植機の如き太陽光線集中貯蔵の設備の如き成らんか今日の農民営々十一時間を労作し僅に食に充つるもの工業労働に比し数倍も楽しかるべき自然労働の中に於て之を享楽するの暇さへ無きもの将来の福祉極まり無からん。旧慣の善良を確守し勤労を習得せしむると共に之今日の農業の旧態に甘んぜしめざるを要す。
〔…〕

 帝国製麻会社に行く。
〔…〕一行は午前十一時半

 北海道帝国大学に至る。門を入るや学生二名出迎へ講堂に案内す。此の日総長旅行出発を延期して一行を待つ。蓋しその花巻出身なるによる。即ち総長より生徒に対し一場の訓辞あり。要旨まづ新開地と旧き農業地とに於る農業者の諸困難を比較し殊に后者に処して旧慣幣風を改良し日進の文明を摂取すること棒茨の未開地に当るよりも難く大なる覚悟と努力とを要する所以並に今日は大切なる農業の黎明期にして実に斯土を直ちに天上となし得るや否や岐れて存する処なりといふにあり。

 引卒者は立ちて答辞を述べそれより学生食堂に於て菓子牛乳の饗を受く。牛乳甘美にして新鮮且つや勧の切なるまゝに恐らくは各人一立を超ゆるまで総長の好意を辞せざりしが如し。

 終て各学部を参観す。清楚なる芝生と黒き楡の間馬蹄形に配置せられたる教室中先づ水産標本室を見る。鯡の年齢を鱗の輪によって数ふる恰も家畜の年齢を歯によりて見分くるが如き、又養魚池に人造肥料を施与し燐酸の成績顕著なる恰も麦の圃場試験に類せる。又海水中数知らぬプランクトンの統計や模型等その土壌微生物との対照その他興趣甚深し。

 次に農学部温室を視る。
〔…〕

 
〔…〕斯て大学を辞し

 農事試験場参観の予定なりしも時期未だ早く見学その効なきを以て直ちに電車に乗じ中島公園

 植民館に赴く。
〔…〕
宮沢賢治『修学旅行復命書』より。




北海道大学 
南門
古い赤レンガの門が残っています。
当時はここが正門でした。賢治と
修学旅行生が入った門はここでしょう。




北海道大学
本部キャンパス ローンとサクシュコトニ川
木立ちと芝生の間を川が流れています。






 引率修学旅行の2日目の札幌は、工場見学のあと、北大(北海道帝国大学)の講堂で総長の公園を聴き、学生食堂、水産標本室、養魚池(?)、農学部・温室・農場・畜舎、医科教室などを見学しています。

 総長は、花巻農学校の修学旅行生のために、旅行の出発を延ばして待っていました。「花巻出身」とありますが、北大総長は、花巻の名家佐藤家の当主・佐藤昌介↓でした。昌介は、賢治童話『黒ぶどう』に登場する「ヘルバ公爵」のモデルだと言われています。


∇ 参考記事(佐藤昌介と昌歓寺)⇒:
【ハームキヤ(19)】







北海道大学 
古賀講堂

総長の講演があった「講堂」は、ここでしょうか?




佐藤昌介 
北大総合博物館
佐藤昌介は、花巻の南部藩士佐藤昌蔵の長男、
札幌農学校第1期生としてクラーク博士に学び
1894年から1930年まで札幌農学校校長→札幌農科大学
学長→北海道帝国大学総長を勤めた。

賢治と花巻農学校生を迎えて講演をしたのは、
この佐藤総長ですが、賢治らのほうでは、
佐藤の政治力を借りて県立に昇格する意図が
あったとする二次資料があります。しかし、
花巻農学校は、すでに前年4月に県立に昇格
しているので、これは当たりません。佐藤が
農学校生を歓待したのは、純粋に郷里の子弟
に対する思いやりからであったと思われます。




「     北大の発展と学風の変遷

 北海道大学が、その歴史を通じての幾たびもの存立の危機をことごとく乗り越え、現在の姿に発展することが出来たのは、ひとえに佐藤昌介の力量に負うものである。
〔…〕佐藤の活躍で札幌農学校は危機を脱し、帝国大学へと発展して行く。

 しかしこれと引き換えに、初期のキリスト教色、自由、自主独立の学風は薄れ、政権に従順な大学へと変遷して行くこととなってしまう。憂国の情をあらわにし堂々と国政を批判する卒業生を輩出してきた札幌農学校の学風を国は好まなかったのである。キリスト教色の強い教員の排除を狙った定員削減から、教育レベルを農業実務教育へ引き下げろという要求まで、様々な圧力があった。

 佐藤昌介は気骨も主張もある人物であったが、立場上、組織維持のために、曲げられるところはまげて妥協の策をこうじた。

 東京大学で札幌農学校の2期生、新渡戸稲造や内村鑑三の感化を受けた矢内原忠雄や南原繁が時の政府の国家主義政策批判を堂々と展開している時期に、彼らの思想的な本家の北大では、大きな声で政府の戦争政策を批判する人物は極めて少なかった。また、そのような動きは圧殺された。教授たちは沈黙を守った。今の我々に、沈黙を守った当時の北大教授たちを責めることが出来るか。『確立された個』をもつ gentleman としての資質が問われている。」

北大総合博物館、展示説明より。






 展示の年表を見ると、1893年に大島正健が北大を去り、翌1894年に佐藤昌介が学長に就任しています。大島正健については、そのご山梨県・甲府中学校長として自由主義教育を進め、保阪嘉内にも大きな影響を与えたことを↓こちらで見ました。


∇ 関連記事(甲府第一高校と大島正健)⇒:
【風の谷(3)】



 私たちは、遠くクラーク博士に発する影響力が、佐藤昌介、および大島正健を経由する2つの流れになって、宮沢賢治に及んでいるのを見ることができるのではないでしょうか?




「地を拓き民を植うるは経国の大本にして為政の要務なり。
〔…〕凡そ学理は世界を通して動かず、学芸は天下を共にして偏らず、先哲に鑑み後賢を啓き、造化の妙用を闡明し宇内の大経を弥綸するは学者の本務たり、〔…〕
佐藤昌介(1907年、札幌農科大学開学式、式辞より)



 つまり、学問が追究する真理は世界共通であって、洋の東西や、時の政権の都合によって変わるようなものではないと、宣明しているのです。

 北大総長としての佐藤は、国の圧力から大学を守るためには現実主義的な妥協もいとわなかったようですが、その努力の核心にあるものは、政権・国家に左右されない学問の自主独立と自由の擁護であったことがわかります。

 「地を拓き民を植うる」という言い方も注目されます。つまり、佐藤は「開拓」「植民」を式辞の第一に掲げています。宮沢賢治が『復命書』で、「植民」の語を多用し、中島公園の拓殖館をあえて「植民館」と呼んでいるのも、クラークの自由主義に裏打ちされた“植民地開拓”の精神を尊崇し、佐藤昌介らを通じてその流れを受けようとしていた、この 1924年時点での賢治の方向性を見ることができるのです。







魚類標本の展示 
北大総合博物館




北海道大学 
大野池

総合博物館の隣りにあります。
『復命書』にある「養魚池」は、
ここでしょうか?




広いキャンパス 
北海道大学

学内を自転車で移動する学生たち。
ジョギングする学生。学内移動の
ためのバスも走っています。




 しかし、賢治たちの修学旅行の眼目が、農学部と農場の見学にあったことは言うまでもありません。それらは、次回記事で見ることになるでしょう。






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