札 幌 (1)




ランキングヘ








北大植物園とその周辺





 札幌に残された宮沢賢治の“足跡”。

 先日ウプした「札幌(1)」は間違えだらけだったので、仕切り直しw 賢治先生引率の修学旅行、札幌の1日目は、北海道大学植物園ほか‥







時計台 
北1条西2丁目
札幌の中心部にあります。明治の半ば(1881年)
「札幌農学校」の「練武場」の建物に開拓使が
時計塔を増設したもの。1903年に農学校が
駅の北側に移転した後も、時計台として残り、
澄んだ鐘の音で市民に時を告げてきました。

賢治の作品や記録には現れ
ませんが、当時から道庁舎
とともに札幌のシンボル
でしたから、道すがら印象深く
眺めたことでしょう。





「午后一時四十分今次旅行の眼目

 札幌市に着く。

 先づ駅前山形屋旅館に宿泊を約し直ちに大学附属植物園に行く。途中その街路の広くして規則正しきと、余りに延長真直に過ぎて風に依って塵砂の集る多き等を観察す。

 植物園博物館、門前より既に旧北海道の黒く逞しき楡の木立を見、園内に入れば美しく刈られたる苹果青の芝生に黒緑正円錐の独乙唐檜並列せり。下に学生士女三々五々読書談話等せり。歓喜声を発する生徒あり。我等亦郷里に斯る楽しき草地を作らんなどと云ふものあり。

 先づ博物館に入る。道産の大なる羆熊の剥製生徒等の注意を集む。されど本博物館は特に鳥類標本完備せるを以て特にその部を観察せしむ。
〔…〕階上のアイヌに関する標本並に札幌附近雑草の標本亦よき教材なり。〔…〕芝生に出でて休息し更に観覧するものもあり。〔…〕閉園に近く去りて道庁構内を通り旅館に帰る。

 夜は任意散策となせりしも結局職員に於て希望者を引率することとなれり。白藤教諭は市内に講演約ありて之に赴く。

 一同は電車によりて中島公園に至る。途中の街路樹花壇星羅燈影等『ビュウティフル サッポロ』の真価は夜に入りて更に発揮せられたり。
〔…〕
宮沢賢治『修学旅行復命書』より。




旧・北海道庁舎 

当時は、この赤レンガ建築が現役の庁舎でした。







「札幌

 十二時も稍過きし頃着いた
 駅前山形屋に投宿のこと決定

 博物館

 花壇」

『白藤慈秀日記』より。



 白藤教諭の日記には、「博物館 花壇」としか書かれていませんが、この日は駅の南側にある北海道大学付属植物園が主な見学先であったようです。

 さすがに、賢治の『復命書』のほうでは、植物園の植物について詳しく書いています。「博物館」とあるのは、現在も植物園の中にある北大の旧・博物館のこと。行ってみると、1階の展示は、賢治の『復命書』に書いてあるとおりなので驚きました。ここは、展示の歴史的価値から、そのまま保存しているとのこと。なにも宮沢賢治のために保存しているわけではないでしょうけれどもw、とにかく感激!感激!!

 現在は、北大本部キャンパスのほうに総合博物館があり、学術価値のある展示はもっぱらそちらでしているようです。

 2階にあった北方民族関係展示は、同じ植物園内の「北方民族資料館」に移されています。







ハルニレ林 
北大植物園

札幌にはハルニレが多く、ここの
自然植生の特徴らしいです。
現在では、市街地内では少なく
なりましたが、当時はもっと
あったのでしょう。




博物館前の
ドイツトウヒ 北大植物園

ドイツトウヒは、盛岡の高等農林
にも大木があり、賢治には
なつかしかったでしょう。下の
短歌は、盛岡高農在学中の
ものです。



      ※

 わがうるはしき
 ドイツたうひよ
(かがやきの
 そらに鳴る風なれにもきたれ。)

 わがうるはしき
 ドイツたうひは
 とり行きて
 ケンタウル祭の聖木とせん

『歌稿B』#461-461a462.







博物館 
外観と内部 北大植物園

玄関から入ると、まず
ヒグマの剥製があります。
賢治たちが来た当時のままの
展示を見ることができます。




博物館内部
(1階) 北大植物園

鳥類の剥製の展示も、
当時のまま。







シオン 
北大植物園・北方民族植物標本園

ちょうど、標本園のシオンが咲いていました。
シオンは、賢治作品にも出てくるので↓
1枚撮影。根を漢方薬に、茎葉を朝鮮料理
(ナムル)に使うそうですが、北方民族
(アイヌ、ニヴヒ、ウィルタ)圏では
どのように利用していたのでしょうね?



「うすい鼠がかった光がそこらいちめんほのかにこめてゐた。

 そこはカムチャッカの横の方の地図で見ると山脈の褐色のケバが明るくつらなってゐるあたりらしかったが実際はそんな山も見えず却ってでこぼこの野原のやうに思はれた。

      
〔…〕

 私はもういつか小屋を出てゐた。全く小屋はいつかなくなってゐた。うすあかりが青くけむり東のそらには日本の春の夕方のやうに鼠色の重い雲が一杯に重なってゐた。そこに紫苑
(しをん)の花びらが羽虫のやうにむらがり飛びかすかに光って渦を巻いた。

 みんなはだれもパッと顔をほてらせてあつまり手を斜に東の空へのばして

 『ホッホッホッホッ。』と叫んで飛びあがった。私は花椰菜
(はなやさい)の中ですっぱだかになってゐた。私のからだは貝殻よりも白く光ってゐた。私は感激してみんなのところへ走って行った。

 そしてはねあがって手をのばしてみんなと一緒に

 『ホッホッホッホッ』と叫んだ。

 たしかに紫苑のはなびらは生きてゐた。

 みんなはだんだん東の方へうつって行った。

 それから私は黒い針葉樹の列をくぐって外に出た。」










開拓紀念碑
 大通西6丁目
大通公園の中にあります。
もとは別の場所にあったのが、賢治が来た
時には、すでにここに移されていました。
字は、中国の古い書家の墨蹟を組合せて
作ったものだそうです。

札幌市内に、開拓記念碑は数か所
ありますが、列車の通る震動が
伝わってくるほど線路に近いことや、
駅から近くて行きやすいこと、及び
「紀念」の字から、これが、↓下の
詩に詠まれた記念碑と思われます。



 遠くなだれる灰光と
 貨物列車のふるひ
〔震い〕のなかで
 わたくしは湧きあがるかなしさを
 青い神話のきれにして
 開拓紀念の石碑の下に
 力いっぱい撒いたけれども
 小鳥はそれを啄
〔ついば〕まなかった

『春と修羅・第3集』より#1019, 1927.3.28.「札幌市」〔下書稿(三)〕




 さて、↑この詩の日付の 1927年には、賢治は北海道へ行っていません。そうすると、いつの旅行を思い出して書いたのか?

 賢治は、札幌には3回立ち寄っています。1回目は、1913年、盛岡中学5年の修学旅行の際。この時は、学寮で舎監追い出し運動をして退寮させられ謹慎中だったためか、短歌も作文もまったく残していません。

 2回目は、1923年8月、花巻農学校在職中のサハリン旅行の帰路に、単身立ち寄ったと思われます。サハリンへの往路は、日程から見て札幌は列車で通過しただけ、下車する暇もなかったと推定されます。復路は、北海道内で2日程度を費やしており、その間の行動は不明ですが、札幌周辺にいた可能性が高いと思われます。土産品としてマリモを持ち帰っており、釧路・阿寒湖方面まで行ったのでないとすれば(列車ダイヤから、釧路往復も不可能ではないのですが)、札幌の北大か農事試験場で誰かにもらったと考えてよいでしょう。札幌周辺の逗留は、翌年の農学校修学旅行の下見だったと考えることも可能です。


∇ 関連記事⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 7.1.4〜




 3回目は、1924年5月、生徒を引率しての『復命書』の修学旅行。札幌では、1日半にわたって各所を見学しています。この修学旅行は、花巻農学校で行なわれた初めてのものであったにもかかわらず、上の盛岡中学の修学旅行と比べても見学先の数が多く、周到に計画されています。事前に下見をしていたかもしれないのです。

 1925年以後は北海道へは行っていませんから、詩全体の悲しみに沈んだふんいきから考えると、トシ病死のショックが尾を引いていた 1923年8月の単身旅行と考えるのが適当でしょう。中学修学旅行の札幌は、半日しかとどまっていなくて、北大とビール工場等を参観しただけでした。24年の引率修学旅行の際には、中島公園へ行った帰り(次回参照)に徒歩で大通公園を通過していますが、それは日没後の夜間でした。天候も、『復命書』を見ると、「灰光」の曇り空ではなく快晴でした。

 やはり、開拓紀念碑を見たのは 23年8月の時だったと思われるのです。

 作品日付が 27年になっているのは、旅行時でなく、数年後の回想によって詩想を生じたためと思われます。あるいは、特定のどの旅行と定めにくい回想だったのかもしれません。






∇ 本記事はこちら⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜【73】札幌市



∇ つぎの記事⇒:札 幌 (2)

∇ ひとつ前の記事⇒:小 樽 (3)




.
しおり
記事一覧を見る

ギトンの人気記事

  • 南湖と大津(4)
    投稿日時:2018-03-18 17:28:18
  • ハームキヤ(17)
    投稿日時:2018-08-06 04:18:09
  • トキーオ(21)
    投稿日時:2017-11-29 19:26:45

おすすめトピックス

カテゴリーランキング

趣味全般カテゴリーの人気記事ランキング

ピックアップブログ
新着おすすめブログ