小 樽 (3)




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北の大地に宮沢賢治の足跡を追っていきます。








海の見える町




 宮沢賢治が小樽を訪ねていた 1923-24年ころ、小樽高等商業学校には、のちに著名になる2人の文学青年が在学していました。小林多喜二と伊藤整。

 “ミヤケンの旅”としては道草になりますが、今回は、この対照的作風のふたりにスポットを当ててみたいと思います。








「私が自分をもう子供でないと感じ出したのは、小樽市の、港を見下す山の中腹にある高等商業学校へ入ってからであった。その学校は、落葉松に蔽われた山の中腹を切り崩して、かなり広い敷地を取って建てられてあった。校舎は薄い緑色に塗った木造の二階建で、遠く海に面していた。
〔…〕

 この学校は3年制の専門学校で、
〔…〕生徒は、5年制の中学校や商業学校を終えたもので、その新入生の平均年齢は数え年で十八九歳であった。私はこの港町の中学校を終えたばかりで、数え年18歳であり、同じ中学校から一緒に入った仲間が7人ほどいた。その同じ町の商業学校から入ったのは、もっと多く、15人ぐらいはいた。その外は、全国各地から、この北国の専門学校を自分にふさわしいものとして選んで入学して来た青年たちであった。」
伊藤整『若い詩人の肖像』より。



 小樽高等商業学校

 小林多喜二 1921年入学 1924年卒業
 伊藤整   1922年入学 1925年卒業







小樽商科大学

正門から構内を望む。

建物はみな新しくなっていますが、
正門からまっすぐに奥へつづく
ゆるい坂は、整と多喜二が在学して
いた――そして、宮沢賢治が
修学旅行生を連れて見学した――
当時と変らないようです。



「海沿いに長く延びた小樽市の背後を囲んでいる山の中腹まで、かなり急な坂を 20分ほど登ったところの左手に校門があった。門を入ると、左方の海側には、テニス・コートを前にした2階建の寄宿舎があり、右の山側には生徒控室にも使われる講堂があった。その寄宿舎と講堂の間のゆるい坂をのぼると、右手に2階建の主屋があり、左手は芝生の生えた校庭で、小樽の市街と港の水面がそこから見下された。

 
〔…〕半分以上の生徒たちは、毎朝下の町の寄宿舎から、または下宿屋や自宅から、20分あまりかかる長い坂をのぼって、登校した。彼らはこの坂を地獄坂と言った。〔…〕

 入学式の日、
〔…〕校長が、生徒への祝辞として『本校においては諸君を紳士として扱うのでありますから、諸君もまた、紳士という言葉にふさわしい行動をされることを希望いたします。』と言った。壇の両側に並んでいる教授たちも、ある人はいかにも若々しい学者風であり、ある人は重厚な紳士風であった。中学校の式の日のように、囚人を監督するような眼で生徒を見ているものはなかった。〔…〕私は、自分がもう子供として、また囚人のような中学生として扱われていないことを感じた。〔…〕

 この学校で自分が大人として扱われる事が、その自棄的な気持から私を、また私の仲間を解き放った。
〔…〕もう私たちは、檻(おり)に押しこめられ、その中で自分の排泄物に汚れている外に生きようのない動物じみた少年ではなくなった。私たちの性は汚れや屈辱でなく、異性に働きかける恋愛であってもいいし、放蕩の形をとってもいいのであった。」
伊藤整『若い詩人の肖像』より。






地獄坂 
小樽商大前から海岸方向を望む。

小樽商大と商業高校の通学路
になっているこの坂は、歩いて
登るのがきついほどの急坂。
商大の学生たちは、登校はバス、
下校は徒歩がふつうのようでした。







「入学後間もないある日、生徒控室のそばの掲示板のある所から本屋に上る階段の中途に、学校新聞が張り出されていた。それには大きな見出しに赤インキで印がつけてあり、ある教授の攻撃文がのっていた。
〔…〕

 私の入る前の年、全国の高等学校や専門学校に軍事教練が行われることになった。
〔…〕この高等商業学校の生徒たちは軍事教練の反対運動を起した。それに続いてその運動は各地の高等学校や大学に飛び火し、全国的な運動になった。〔…〕

 私は、その階段廊下の壁に張られた某教授攻撃の学校新聞を読んだとき、すぐにその軍教反対事件を思い出した。この学校には、あの連中がいる。ここではまた何が起るか分らない。
〔…〕

 その新聞を読んでから四五日後のことだった。私はまたその階段廊下を上って、本屋の正面の方の教室へ行こうとして、リノリウムの廊下を左へ曲った。すると向うから、髪を伸ばして七三に分けた小柄な生徒が、青白い細面の顔に、落ち着いた、少し横柄な表情を浮べ、廊下の真中を、心持ち爪先を開いて、自分を押し出すように歩いて来た。

 その時、私はハッとした表情をしたにちがいなかった。小林多喜二という名がすぐ私の頭に浮んだからである。その生徒は、私を知らなかったが、私の表情にには気がついたようであった。なぜなら、その時、彼の方は、見知らぬ他人に自分を覚えられている人間のする、あの『オレは小林だが、オレは君を知らないよ』という表情をしたからである。

 その時私は、あの新聞で教師攻撃をしているのは小林の仲間にちがいない、と直感的に悟った。それは、その時彼が、攻撃にはいつでも応じてやる覚悟がある、というような、必要以上に強い表情をしているように私が感じたせいであった。
〔…〕

 はじめて廊下で逢った時から小林に気附いたのは、私の方が彼の顔を見知っていたからである。

 この、若くして人生に疲れたような青白い顔をした小柄な青年を、私は3年ほど前から毎朝にように見ていた。私よりも1年前にこの学校へ入るまで、彼はこの町の北海道庁立の商業学校の生徒であった。庁立商業学校は、この高等商業学校のすぐ崖下にあった。
〔…〕
伊藤整『若い詩人の肖像』より。





地獄坂 
小樽商業高校(旧・道立商業学校)
から商科大学の方向を望む。

多喜二は、小樽商業高校の
前身・北海道立商業学校を卒業し、
小樽高商(現・小樽商科大)に
進学しました。






「この港町は海に沿って左右に1里ほどの長さに延びている。
〔…〕海岸通りの南方の町端れには、私がこの間まで通っていた古い中学校が谷間に隠れるような形で建っていた。〔…〕

 小樽市の中央停車場は、高等商業学校から坂を下りて、少し左に折れた所にあった。だから、中学生のときの私は、毎朝、その停車場から海と並行した幾つかの町を通り、南方に35分ほど歩いて、その中学校に通った。

 朝、私が中学校に近づくに従って、その中学校へ登校する生徒の数が増し、かなり広い町通りが中学生で埋まるようになる。毎朝きまって、その頃、小柄な、顔色の蒼い商業学校の生徒が、 肩から斜に下げたズックの鞄を後ろの腰の辺へのせるように、少し前屈
(かが)みになり、中学生の群の流れをさかのぼる一匹の魚のように、向うから歩いて来た。毎朝のことなので、私はその少年を見覚え、今日はこの辺で逢うから、あいつは朝寝坊をしたとか、今日は私の方の汽車が遅れたから、こんな所であいつに逢った、と考えるようになった。

 そのうちに、私は、その商業学校の生徒が、私たちの中学校の坂の下にある小林というちょっと大きな菓子屋兼パン製造工場から出て来ることに気がついた。あのパン屋の息子だな、と私は考えた。その蒼白い細面の商業学校生徒は、広い街上を一面に群れてやって来る中学生たちの真中をさかのぼって歩きながら、いつも何となくナマイキな顔をしていた。この港町は、商業地なので、後で出来た商業学校の方が受験率
〔受験倍率――ギトン注〕が高かった。〔…〕商業学校の方が難かしいので、商業学校の生徒は中学生よりもイバる傾向があった。あいつはそれで少しナマイキな顔をしているのだ、と私は思った。

 しかしその少年は、何となく風采が上らず、貧弱で、いつも疲れたような顔をし、鞄を後ろに背負って、配達夫のようにセッセと歩いた。」

伊藤整『若い詩人の肖像』より。




 じつは小林多喜二は、「パン屋の息子」ではなく、叔父のパン工場に住み込みで働く代わりに、学費を出してもらっていたのです。パン製造の日課から考えると、おそらく多喜二は、朝早く起きて一仕事してから登校し、帰ればまた仕事に戻る、という生活をしていたと思われます。「貧弱で、いつも疲れたような顔をし」ていたのは、じっさいに工場労働と通学のかけもちで疲れきっていたのでしょう。逢う位置から、整が、多喜二は「朝寝坊をした」と思った日も、おそらく寝坊ではなく、仕事が忙しくて出かけるのが遅れたためと思われます。

 もっとも、高等商業に進学してからは、多喜二は実家に戻り、両親のもとから通学したので、時間の余裕ができたようです。学校の図書館にはいつも多喜二がいるのを、伊藤整が見かけていますし、また、校友会活動にも多喜二は熱心に参加しています。学費は、叔父が引き続き出しています。小樽高等商業は、就職がたいへんよく、高商に入学すれば、もう将来を約束されたようなものでしたから、叔父も多喜二の将来を見込んで、工場労働から解放したのでしょう。

 多喜二の両親と兄弟は、叔父の工場よりもっと札幌寄りの「小樽築港」駅の線路際で、小さなパン屋を営み、叔父の工場のパンを売っていました。一家は、秋田県の小作農家でしたが、北海道に渡って成功した弟(多喜二の叔父)を頼って、多喜二が4歳の時に、引っ越してきたのです。

 「小樽築港」の多喜二の実家については、この記事のさいご↓に、あらためて紹介します。







小樽湾全景 
旭展望台から




〔…〕私は詩を書きはじめ、その発表場所をさがした。三木露風が詩の選者をしている『中央文学』という投書雑誌があって、それにしばしば当選する平沢哲夫というのと、小林多喜二というのが、小樽市に住んでいることに私は気がついた。私もその雑誌に投書して見た。〔…〕

 平沢哲夫が、私の姉の友達の弟だ、ということが分った。そして私は平沢と手紙のやりとりをした。多分彼の返事によって、私は毎朝中学校の坂下のパン屋から出て来る顔の青い少年が、その投書家の小林多喜二であることを知った。
〔…〕

 私が中学校の5年生になった時、小林はその高等学校の1年生になった。私はまだ白線の1本入った中学生帽をかぶっているのに、小林はそれまでの白線3本の商業学校の帽子とちがって蛇腹を巻いた矩形の徽章のついた高等商業学校の帽子をかぶっていた。

 その翌年に当るこの年の春、私がその高等商業学校のリノリウムを敷いた廊下で彼を見た時、彼は、もう投書などをしなくなっていた。小樽市の文学青年の間で仲間から重く見られているという噂のあるのを私は知っていた。そして、高等商業学校の廊下で私と逢って、二人のうちどちらかが身をかわさねばならないようになった時、私が身体をわきによけた。
〔…〕どうやら文学に心を集中しているらしい人間としてのこの上級生に道を譲るのには、奇妙な抵抗感があった。この男は、将来他人になり切ることのできない唯一の人間かもしれない、と、私は歩み去る彼を背後に感じながら、ぼんやりとそう思った。

      
〔…〕

 私は小林多喜二なる文学青年をそれと知りながら、近づかなかった。
〔…〕私は、放課後や、休講の時間には、この学校の主屋から崖縁の方につき出た建物の端にある静かな図書館へ通うようになった。そこの窓からは、眼の下に広がった町と海が見え、長い突堤に抱かれた水面には汽船がいつも五六隻浮んでいた。その図書館で私はまた、ほとんど常に、広い閲覧室のどこかに、あの蒼白い、自信ありげな顔をした小林がいるのを発見した。また来ている、とその度に私は彼の存在を意識し、うるさいように感じた。ともかく、あいつはまだオレのことを知らない、だがオレは一年生なんだから、何も気にする事はない、と私は考え直した。

      
〔…〕

 私はそれまで、この時期の新しい小説というものを、ほとんど読んでいなかった。
〔…〕高商の図書館は、小説家の作品集を豊富に並べていたが、詩集は少なかった。しかし、英語の詩集は多かったので、整は、イエーツ、デ・ラ・メア、シモンズなどの英詩を読み、イエーツの詩集『葦間の風』をノートに書き写した。

 英詩に飽きると、室生犀星、志賀直哉、芥川龍之介などの小説集を借りて読んだ。

「すると私は、それ等の本のどれもが、私が借りる前に、あの顔の蒼白い小林多喜二に読まれていることを、自然に意識した。外の教師や生徒たちならば、いくら多くの人が読んで本が汚れていても、私は平気だった。どうせ彼等には何も分る筈がないのである。ただハヤリだから、他人も読むから読んでいるにすぎない。しかし、あいつが読んだ後では、私は自分の読んでいる本の本当の中身がもう抜き去られているような気がした。
〔…〕詩ならともかく、小説を読んでいる時は、私に分らないカンジンの所を、小林の方が分っていて、それをみんな吸収してしまっているにちがいなかった。」
伊藤整『若い詩人の肖像』より。




 多喜二は、高等商業学校でも、『校友会雑誌』の編集部に属して積極的に文芸活動をしていました。1年遅れて入学した整が想像したように、軍事教練反対運動などにも加わっていたかもしれません。

 整は、『校友会雑誌』にも近づかず、短歌作品の投書は郵便でするくらい、学内では用心深くふるまっていましたから、多喜二をいつもライバルのように意識していながら、知己になる機会もなかったのでした。多喜二のほうでは、整の存在すら知らなかったようです。

 やがて、多喜二が卒業するまぎわになって、そうした二人にも“出会い”のチャンスが訪れます。

 この学校で毎年恒例の外国語劇に、ともに出演することになったのです。その年は、メーテルリンクの『青い鳥』をフランス語で上演しました。

 本来は、多喜二ら3年生が出演するのですが、2年生の整に“ピンチヒッター”としてセリフのない役が回されたのです。

 『青い鳥』のクライマックスは、幸福の「青い鳥」を探しに森へやって来たチルチル、ミチルの兄妹に対して、カシワ大王が手下の樹々や動物たちを使ってあの手この手で邪魔をするのです。


「木樵
(きこり)の子のチルチルとミチルが犬をつれて森へ青い鳥をさがしに来る。森の木たちは、共通の敵なる木樵の子をいじめて、ひどい目に逢わせる。動物たちもそれに加勢する。〔…〕

 青い鳥は、原作では槲
(かしわ)の大王の肩にとまっているのだが、どうしてもうまく肩にとまらせる装置ができない。それで2年生の中から私を選んで、槲の大王の侍童にし、その青い鳥を捧げ持たせることにしたのだ、と。」
伊藤整『若い詩人の肖像』より。



 そして、最後に、“光”が降臨して動植物の精を追い払い、チルチル、ミチルを救う筋書きなのです。“光”には、イケメンの3年生が扮したそうです。

 (話変わりますが、なんだか賢治童話の『かしわばやしの夜』に似てると思いませんか? じつは、『かしわばやしの夜』は、宮沢賢治が、妹の愛読していた『青い鳥』を題材にして、岩手郷土風にこしらえた話なんだとか‥)




「小林多喜二は顔に白粉を塗り、褐色の服を着て、落ちつかぬさまで歩きまわっていたが、いよいよ舞台稽古が始まって見ると、山羊の大きな首を帽子のようにかぶっていた。彼は槲の大王のそばにしゃがんでいる侍童の私のそばに位置をとって、下手でチルチルとミチルを守って奮闘する犬を角でつつこうとしたり、また犬の攻撃におびえたりして、中々うまく演技した。
〔…〕その間小林は、私の横にいて、鳥の足を持って支えている私に、鳥が傾いて見えては工合が悪い、と小声で注意した。〔…〕私の役の急所は、鳥が自然に私の手にとまっているように見せることだ、と私は、小林に言われて理解した。

 そして、それまで同じ学校にいて、全く物を言い合うことのなかった小林と私は、楽屋や舞台裏で気軽にものを言い合うようになった。私はそれを喜んだ。私は彼に近づき、彼の下手に立つことは決して望まなかったが、
〔…〕
伊藤整『若い詩人の肖像』より。






小林多喜二文学碑 
小樽市 旭展望台





「彼
〔小林多喜二――ギトン注〕は、〔1927年〕10月号の『文芸戦線』〔1924-34 25年結成の「日本プロレタリア文芸連盟」の実質的機関紙。葉山嘉樹、黒島伝治らが中心メンバー。――ギトン注〕に戯曲『女囚徒』を〔匿名で〕発表している。〔…〕

 私は漠然とした噂を聞いていた。それは、小林はこの頃左翼活動をしているそうだが、銀行員としてはなかなか有能なので、銀行の方でも首を切れないでいる、という噂であった。
〔多喜二は 1924年、整は 25年に小樽高商を卒業し、北海道拓殖銀行小樽支店と小樽市中学校に、それぞれ勤務していた。―――ギトン注〕〔…〕急激にこの頃から文壇ジャーナリズムの半分より大きい部分を占めるようになったプロレタリア文学の世界では、待望されている新人としての第一歩を印した、ということであった。〔…〕

 その時、向うの道路に面した窓のそばのテーブルに三四人の青年が坐っており、窓に背を向けてこちらを見ているのが小林だと私は気がついた。彼は『やあ』と言って私に声をかけた。
〔…〕小林は立って来て、私のそばでしばらく立ち話をした。私が詩集を出したことを彼が知っていて、それを話題にしたのだったと思う。〔…〕

 その時その喫茶店に集まっていた小林の連れは、洋服をきちんと来た若い男たちであったので、私は多分、銀行の同僚だろうと思った。しかし、何となくそこへ近寄ってはいけないような空気があったので、私は帰りに遠くから挨拶しただけであった。そしてその後も、彼はその二階の喫茶店で、二人か三人の人間と逢っていたが、彼の坐る席は、いつも奥の方の窓硝子を背にした片隅であったように思う。
〔…〕
伊藤整『若い詩人の肖像』より。







小林多喜二文学碑 
小樽市 旭展望台



「冬が近くなると
 ぼくはそのなつかしい国のことを考えて
 深い感動に捉えられている
 そこには運河と倉庫と税関と桟橋がある
 そこでは
 人は重っ苦しい空の下を
 どれも背をまげて歩いている
 ぼくは何処を歩いていようが
 どの人をも知っている
 赤い断層を処々に見せている階段のように山にせり上っている街を
 ぼくはどんなに愛しているか分らない」

小林多喜二文学碑・碑文
収監先の豊多摩刑務所から村山籌子に宛てた書簡(1930年)の一節。




「     小林多喜二文学碑について

        
〔…〕

 そのすぐれた業績を顕彰しようと、多喜二を知り、多喜二の文学に共感する多くの人びとの党派をこえた協力のもとに、小林多喜二文学碑建設期成会がつくられ、全国的な募金運動をはじめとする1年有余の取り組みを通じて、1965年10月、この地に建立された。
〔…〕

 碑文
〔…〕の文脈から浮かびあがってくる小樽の街並みを、いまでも展望台からかい間見ることができる。

 1933年2月20日、多喜二が特高警察の不法不当な拷問によって倒れてから今年は没後70年、そして生誕百年に当たる。この間歴史は大きな変貌を遂げたが、小樽をこよなく愛した多喜二の想いは生き続いて、いまなおここからその街を見つめている。」

現地説明板より。











伊藤整文学碑 
小樽市塩谷



 伊藤整の家は、小樽と余市の間の海岸、塩谷村にありました。小樽市の中心部を間にはさんで、多喜二の実家とは逆の側です。

 伊藤整文学碑は、この塩谷の、海を見下ろす丘の上に立っています。




「     海の捨児

伊藤整 

 私は浪の音を守歌にして眠る
 騒がしく 絶間なく
 繰り返して語る灰色の年老いた浪
 私は涙も涸れた凄愴なその物語りを
 つぎつぎに聞かされてゐて眠ってしまふ

 私は白く崩れる浪の穂を越えて
 漂ってゐる捨児だ
 私の眺める空には
 赤い夕映雲が流れてゆき
 そのあとへ星くづが一面に撒きちらされる
 あゝ この美しい空の下で
 海は私を揺り上げ 揺り下げて
 休むときもない」

伊藤整文学碑・碑文
詩集『冬夜』(1937)より。



「此の詩集の大部分を色づけているのは北海道の自然である。北海道の雪と緑とである、私の故郷は小樽市の西2里、高島と忍路
(おしょろ)との間の塩谷村である。私はそこに幼くから育ち小樽の学校へ通った。その辺一帯は、北海道とは言うものの、石狩の平野とか北見手塩の方の自然林とは大分異っている。木は落葉松が多く、栗、白樺などもある。〔つまり東北北部に似ている。――ギトン注〕海岸にそうて之等の木の繁った丘陵が続いて居る。〔…〕

 冬は11月から4月まで雪が四五尺
〔約120〜150cm――ギトン注〕も積りその間私たちはスキーをやる。全く半年は雪なのだ。春は鰊場(にしんば)の仕事がすめば、梅も桜も皆一時に咲きほこる。9月には海にも入れない様に涼しくなって了う。そして林檎が赤くみのる。〔…〕

 だから私の詩をよく解ってもらえるのは北国の人々だ。硝子に出来る朝の結晶や、吹雪に暮れる家並や、道もない夜明けや、閑古鳥の声や、落葉松の美しい浅緑などと仲の良い人たちは私の詩の背景を了解して呉れるであろう。
〔…〕

 此処に集められたものを見ていて私は涙ぐんでしまった。
〔…〕之が今までの私の全部だ。なんという貧しさだろう。幾年もの私がこんな小さな哀れなものになって了った。私はまた之からこの詩集を懐にして独りで歩いて行かなければならない。頼りないたどたどしい路を歩いて行かなければならない。私を呼んでいるものが、待っているものがあるような気がするのだ。〔…〕
伊藤整『雪明りの路』「序」〔1926.8.23.〕より。
(原文は旧仮名遣い) 







塩谷海岸
と集落




「     青葉の朝に

Je me souviens     .
Des jours anciens,   .
Et je pleure.  .
---- Paul Verlaine.----

 青葉となつて雨の降る朝
 おまへは硝子戸のかげで
 そつと黒いまつ毛の涙を拭いてゐる。

 それほどの思ひがあつたのなら
 何時かのあの月のよい
 さう僕が十九の秋の一夜
 不思議な情緒にとりつかれて海辺の丘をさまよつた夜更けに
 なぜ素足で出てきて
 身体も白く透き通つたまま
 僕といつしよに海で死んでしまつて呉れなかつたの。



      雪夜

 あゝ 雪のあらしだ。
 家々はその中に盲目になり 身を伏せて
 埋もれてゐる。
 この恐ろしい夜でも
 そつと窓の雪を叩いて外を覗いてごらん。
 あの吹雪が
 木々に唸つて 狂つて
 一しきり去った後を
 気づかれない様に覗いてごらん。
 雪明りだよ。
 案外に明るくて
 もう道なんか無くなってゐるが
 しづかな青い雪明りだよ。



      林檎園の月

A la rêverie

 地から大きく登った月
 あゝ霧がたつてゐるから 紗のやうな明るみ。
 そのなかに
 林檎園はまつ白く花ざかり。 
 とほくで蛙は鳴きやみ
 川瀬の音がした。
 私は此処でなにもかも忘れるところだつた。
 そのひとは 月光の降るなかを
 息づかしく微笑んで歩き
 わたしの話に聞き入つてゐた。
 わたしはゆめのなかのやうに じぶんをわすれて
 すべてゆるされるとさへ思はうとした。
 私は妖しい花の精に憑かれてゐたんだ。
 夜ぎりのなかに その目は深く
 えりあしは銀のやうだつた。
 あゝりんごゑんのつきのよる
 わたしはすべてゆるされるとさへ思つてゐた。」

伊藤整『雪明りの路』より。











「野面
(のづら)は青黒く暮れかかっていた――背が粟立つほど、底寒かった。

 健達の、このS村は、吹きッさらしの石狩平野に、二、三戸ずつ、二、三戸ずつと百戸ほど散らばっていた。それが『停車場のある町』から一筋に続いている村道に、縄の結びこぶのようにくッついていたり、ずウと畑の中に引ッ込んでいたりした。丁度それ等の中央に『市街地』があった。五十戸ほど村道をはさんで、両側にかたまっていた。

 平原を吹いてくる風は、市街地に躍りこむと、ガタガタと戸をならし、砂ほこりをまき上げて、又平原に通り抜けて行った。――田や畑で働いていると、ほこりが高く舞い上りながら、村道に沿って、真直ぐに何処までも吹き飛ばされて行くのが見えた。

 どっちを見ても、何んにもない。見る限り広茫としていた。冬はひどかった。電信柱の一列が何処迄も続いて行って、マッチの棒をならべたようになり、そしてそれが見えなくなっても、まだ平であり、眼の邪魔になるものがなかった。所々箒をならべ立てたような、ポプラの『防雪林』が身体をゆすっていたり、雑木林の叢が風呂敷の皺のように匐っていた。

 S村の外れから半里ほどすると、心持ち土地は上流石狩川の方へ傾斜して行っていた。河近くは『南瓜』や『唐黍』の畑になっていたが、畑のウネウネの間に、大きな石塊
(いしくれ)が赤土や砂と一緒にムキ出しに転がっていた。石狩川が年一度、五月頃氾濫して、その辺一帯が大きな沼のようになるからだった。――畑が尽きると、帯の幅程の、まだ開墾されていない雑草地があり、そこからすぐ河堤になっていた。

 子供達は釣竿を振りながら、腰程の雑草を分けて、河へ下りて行った。

 河向うは砂の堤になっていて、色々な形に区切られた畑が、丁度つぎはぎした風呂敷のように拡がっていた。こっちと同じ百姓家の歪んだ屋根がボツ、ボツ見えた。

      
〔…〕


 健達の一家も、その『移民案内』を読んだ。そして雪の深い北海道に渡ってきたのだった。彼等も亦自分達の食料として取って置いた米さえ差押えられて、軒下に積まさっていながら、それに指一本つけることの出来ない『小作人』だった。

 健は両親にともなわれて、村を出た日のことを、おぼろに覚えている。
〔…〕

  暗くなってから、荷物を背負って外へ出た。峠を越える時、振りかえると、村の灯がすぐ足の下に見えた。健は半分睡り、父に引きずられながら、歩いた。暗い、深い谷底に風が渡るらしく、それが物凄く地獄のように鳴っていた。――健はそれを小さい時にきいた恐ろしいお伽噺のように、今でもハッキリ思い出せる。

 『誰とも道で会わねばええな。』――父は同じことを十歩も歩かないうちに何度も繰りかえした。

 五十近い父親の懐には『移民案内』が入っていた。

 道庁で『その六割を開墾した時には、全土地を無償で交付する』と云っている土地は、停車場から二十里も三十里も離れていた。仮りに、其処からどんな穀物が出ようが、その間の運搬費を入れただけで、とても市場に出せる価格に引き合わなかった。――それに、この北海道の奥地は『冬』になったら、ロビンソンよりも頼りなくなる。食糧を得ることも出来ず、又一冬分を予め貯えておく余裕もなく、次の春には雪にうずめられたまま、一家餓死するものが居た。――石狩、上川、空知の地味の優良なところは、道庁が『開拓資金』の財源の名によって、殆んど只のような価格で華族や大金持に何百町歩ずつ払下げてしまっていた。
〔…〕

 何千町歩もの払下げをうけた地主は、開墾した暁にはその土地の半分を無償でくれる約束で、小作人を入地させながら、いざとなると、その約束をごまかしたり、履行しなかった。

 健の父は二年で『入地』
〔入植地――ギトン注〕を逃げ出してしまった。『移民案内』の大それた夢が、ガタ、ガタと眼の前で壊れて行った。仕方のなくなった父親は『岸野農場』の小作に入ったのだった。

 『日雇にならねえだけ、まだええべ。』



      村に地主はいない

 
〔…〕北海道の農村には、地主は居なかった。――不在だった。文化の余沢が全然なく、肥料や馬糞の臭気がし、腰が曲って薄汚い百姓ばかりいる、そんな処に、ワザワザ居る必要がなかった。そんな気のきかない、昔型の地主は一人もいなかった。――その代り、地主は『農場管理人』をその村に置いた。だから、彼は東京や、小樽、札幌にいて、ただ『上(あが)り』の計算だけしていれば、それでよかった。――S村もそんな村だった。

      
〔…〕


 雨が二週間以上も続いた。

 初め硝子の管のように太い雨が降った。雷が時々裂けるような音をたてた。――何時も薄暗い家の隅までが、雨明りで明るく見えた。

 それが上らず、そのまま長雨になってしまった。
〔…〕

 稲が実を結びかけていた大切な時を、雨は二十日間降ってしまった。所々ボツンボツンと散らばっている小作の家は、置き捨てにされた塵芥箱のように意気地なく――気抜けしてしまった。

      
〔…〕

 『百姓嫌
(え)やになった。』――健は集ってきた友達に云った。

      
〔…〕


 実が黒く腐っていても、穫入れて『米』にしなければならない。それから一ヵ月位の間、小作は朝三時頃から夜の七時、八時頃迄働き通した。――収穫は『五割』減っていた。

 五割! では小作は一体何のために働いたんだ。

 健は稲のいがらッぽい埃で、身体をだるまにしながら、『やめた、やめた!』カッとして、そのまま仕事を放り出して、上り端に腰を下してしまった。

      
〔…〕

 『半分だ。――ええもんだな。一年働いて半分しか穫れなかったら、丁度小作料だべ。岸野さそのままそっくりやっても足りねえ位だ。
〔…〕

 田から上った稲を一粒一粒の米にする。ところが、その米が残らずそのまま岸野
〔健の一家が入った「岸野農場」の地主―――ギトン注〕に持って行かれてしまう。――それがハッキリ分っている。分っていて、その米を一生ケン命籾にして、殻をとり、搗いて白米にしている。何んて百姓はお人好しの馬鹿者だ!」
小林多喜二『不在地主』より。
(原文は旧仮名遣い) 




「私はその頃、文学青年としての小林を、小説の書き方では、自然主義系の写実的な手法で書いて、かなりうまいけれども、書き方が少し時代遅れだ、と思っていた。
〔…〕

 小林は、暗い写実主義の手法で、菊池寛が書いたような一種のテーマ小説を書いた。また彼は、色白で細面の小柄な男であったが、きっとなって人を見つめる癖があり、本質的に強気で、身体ごと物事にぶつかって行くという雰囲気を身のまわりに持ち歩いていた。見栄の強い英雄意識というよりも、いつでも捨て身になれる、という性質を持っていた。
〔…〕これは面白い、書こう、と思えば、彼は容赦をしなかったのである。だから、彼が左翼運動に入っているという噂を聞いた時、すぐ、それは本当だろうと私は思った。敢て何事かをする、ということなしには才能というものは生きないのかもしれない。

 小林を小林たらしめたのは、その敢て事をする気質と、それまでの四五年間にこねまわすようにして身につけていた写実主義の手法の確かさであった。この手法の確かさが、指導理論の無理な要請に応じた乱暴な材料の取り入れ方や、書き方をし、また落ちつきのない潜行運動の中であわただしい仕事をしたにかかわらず、彼の作品の基調にいつも崩れてしまわないデッサンの力を持続させたのであった、と私は思っている。

 時には彼は、もっと巧妙に書ける自分の技術をわざと下手に見せることで、政治意識の強調を狙ったと思われた作品を書いた。彼の作品の粗末なところは、作った乱暴さの効果を狙った文章である。

 彼は昭和元年『クラルテ』
〔小樽で、多喜二とその仲間が発行した文芸同人誌 1924-26―――ギトン注〕を廃刊にする頃までに、売笑の巷にいる女性に近づいていて、それを救おうとして苦しんだようである。その問題を解決できないことと、文学的野心とが、彼を実際運動の世界に、また、プロレタリア文学の世界に駆り立てたのであったらしい。私はその頃、小林の、少年時代から叔父のパン工場で働きながら通学したという経歴や、その女性問題を知らなかった〔…〕
伊藤整『若い詩人の肖像』より。




 小林多喜二の文学については、ギトンより的確に解説する方がおおぜいいらっしゃるでしょうから、そちらを参照願います。ここでは、2点だけ指摘しておきたいと思います。

 ひとつは、多喜二の小説のすぐれたリアリズムは、彼が“情報の結節点”にいたことと無関係ではなかろうという点です。彼の小説の長所は、同時期の他のプロレタリア作家と比べてみれば歴然としています。“指導理論”の要請する社会的なパースペクティヴを立派に具えながら、観念性におちいることなく、まるで、作中に描かれる小作人や労働者自身の眼で見ているかのようにリアルなのです。

 伊藤整が書いているように、多喜二は高商卒業後、拓殖銀行に勤めながら、銀行員として知りえた地主側の情報を小作争議団にリークすることが、彼に求められた組織活動でした。整は、


「その喫茶店に集まっていた小林の連れは、洋服をきちんと着た若い男たちであったので、私は多分、銀行の同僚だろうと思った。しかし、何となくそこへ近寄ってはいけないような空気があった
〔…〕そしてその後も、彼はその二階の喫茶店で、二人か三人の人間と逢っていたが、彼の坐る席は、いつも奥の方の窓硝子を背にした片隅であったように思う。」


 と書いています。

 「洋服をきちんと着た若い男たち」は、小作争議を指導している労農党・共産党の関係者であったでしょう。田舎町には不釣り合いなほどきちんとした身なりをしているのは、官憲に怪しまれないためです。若い男性が、警官に不審がられず、職務質問を受けないようにするには、スーツ・ネクタイをきちんと着こなして行動するのが一番です。それは今も昔も、また世界中どこでも同じなのです。

 そして、小林と、その男たちとの間では、小林が情報をリークするだけでなく、争議団のほうからも、小作人の動向についての情報が交換されたはずです。現場の状況を知らなければ、有用な情報をそれと知ってキャッチすることができないからです。こうして“情報の結節点”にいたことが、多喜二のリアリズムを生むひとつの条件になったと思うのです。

 それは、プロレタリア作家の誰でもが、また労働運動に加わっている誰もが、持ちうる条件ではなかったと思います。

 多喜二のリアリズムの特質は、しばらく前(【ニセコ】)に掲載した有島武郎『カインの末裔』の断片と比較してみれば、よくわかります。目前の情景描写のリアルさという点では、あるいは有島のほうがまさっているかもしれません。しかし、有島の描く小作人「仁右衛門」は、どこから来て、どこへ流れて行こうとするのか、まったくわかりません。おそらく、有島自身それを知らないでしょう。“来し方・行く末”を踏まえてはじめて、その人間にとっての、彼だけの“真実”は、語られうるのです。

 どこから来て、どこへ行くのか?‥それを多喜二が描きえたのは、資本主義社会の秘密を暴く“指導理論”があったからではなく、彼が“情報の結節点”に立って、多くの労働者の、また資本家の、体験を総合しうる立場にいたからだと思います。

 もっとも、逆に、有島の描いたような、小作人の中でも他の小作人たちからは外れた“アウトサイダー”を登場させることは、多喜二にはできなかったかもしれません。それは、彼の限界だったと思うのです。



 第2点ですが、ギトンはこれまで、多喜二の小説を読んで、上の引用に赤字で示したような比喩に出会うたびに、食べているご飯の中から小石が出てきた時のような違和感を感じていました:


「初め硝子の管のように太い雨が降った。」

「所々ボツンボツンと散らばっている小作の家は、置き捨てにされた塵芥箱のように意気地なく――気抜けしてしまった。


 多喜二の文章は、全体としてとても巧みなのに、ときどき急に、こういう浮いたような比喩が現れるのです。

 伊藤整は、このような部分は、あえて「作った・乱暴さの効果を狙った文章」なのだと指摘しています。たしかに、多喜二は、一定の効果を狙って、こういう書き方をしているのだと思います。

 その効果とは、もしかすると一種の“異化”を狙っているのではないかと、――最近になって気づきました。

 多喜二の小説は、内容が内容ですから、どうしても煽情的なものになります。描写というものは、ふつうは“同化”を、つまり読者の感情移入をねらいます。描かれた場面を目の前のことのように、描かれている人物を自分のことのように、読者に思わせることが、描写のねらいです。しかし、煽情的な内容の小説で、感情移入が過ぎると、読者は我を忘れ、状況を広く見渡す眼を失ってしまうかもしれません。つまり、小説ではなくアジテーションになってしまう。

 そこで、多喜二の小説の、まわりの描写から浮いたような異様な箇所は、読者が感情移入しようとするのをあえて妨げて、読者の頭を冷やす効果を持っているのではないかと、考えてみたのです。そして、読者を冷静にさせて、物語の状況を見わたして判断するようにさせ、そうすることによって、単にアジテーションによってカッとさせるのではなく、労働者が自ら自立して判断することを、多喜二は促しているのではないか?‥‥そんなことを考えてみました。







小林多喜二
住居址
小樽築港駅の線路際に標示板(青矢印)があります。




小林多喜二

(1903〜1933)

住 居 跡

(旧若竹町十八番地)

 明治末期、秋田から移住した小林多喜二の一家は、鉄道線路を背に、小さなパン屋を営んでいた。

 当時、家の裏手は築港の工事現場で、タコと呼ばれた土工夫が苛酷な労働にあえぎ、非人間的なタコ部屋に押しこまれていた。その実態は多喜二の心に深く焼きつけられ、後年『人を殺す犬』『監獄部屋』などの作品を生んだ。秀作『同志田口の感傷』の姉弟が鰊漁で湧きたつ熊碓浜(東小樽)へ行くのもこの家からである。

 緑町の小樽高商(現小樽商科大学)へは4キロの坂道を歩いて通った。勤め先の北海道拓殖銀行小樽支店へは、築港駅から旧手宮線色内駅まで汽車で通勤した。

小 樽 市

――――――――

小林多喜二住居跡はここから
約20メートル先、国道側」

現地標示板








 さて、今回引用してきた伊藤整の『若い詩人の肖像』には、宮沢賢治に関係することも書かれています。さいごに、その部分を見ておきたいと思います。



「大正末期の三四年間、『日本詩人』に集まった自由詩派や民衆詩派を中心とする詩人たちが、新潮社という一流出版社から出たこの雑誌を舞台にして、活躍した。その結果三木露風と北原白秋という大正初期の唯美主義者や、その後に続く芸術至上主義的な日夏耿之介、堀口大學、西條八十等が詩壇の片隅に立ち退いた恰好になった。それだけでなく、『日本詩人』はその次の時代の詩人に対して門戸を開放する仕方が足りなかった。吉田一穂、佐藤一英等の唯美派の新人も目立たなかったし、平戸廉吉、萩原恭次郎、草野心平、岡本潤、高橋新吉等のアナーキストやダダイスト系の新人たちもよい発表場所がなかった。

 その感情は、民衆派の代表的な一詩人で『日本詩人』の中心になっていた某
〔白鳥省吾――ギトン注〕が、大正13年に出た宮沢賢治の詩集『春と修羅』を読んで驚き、岩手県に行ったとき宮沢を訪ねたところ、宮沢は面会謝絶を喰らわした。そのゴシップがいかにも痛快だという調子で宮本吉次の編輯していた『詩壇消息』にこの頃書かれていた。私は宮沢賢治を立派だと思い、自分の顔が赤らむのを感じた。

 そのような詩壇の若手の不満の気持が大正の末年には、爆発的に盛り上りかけていたのである。」

伊藤整『若い詩人の肖像』より。



 日本文学史の概説を見ると、“民衆詩派”は大正末年に栄えた社会性のある口語自由詩の運動で、“大正生命主義”が背景にあったが、「読むに足る作品を生み出していなかった」とあります。もっとも、『日本詩人』は、1926年まで刊行されています。1926年(昭和元年)あたりが、“民衆詩派”の凋落期なのでしょう。

 国会図書館の目録で『日本詩人』の各号目次を見ると、新人特集号も出ているのですが、そこには、今日に名の残る詩人がまったくいないことに驚かされます。おそらく、民衆詩派は自派の新人だけを掲載していたのでしょう。

 萩原朔太郎は、1922年に『読売新聞』に書いた論評で、白鳥省吾の書いた自由詩の改行を取った散文を掲載して、「散文にして恣に詩の仮面をかぶり、しかも行列の欺瞞により自ら自由詩と僭する。」と激しく批判しました(民衆詩論争)。



 上の「詩壇消息」の記事は、『太平洋詩人』1927年3月号に草野心平が書いた記事によっていると思われますが、草野は、「白鳥省吾氏が会いたい由をつげた時、私にはそんな余裕がないといつてはねかへしたそうだ。……私は内心万歳を叫んだ。」と書いています。草野は、詩壇を支配する白鳥の“賢治詣で”に対して、賢治がピシャッと門前払いをくらわしたとして、まさに我が意を得たりという調子で、この噂を広めていました。白鳥省吾のほうは、翌号の『太平洋詩人』に「草野心平君に」という題で反論を寄せて、事実無根だと主張し、「宮沢君とは……特に逢ひたいと思つたこともありません。」と主張しました。

 戦後になって、関係者の証言により、“門前払い”は事実であり、しかも草野に伝わった以上のものであったことが判明しています。白鳥は事前に賢治とのあいだで面会の約束をしていたのに、賢治は、前日になって突然、盛岡に泊っていた白鳥の宿屋に使いの者を送って、急な用事で会えなくなったと伝えたのです。しかし、避けられない用事があったわけではなかったようです。つまり、ドタキャンであったわけです。

 事実が判明した現在では、“賢治研究圏”では、賢治のこの行動を非難する人さえいるほどです。残念がる人は、もっと多いでしょう。しかし、ギトンはむしろ、草野心平、伊藤整とともに、さすがケンジさま、ご立派!! と讃えたい気持ちですw






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