小 樽 (2)




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北の大地に宮沢賢治の足跡を追っていきます。








手宮洞窟とフゴッペ洞窟




 手宮洞窟は、小樽市にある続縄文時代の遺跡。洞窟内の特異な線刻壁画は、沿海州・シベリア方面との文化的つながりを証しています。

 この洞窟遺跡は幕末(1866年)に発見され、明治時代には英国人地質学者ジョン・ミルンや、開拓使の榎本武陽らによる調査が行われ、1921年に国の史跡に指定されました。

 しかし、当時国内では唯一ここでだけ発見された線刻壁画をめぐっては、さまざまな臆説が唱えられていました。

 賢治が北海道を訪れていた 1910-20年代には、壁画を突厥(古代トルコ族)文字だとする学説が有力になり、“解読した”と主張する学者まで現れ、摂政の宮(昭和天皇)も見学に赴いたほどでした。結局その学説は根拠のないマユツバ物だったのですが、“外敵の襲来を撃退した”という、かなり政治的な文脈で世間の注目を集めていたのです。







手宮洞窟保存館 
小樽市手宮

現在は海岸の埋め立てが進んで
いますが、かつては、道路から
手前は海でした。
「手宮洞窟」は、海蝕崖の側面
にあり、現在は、鉄の覆屋で
すっぽりおおって保存しています。




 続縄文文化とは、本州で稲作を中心とする弥生文化が広がっていった紀元前3世紀以後、北海道を中心としてさかえた狩猟と漁労を中心とする文化。その担い手は、縄文人の子孫であり、アイヌの直接の祖先であったと考えられています。縄文時代よりも、オットセイなどの海獣や魚貝の比重が高く、北方の海の豊饒に支えられた文化だったと言えます。

 当時北海道は、沿海州・サハリンの産物と、日本本州の産物が交易される結節点で、本州製の鉄器のほか佐渡が島産の碧玉の勾玉などが出土しています。北方からは、毛皮などの交易品が本州に持ち込まれていました。



 「手宮洞窟」の線刻壁画は、当時国内ではここにしか見られない珍しいものでしたが、摩滅が激しいために、模写が想像を招き、さまざまな憶測を呼んだのでした。

 洞窟内には、江戸時代のトックリの破片も残されており、“発見”よりも相当以前から人の入りこんだ形跡がありました。壁画は、相当の長期にわたって外気に曝されていたために、細部がわからないほど摩滅していたのです。

 1913年、考古学者の鳥居龍蔵が、この線刻は突厥文字だとの主張を講演で述べて以来、「手宮文字」は、学問の枠を超えて世間の好奇心を集めることになりました。

 「突厥」は、唐の時代に中国北辺を支配したトルコ系遊牧民ですが、鳥居は、そのトルコ系の文字を使用する沿海州の「靺鞨族」が、北海道に渡って来たと主張したのです。そして、洞窟の「手宮文字」は、靺鞨の用いたツングース系の言語を記したものだとしました。

 たしかに、手宮洞窟の壁画は、細かい部分が磨滅して見えなくなっているので、想像力をたくましくして“判読”すると、文字のように見えてしまいます。しかし、突厥文字とは表面的な類似にすぎません。





手宮洞窟壁画
の模写 手宮洞窟保存館

上は明治時代の模写で、
下は 1950年ころの模写。



 ↑下の模写は学術調査による正確なものですが、すでに摩滅によって線刻の周りが崩れて太くなってしまっているかもしれせん。

 上の模写は、まだ摩滅が少ないのかもしれません。明治時代には、このように、記号か文字のように見える形が目に入りやすかったのかもしれません。




突厥文字 
トニュクク碑文
モンゴル国 TÜRIK BITIG:Tonyukuk’s Memorial Complex
東突厥の武将トニュクク(c.646-c.726)が自らを称えて建てた石碑。

90°右に回転すると、上の模写の
「手宮文字」に似ていなくもない
字形になります。






 「靺鞨」は、「渤海」国を構成した民族ですが、文字をもたない民族で、“靺鞨語”を記した文献も遺物も存在しません。もちろん、トルコ文字で“靺鞨語”を書いた記録など存在しないのです。それなのに、北海道の洞窟にある線刻画を、“トルコ文字で書かれた靺鞨語だ”と主張するのは、かなり大胆な冒険、ないしは根拠のない妄想と言うべきです。

 ところが、鳥居の講演筆記が世に出ると、“「手宮文字」は突厥文字で書かれたツングース語の碑文だ”という主張が独り歩きしてしまい、ついに、“「手宮文字」を解読した”と主張する学者まで現れましたw

 言語学者の中目覚は、1918年に「手宮文字」を“解読”したとして、


 「……我は部下をひきゐ、おほうみを渡り……たたかひ……此洞穴にいりたり……」


 という“碑文”の“翻訳”を公表しました。そして、手宮洞窟は、戦死した「靺鞨」の族長を葬った墓にほかならないと主張したのです。

 大和朝廷の命を受けて北海道に遠征し「蝦夷」を征服した阿倍比羅夫
(あべ・の・ひらふ)が、大陸から移民してきた「靺鞨族」と戦い、打ち破ったと言うのです。阿倍比羅夫の「蝦夷」遠征は『日本書紀』に書かれている話ですが、これじたい史実かどうか定かではないのに、さらに尾ひれをつけて、敵将の碑文と墓を“発見”してしまうのですから、まったくマユツバもいいところです。

 しかし、当時の世相は、この“外冦撃退説”を、第1次大戦後の“日本帝国抬頭”“大陸進出”の時流にふさわしいものとして、歓呼をもって迎えたのでした。


 【参考】⇒:手宮洞窟保存館(公式HP)

 【参考】⇒:Wiki:続縄文時代

 【参考】⇒:Wiki:手宮の「文字」








「手宮文字の解読の話題性はどこにあったのであろうか。
〔…〕先ず、古代文字の解読ということが持つ話題性である。〔…〕

 もう一点は、日本書紀の記述が実証されたことである。日本書紀は、言うまでもなく明治維新の王政復古によって始まった天皇主権体制の下で、天皇の主権者としての神聖な地位の起源を権威付けるための文献的典拠として、絶大な政治的役割を果たした。」

秋枝美保『宮沢賢治の文学と思想』,2004,朝文社,pp.76-77.



 明治以来、西洋近代科学の導入とともに、『古事記』『日本書紀』などに対しても史料としての批判的研究が進み、この大正時代には、それまで頭から信じられていた多くの神話的記事の史実性が、疑問視され否定されてゆく過程にありました。そうしたなかで、『日本書紀』に書かれた阿倍比羅夫の外征記事は史実であったと“実証”する根拠が発見されたのですから、一般社会は中目の“解読”を、国家主義的熱狂をもって迎えたのでした。

 とくに北海道に関しては、日本人の植民の正当性を証拠立てる意味があったと言えます。ヤマトはすでに奈良時代より以前から“蝦夷”を征服し、“蝦夷”の住民を外敵の侵入から守ってさえいたことになるのですから。。。

 こうして「手宮文字」は、またたく間に世間の話題となり、北海道の旅行案内書までが、中目の解読文を掲載して、手宮洞窟を『日本書紀』にかかわる遺跡として詳しく紹介したほどでした。






手宮洞窟
の前で記念撮影する
摂政の宮(昭和天皇)[赤矢印] 
1922年7月








 ところが、中目の“解読”発表からわずか数年後の 1922年には、地元の郷土史家が“突厥文字説”と“解読”のずさんさを指摘し、鳥居-中目説は、またたくまに学界から姿を消すことになるのです。

 1922年7月には、小樽に行啓した摂政の宮が「手宮文字」に強い関心を示し、「手宮洞窟」を見学するなどしているのですが、『日本書紀』や阿倍比羅夫の遠征について発言することはありませんでした。新聞論調も、「先人の遺せし古代文字を御感興深げに」などの当たりさわりない表現におさえられています。

 同時に、東京で皇室のまわりにいる第1級の学者たちは、鳥居-中目説の全面否定に固まったと思われます。摂政の宮が昭和天皇に即位した後の 1927年、手宮からほど近い余市町で、「手宮洞窟」と同様の線刻壁画が発見されました。ところが、この発見に興味をもった昭和天皇の下問に対し、金田一京助は、「あれは、自分の知り合いのアイヌが、子供の時に書いた落書きで、史跡としての価値はない。」などとデタラメの回答をしているのです。

 おかげで、この余市の線刻画は、保存されることもなく崩壊してしまいました。線刻画のあった場所は、その後 1950年に「フゴッペ洞窟壁画」↓が発見された岩山のすぐ裏手だと云いますから、おそらく、「手宮」「フゴッペ」と同じ続縄文人の壁画遺跡だったと思われるのです。たいへん残念なことをしてしまったものです。

 ともかく、そういうわけで、「手宮文字」をめぐる熱狂は、1918-22年というわずか数年の間に一世を風靡し、またたくまに鎮静化し、忘れ去られてしまったことになります。同時に、アイヌや先住民の文化は価値のないものとして無視する風潮が定着してしまったとも言えます。日本民族の純血性、独自性を誇り、異民族を差異化し排除する傾向(国粋主義)が、ナショナリズムの主流を占めるようになり、ひいては“大東亜”戦争への道を準備したと言えるかもしれません。

 秋枝氏によると、1910年代に流行した“日本人北方起源説”は、「日清・日露戦争前後のナショナリズムの台頭と軌を一にして登場したもの」でした。それは、「柳田国男、鳥居龍蔵など当時の学者、インテリ層の意識の根底にあったヨーロッパ中心主義、欧化主義」の現れでした。たとえば、金田一京助の 1923年の論文によると、アイヌは、純粋なコーカサス系(ヨーロッパ系)白人種であって、コーカサス系が、グリーンランドとベーリング海峡を経て、最も西へ移動して来たのがアイヌだと言うのです。したがって、アイヌと同系の日本人もまた、ヨーロッパ人種だというのです。ヨーロッパ優位の人種ヒエラルキーを前提として、そのなかで日本人をできるだけ上位に置こうとする意識に基いていたと言えます。(秋枝,pp.50-56)

 これは、ある意味で、たいへん楽天的・調和的な形で国家主義と結びついていました。

 これに対して、ヨーロッパ系の民族誌学者や考古学者の多くは、アイヌは日本人とは民族的に全く異なる系統だとしており、この理論は、1920-30年代の日本に強い影響を及ぼしました。テッサ・モーリス・スズキ(オーストラリア国立大学教授,日本近代史)によれば、この 20-30年代は、日本で「民族の純粋性や独自性といった観念が支配力を拡大した」時代であり、「こうしてアイヌを『日本人』から排除することが、日本人の民族的・文化的な絶対的純粋性を肯定し直す手段を提供」したのです(大川正彦・訳『辺境から眺める――アイヌが経験する近代』,2000,みすず書房,p.51.)

 つまり、1910年代には、日本人の起源は北方にあり、アイヌは日本人と同系だ、あるいは日本人の一部だという説が、北海道から、千島、サハリン、シベリア方面への日本人の進出を正当化する意味をもって唱えられたのに対し、

 1920-30年代になると、方向が逆転し、日本人の純粋性・独自性が強調され、アイヌは日本人とは別個の「滅びゆく」民族だとして、排除してゆく考え方が支配的になるわけです。



 賢治詩「雲とはんのき」に書かれた「手宮文字です 手宮文字です」という謎の語句↓は、楽天的ナショナリズムから、差別的ナショナリズムへの転回点に、ハシカのように流行し凋落した「手宮文字」をめぐる短期的“熱狂”に対して、批判的にか反省的にか、何らかの関係をもって書かれたことは、まちがえないでしょう。






   《北ぞらのちぢれ羊から
    おれの崇敬は照り返され
    天の海と窓の日おほひ
    おれの崇敬は照り返され》

      
〔…〕

    (赤紙をはられた火薬車だ
     あたまの奥ではもうまつ白に爆発してゐる)

 無細工の銀の水車でもまはすがいい
 カフカズ風に帽子を折つてかぶるもの
 感官のさびしい盈虚のなかで
 貨物車輪の裏の秋の明るさ

   (ひのきのひらめく六月に
    おまへが刻んだその線は
    やがてどんな重荷になつて
    おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)

  手宮文字です 手宮文字です


『春と修羅・第1集』「雲とはんのき」〔1923.8.31.〕より。



 引用1行目の「北ぞら」は、印刷前の原稿では「西ぞら」となっていました。「北」にしろ「西」にしろ、そこには、北方に“起源”を求めることによって西欧世界に連なって行こうとする意識が表現されています。「崇敬」をもって北(西)を眺める「おれ」の身体は、この《 》内詩行のもとになった『ダルゲ』では、透明なガラスの腰蓑をまとった裸体であり、「北(西)ぞら」からの光線を浴びて輝いているのです。

 コーカサス人種(白人種)につらなることは、当時の人種学の観念では、「美しい」身体を持つことにほかなりませんでした。

 賢治が嘉内に宛てた書簡にも、日本人の起源をめぐる議論に触れたものがあります(書簡[178] 1920年12月)。この当時は、コーカサス系・北方説と、それを否定する見解とが論争しており、それが賢治と嘉内の間でも話題になっていたことがわかります。



 ところが、このような白人・西洋・北方に自己を同化しようとする「崇敬」は、この詩の中で次第に混乱し、


「(赤紙をはられた火薬車だ
〔…〕


 から以下では、頭の中が「爆発」して、からっぽ(「さびしい盈虚」)になってしまいます。そして、


「(ひのきのひらめく六月に
〔…〕


 以下のつぶやきが現れるのです。

 そこでは、「ひのきのひらめく六月」の陽光の中で、若々しいエネルギーをもって刻みつけた「その線」が、いつか反転して「おまへ」を攻撃して来る。そして、とほうもない「重荷になつて」「おまへに男らしい償ひを強ひる」と言うのです。光輝にみちた「北(西)」への「崇敬」が反転して、とほうもなく暗い重圧となり、「おまへ」を襲って苦しめるだろうと言うのです。

 それは、記紀の神話を素朴に信じ、“大陸雄飛”を夢見た楽天的なナショナリズムが変質してしまい、現実の侵略と殺戮の渦中に巻き込まれてゆくことを意味するかもしれません。あるいは、西洋の科学を信頼し、ひたすら進歩に努めてきた国家社会の正統性が、根底から崩れ去ることを意味するのかもしれません。

 いずれにしろ、それこそが「手宮文字」のもつ意味だと言うのです。






「『手宮文字』の解読が示すのは、異民族侵略の阻止と征伐の物語であるが、それが『男らしい償ひ』を『強ひる』『重荷』であると述べているのであって、これは国体神話
〔『日本書紀』など、天皇制国家の正統性を基礎づける神話・伝説――ギトン注〕からの距離感を示す表現と言って良い。〔…〕

 『男らしさ』というのも、
〔ギトン注――『国柱会』田中智学の〕日蓮主義の目標とする生活信条的実践徳目であったようである。〔…〕1918年ごろの賢治の『その戦争に行きて人を殺すと云ふ事も殺す者も殺さるゝ者も皆等しく法性に御座候』〔賢治書簡[46]父宛て。徴兵猶予を願い出よとの父の勧めを断った手紙――ギトン注〕といったところにつながっていく。実際、国柱会では、その『国体宣揚』の思想から、徴兵については積極的にこれを推し進める方針であったことは言うまでもない。

 この詩においては、こういった国柱会の『男らしさ』の神話からの距離感を描いていると言える。

 このような1922年の事跡
〔摂政の宮の小樽行啓に便乗して『国柱会』が小樽で催した国家主義キャンペーン。↓下で説明――ギトン注〕を経て、大震災〔1923年9月――ギトン注〕後には、賢治が今までの国柱会の実践に関する方針にいずれも違和感を感じ、それを表現として定着したと解釈してよいと考えられる。」
秋枝美保『宮沢賢治の文学と思想』,pp.324-325.



 1922年7月、摂政の宮の小樽行啓に便乗して、『国柱会』は小樽に布教宣伝隊を送りこみ、大々的な国家主義キャンペーンをくりひろげました。記紀神話と天皇制に結びつけて、“日蓮主義”の「世界統一の天業」が語られ、国家主義の波に乗った教勢拡大が企てられたのです。

 しかし、この時期には、大戦中からの楽天的なナショナリズムの熱狂は、すでに退潮しており、田中智学の演説のような、とほうもない誇大な言説には、教団外の誰もが疑いの目を向けるようになっていました。こうして、キャンペーンは、国柱会員が集まって気勢を上げただけで、プロパガンダとしては不発に終りました。

 むしろ地元では、『国柱会』の国家主義宣伝に対する反発が強まり、『北海タイムス』は、『国柱会』の行事を完全に無視したうえ、「手宮文字」の“解読”の非科学性を強烈に糾弾する記事を連載したほどでした。

 第1次大戦中の国家主義の波に乗った『国柱会』のナショナリズム運動は、戦後恐慌とともに凋落し、22年小樽での排外主義キャンペーンも、冷淡な反応しか生みださなかったのです。そのようななかで、宮沢賢治もまた、『国柱会』とそのナショナリズムに対して、醒めた眼をむけるようになっていました(秋枝,pp.322-337)。






「『手宮文字』は、全く意味のないものが意味を得て、この世に形をなしていく過程を如実に表している。そこには、体制の論理が明らかに強く働いている。世論はしばしば体制内の論理につく。人間はこうあってほしいと思うものを、そのように存在させてしまうものなのであろうか。
〔ギトン注――天皇を頂点とする国家主義〕体制を容認し、しかも西洋科学の実証の衣をかぶった言説は、あっという間に日本中にひろまったと言える。そこに賢治が見たものは、『書かれたもの』についての解釈の恣意性ということではなかったろうか。

 また、そこに現れた海外からの異民族の移入をくい止めたという言説は、攘夷の論理にも遠いところで重なる。大正デモクラシーの風潮は、いつの間にか自然と右旋回を始める動きを内包していた。
〔…〕

 繰り返されるこの言説
〔異民族の“悪者”を、朝廷の命を受けた“正義の味方”が退治するという伝説――ギトン注〕には、日本人の考え方の一つの型が露わになっていると言えるかもしれない。保守的、閉鎖的とも言える社会の動きの反映である。

      
〔…〕

 『手宮文字』は異民族の同化から異化へと向かう、ナショナリズムの反転の頂点にあたると言える。つまり、このような文化事象としての『手宮文字』は、賢治の歴史認識に強烈な印象を与えたと考えられる。
〔…〕『書かれたもの』が時を越えて残り、そのとき、そのときの体制によって、様々な解釈を産むということ、したがって、記録や歴史、地史というものも、われわれが感じているのにすぎないという醒めた認識である。〔…〕

 『手宮文字』は言わば時代精神の表徴である。それは、『書かれたもの』がいつのまにか『男らしい償ひ』を強いる、社会の人々の感性に枷をはめる過程そのものであったと考えられる。つまり、種々な言説が体制に従って解釈され、その言説を、また社会的に実行するように、書いた者の精神を呪縛し始めるということである。」

秋枝美保『宮沢賢治の文学と思想』,pp.78-81.




 第1次大戦中、ヨーロッパでは長引く戦争のために鉄鋼から食糧衣料まで、あらゆる工業製品が不足をきたしました。そのため、それらの需要は、戦火の外にある新興工業国、アメリカと日本に向けられたのです。日本の輸出は飛躍的に増え、日本じゅうが降って湧いたような好景気に酔いしれました。

 “にわか成り金”が続出する一方で、いきなり世界の一等国になったような自信――じつは誤信――から、国家主義的ナショナリズムも高揚しました。そのナショナリズムの波に乗って、“神国”の対外膨張を煽って教勢を拡大したのが日蓮主義『国柱会』でした。

 1918年前後の宮沢賢治は、この熱狂的な国家主義に流行熱のように侵された青年のひとりだったのです。

 しかし、大戦が終結し、ヨーロッパ各国が復興してくれば、日本製品を必要としなくなるのは当然のなりゆきです。輸出品の相場は暴落し、倒産と鉱山の閉鎖が相次ぎ、銀行は休業しました(戦後恐慌 1920年)。

 景気の底冷えとともに、国家主義の熱狂は醒めてゆき、『国柱会』の排外主義的な大宣伝も、人々の耳目をとらえなくなっていきました。かわって、普通選挙を求める“大正デモクラシー”と護憲運動はピークを迎え、1920年には労働組合同盟会と社会主義同盟が結成されました。

 危機を感じた政府は、天皇を中心とする国家主義と“国体”思想の立て直しを図ろうとしました。1922年の“摂政の宮・小樽行啓”はその表れであり、関東大震災後の1923年11月には、「国民精神作興ニ関スル詔書』が公布され、思想・教育・文化全般に対する抑圧と締めつけが強化されていきました。



 1924年4月に、宮沢賢治が『春と修羅』を出版した時点では、まだ、この反動政策の影響が具体的に賢治に及んで来ることはありませんでした。

 それでも、賢治は出版前の23年6月と24年2月に、斎藤宗次郎に歌詞の原稿や詩集のゲラ刷りを見せて、「革命反抗的」な思想と見なされることはないだろうかと相談しています。

 そして、24年2月の相談の後で、掲載詩の一部に大幅な手入れをほどこしているのです。長詩「小岩井農場」末尾の“反恋愛論”は、この時に書き加えられたものでした:


「もしも正しいねがひに燃えて
 じぶんとひとと万象といつしよに
 至上福しにいたらうとする
 それをある宗教情操とするならば
 そのねがひから砕けまたは疲れ
 じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
 完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
 この変態を恋愛といふ
 そしてどこまでもその方向では
 決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
 むりにもごまかし求め得やうとする
 この傾向を性慾といふ
 すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従つて
 さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある
 この命題は可逆的にもまた正しく
 わたくしにはあんまり恐ろしいことだ
 けれどもいくら恐ろしいといつても
 それがほんたうならしかたない」


『春と修羅』「小岩井農場・パート9」より。


 「性慾」→「恋愛」→「至上福しにいたらうとする‥宗教情操(つまり博愛)」という「可逆的」な方向は、それこそ私たちにはもっとも自然で理想的な愛の形だと思われるのに、賢治はなぜ、「あんまり恐ろしいことだ」などと言わなければならないのでしょうか? ‥震災後の世論の反動化と権力による締めつけを予感するあまり、萎縮した精神が、彼にこの詩句を書かせたと考えれば、これも理解できると思うのです。



 まもなく、『詔書』の影響は、“学校演劇の禁止”という形で、賢治の学校での活動に直接及んできます。翌1925年には、賢治と生徒たちの自由な活動を保証していた畠山校長に、突然の転勤辞令が下され、26年3月、賢治自身も退職を余儀なくされることとなりました。


∇ 本記事はこちら(斎藤宗次郎に相談)⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 8.2.28.


∇ 本記事はこちら(斎藤宗次郎に相談)⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 9.3.13.


∇ 本記事はこちら(“反恋愛論”)⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 3.10.16.








手宮洞窟壁画 
手宮洞窟保存館

カメラと壁画の間に保護ガラスがあるので
光の関係で彫刻が浮き出て見えますが、
じっさいは陰刻(岩壁に線を刻みこんだ
もの)です。

頭にツノを付けた人物や、両手を上げて
踊っているような人物が描かれています。
動物か怪物のように見える部分もあります。



 「手宮文字」をめぐる『春と修羅』出版前後の事情について、秋枝美保氏によって提起された議論は以上のようなのですが、

 ここでもう一度「雲とはんのき」の詩句から、「手宮文字です 手宮文字です」の意味について考えてみたいのです。




   (ひのきのひらめく六月に
    おまへが刻んだその線は
    やがてどんな重荷になつて
    おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)

  手宮文字です 手宮文字です


『春と修羅・第1集』「雲とはんのき」〔1923.8.31.〕より。



 端的に言って、「おまへが刻んだその線」とは、「手宮文字」つまり手宮洞窟の線刻画を指していないでしょうか?

 『春と修羅』初版本に、賢治自身が加除訂正を加えた《宮澤家本》では、「その線」が「その劃(かく)」に直されています。「劃
(かく)」とは、漢字を組み立てている一本一本の棒のことです。線刻の棒の組合わせで構成されている手宮の陰刻画の形ではないでしょうか?

 そして、これらの絵の形は、頭にツノの生えた人のようでもあり、後ろ足で立ち上がった獣のようでもあります。あたかも岩盤の奥から‥地底の異界から、跳び出して迫って来る妖怪のようには見えないでしょうか?

 賢治は、自分の書いた原稿の文字が、紙から飛び出して動き回るという体験を、しばしばしていたようです:



「若い賢治は
〔…〕大正10年1月23日突然旅費だけを持って、東京に家出したのであった。

 そして本郷帝大前で謄写版印刷の原紙を書いて生活し、
〔…〕その間に爆発するような勢いで童話を書いた。そのときのことを、小学校の恩師、八木英三につぎのように話したそうである。

 『
〔…〕1ヵ月の間に、三千枚書きました。そしたら、おしまいのころになると、原稿のなかから一字一字とび出して来て、わたしにおじぎするのです。
宮沢清六『兄のトランク』,1991,ちくま文庫,pp.252-253.



 「雲とはんのき」の「手宮文字」は、その形に大きな意味があるとギトンは思うのです。自分が書いた原稿の文字が、生き物のように飛び出してきて、書いた者に「男らしい償い」を要求しはじめる。賢治は、そのことを、手宮文字の字画を見ながら思ったのではないでしょうか?






 宮沢賢治が小樽で「手宮洞窟」を見学したという証拠は、残念ながらありません。しかし、1923年のサハリン旅行の帰路には、北海道で2〜3日の空白があり、この間に小樽へ行って洞窟を見ていた可能性はあります。また、当時、壁画の写真は絵葉書になって販売されていました。

 上の画像でお目にかけたように、現在、小樽に保存されている「手宮洞窟」の壁画は、ひじょうに摩滅がひどくなって、賢治が当時直接か写真かで見た線刻画の形さえ、はっきりとは見分けられなくなっています。しかし、戦後に近くの余市町で発見された「フゴッペ洞窟」には、手宮と同様の線刻壁画が残されていて、私たちは「フゴッペ洞窟」を見ることによって、手宮の線刻画の細部を想像することができます。



 1950年に発見された「フゴッペ洞窟」では、手宮よりも摩滅の少ない、保存状態のよい線刻壁画を観察することができるようになりました。こうして、線刻の細部を含む全体がはっきり見えるようになると、「手宮洞窟」の線刻も含めて、これらは“文字”ではなく、岩面に刻まれた一連の絵であることがはっきりしたのです。

 洞窟内から出土した続縄文式土器の編年研究が進展した現在では、「手宮洞窟」と「フゴッペ洞窟」の線刻画は、4-5世紀頃の続縄文時代人によって描かれたことが明らかになっています。『日本書紀』の阿倍比羅夫の時代よりも 200〜300年古い時代のものであったのです。

 「突厥文字」も、「靺鞨」人の来襲も、皇国ナショナリズムの異常な想像力が生んだまぼろしにすぎなかったのでした。



「フゴッペ洞窟の発見以来、アムール川(シベリア東側を流れる川)周辺に見られる、岩壁画と良く似た古代の彫刻であることがわかってきました。シベリアのサカチ・アリアン遺跡の岩絵とフゴッペ洞窟にはほとんど同じような舟の像が描かれていますし、手宮洞窟にある『角のある人』と似たものもあります。このような岩壁画は日本海を囲むロシア、中国、朝鮮半島などに見られ、手宮洞窟もこのような日本海を囲む大きな文化の流れを表すものだと考えられます。

 手宮洞窟では『角のある人』の他、手に杖のようなものを持った人や四角い仮面のようなものをつけた人が描かれています。このほか、角のある四足動物も描かれています。

 このような角をもつ人はシベリアなどの北東アジア全域でかつて広く見られた、シャーマン(激しい踊りや祈りをして占いや収穫のお告げをする人)を表現したものではないか、という説が有力です。

 手宮洞窟保存館はこのように4〜5世紀頃、北海道に暮らしていた続縄文文化の人々が、日本海をはさんだ北東アジアの人々と交流をしていたことを示す大変貴重な遺跡です。」


 【参考】⇒:Wiki:フゴッペ洞窟







フゴッペ洞窟

岩山の崖の側面にあります。
「手宮洞窟」と同様に覆屋でおおい
さらに資料展示館を併設しています。




フゴッペ洞窟壁画 
余市町フゴッペ洞窟
手宮洞窟と同様に、この壁画も陰刻です。
レリーフではありません。
なお、この画面は壁画のごく一部。

上左に、背に羽のある翼を付けた人物が、
右下に、頭に羽のあるツノ?を付けた人物が
描かれています。これらはシャーマンかも
しれません。何らかの祭祀に関係がある
のでしょう。






西崎山環状列石
(ストーン・サークル)
「フゴッペ洞窟」近くの丘陵の上
にある縄文人の墳墓群。
画面内に4基のストーン・サークルが
見分けられますが、ここには全部で
7基あります。縄文式土器片が多数
出土しています。

縄文〜続縄文時代、この地方には、
鹿?のツノや鳥の羽をつけた踊りで
祭祀を行ない、死者をストーン・
サークルに葬る独特の文化をもった
人びとが住んでいたことになります。



 この地方の“蝦夷”の文化は、東北地方ともつながっていたことが、よくわかります。

 縄文時代のストーン・サークルは、秋田県などにもあります。頭に動物のツノを付けたシャーマンのような人物は、岩手の鹿踊りの扮装にも通じます。頭に羽をつけるのは、北上〜江刺の剣舞の舞手にも伝わっている風俗。

 ちなみにシベリアの風俗では、鳥の羽は死者の弔いと関係があるそうです。「フゴッペ洞窟」の鳥の羽をつけた人物は、死者を弔っているか、あるいは、他界から死者の魂を呼び出しているのかもしれません。






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〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 7.11.4


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〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 8.2.23.




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