ニセコ




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北の大地に宮沢賢治の足跡を追っていきます。




羊蹄山と有島農場






 函館-札幌間の交通は、1905年に(のちの)函館本線の経路で鉄道が開通して以後、狩太(現・ニセコ)、小樽を経由する内陸の鉄路が主流になりました。現在の苫小牧、千歳回りの交通路とは異なっていたのです。

 宮沢賢治も、1924年のサハリン旅行の往復、1913年、24年の各修学旅行の往路は、函館本線でニセコ(狩太)を通過しています。しかし、それ以上に、ニセコには賢治と深いつながりのある場所があり、事件が起きていました。






羊蹄山 
望羊橋から
もとはアイヌ語でマッカリ・ヌプリと呼ばれたり
「後方羊蹄山」と書いて「しりべしやま」と読ん
だりした。「後方羊蹄」は日本書紀にある地名。




ニセコアン・ヌプリ

ニセコ・ビュープラザから



「五月廿日

        *

 いま窓の右手にえぞ富士が見える。火山だ。頭が平たい。焼いた枕木でこさえた小さな家がある。熊笹が茂っている。植民地だ。

        *」

宮沢賢治『或る農学生の日誌』より。
(原文は旧仮名遣い) 



「函館より小樽へ

 函館より夜行11時の列車に乗り夜の大沼公園を眺めいつしか深い睡りにおちいりその夜ををば夢の間に過ぎて夜のほのぼのと白む頃は北海の広野を汽車は走つてゐた

      
〔…〕

 後方
〔しりべし〕の羊蹄山は前後 噴火口 輻射谷が摸型的に達せり 焼畑 此の位の傾斜を開懇せりとせば岩手の里は猶開拓の余裕あり

 切株 雪中に於てせしもの

 汽車の進むにつれて後方羊蹄山眼前に屹然としてたち噴火口も見え摸型的な輻射谷が一層瞭然として窓外半身を出した時も山容の変り移りにつけて説明を■つた

 一は耕助一は草地交々錯雑せる■に生徒の驚異を抱くも無理からぬことなればその説明も与へて満足せしめた、斜傾地を開拓して裁培せるを見ては斯く傾斜激しき地猶ほ耕作に利用すとせば岩手の里にまだ\/開墾の余裕あることを知らせて開墾の必要を説く」

『白藤慈秀日記』より。





 1924年5月に賢治と、同僚の白藤教諭が生徒たちを引率した花巻農学校修学旅行では、ニセコ付近は往路に汽車で通過しただけでしたが、『白藤日記』にはそのようすが詳しくメモされています。賢治の『修学旅行復命書』にニセコの記述がないのは、この部分の執筆は白藤氏が分担していたためと思われます。

 賢治の『農学生の日誌』に、「植民地」という言葉が出てきますが、当時の語感ではこの言葉は、先住民を支配するという意味をかならずしも含んでいませんでした。未開の原野に移住して開拓することを、ふつうに「植民」と呼びならわしていました。すくなくとも使用者の意識では、それは「開拓」ないし「拓殖」と同義語でした。このあと、札幌で見学した開拓史の資料館である「拓殖館」を、賢治は「植民館」と呼んでいますが、これも当時のふつうの呼称だったと思われます。

 まったく同じことがらが、戦後は「植民」の語を避けて、「入植」という言葉に置き換えられていったのです。



 じっさい、「植民地だ。」という『農学生の日誌』の感嘆の叫びに呼応して、『白藤日記』では、窓外に展開する原野開拓の状況に驚きの声を上げる生徒たちのようすが記録されています。

 この狩太(戦後、町名と駅名を「ニセコ」に変更)のあたりは、道央で最も開拓が遅れた地域で、函館-小樽間の鉄道が貫通する前後から入植者が増え、開墾も本格化したのでした。

 羊蹄山、ニセコ連峰という火山群にかこまれた高原は、うねるようなゆるやかな傾斜の連続で、そこに開拓者たちは、冬の間も開墾の鍬を休めようとはしなかったのです。積雪した原野のなかに、雪をかぶっていない切り株が点々と見えることから、それがわかるのでした。





羊蹄山と耕野 
有島農場から








「北海道の冬は空まで逼
(せま)っていた。蝦夷富士といわれるマッカリヌプリの麓に続く胆振(いぶり)の大草原を、日本海から内浦湾に吹きぬける西風が、打ち寄せる紆濤(うねり)のように跡から跡から吹き払っていった。

 寒い風だ。見上げると八合目まで雪になったマッカリヌプリは少し頭を前にこごめて風に歯向いながら黙ったまま突立っていた。昆布岳の斜面に小さく集った雲の塊を眼がけて日は沈みかかっていた。

 草原の上には一本の樹木も生えていなかった。心細いほど真直な一筋道を、彼れと彼れの妻だけが、よろよろと歩く二本の立木のように動いて行った。

      
〔…〕


 この日も昨夜
(ゆうべ)の風は吹き落ちていなかった。空は隅から隅まで底気味悪く晴れ渡っていた。そのために風は地面にばかり吹いているように見えた。

 佐藤の畑はとにかく秋耕
(あきおこし)をすましていたのに、それに隣(とな)った仁右衛門の畑は見渡す限りかまどがえしみずひきあかざとびつかとで茫々としていた。ひき残された大豆の殻(から)が風に吹かれて瓢軽(ひょうきん)な音を立てていた。あちこちにひょろひょろと立った白樺はおおかた葉をふるい落してなよなよとした白い幹が風にたわみながら光っていた。

 小屋の前の亜麻をこいだ所だけは、こぼれ種から生えた細い茎が青い色を見せていた。跡は小屋も畑も霜のために白茶けた鈍い狐色だった。
〔…〕

 仁右衛門は一本の鍬で四町にあまる畑の一隅から掘り起しはじめた。外
(ほか)の小作人は野良仕事に片をつけて、今は雪囲(ゆきがこい)をしたり薪を切ったりして小屋のまわりで働いていたから、畑の中に立っているのは仁右衛門夫婦だけだった。

 少し高い所からは何処までも見渡される広い平坦な耕作地の上で二人は巣に帰り損ねた二匹の蟻のようにきりきりと働いた。
〔…〕
有島武郎『カインの末裔』より。
(原文は旧仮名遣い) 




旧・有島農場入口

に立つ「狩太共生農団」の碑

「狩太共生農団」は、地主・有島武郎が
無償解放した農地で、元小作人たちが
組織した共有者の相互扶助団体です。




有島記念館 
ニセコ町有島






「羊蹄ニセコ山麓一帯は有名な豪雪地帯で、平年積雪 2メートルを越し、11月中旬から翌年4月まで農耕不能で、冬眠を余儀なくされている。

 こうした気象条件のため、この一帯は長い間農耕不適地として開拓から除外され、明治30年、国が大資本家を優遇し、北海道内陸の飛躍的開拓を図った『北海道国有未墾地処分法』の施行によって、はじめて開墾の鍬が入れられた。

 しかもニセコ町一帯(旧マッカリベツ原野)は羊蹄山麓の中でも、交通事情が悪く、入植が遅れ、ために、当時の新興貴族、大資本家によって開拓された典型的不在地主地帯となったのである。」

高山亮二『有島武郎とその農場・農団』,1986,有島記念館友の会. より



 小説家として知られる有島武郎の父は、そうした不在地主の一人で、狩太に所有した農場を、北大(当時「東北帝大農科大学」)の英語講師となった息子武郎の名義に移し、その管理に関わらせていました。

 しかし、武郎の父は、小作料の取り立てには厳しく、凶作でも減免を認めず、また非常に吝嗇で、農場のインフラや農地改良に投資することを嫌ったと云います。そのため、小作人たちは、縄文時代の竪穴住居とそう変わらないような入植時の掘っ立て小屋から、いつまでたっても抜け出せないありさまでした。






「『私には少しも成功とは思えませんが……』

 これだけを言うのにも彼の声は震えていた。しかし日ごろの沈黙に似ず、彼は今夜だけは思う存分に言ってしまわなければ、胸に物がつまっていて、当分は寝ることもできないような暴れた気持ちになってしまっていたのだ。

 『今日農場内を歩いてみると、開墾のはじめにあなたとここに来ましたね、あの時と百姓の暮らし向きは同じなのに私は驚きました。小作料を徴収したり、成墾費が安く上がったりしたことには成功したかもしれませんが、農場としてはいったいどこが成功しているんでしょう』

 『そんなことを言ったってお前、水呑百姓といえばいつの世にでも似たり寄ったりの生活をしているものだ。それが金持ちになったら汗水垂らして畑をするものなどは一人もいなくなるだろう』

 『それにしてもあれはあんまりひどすぎます』

 『お前は百歩をもって五十歩を笑っとるんだ』

 『しかし北海道にだって小作人に対してずっといい分割りを与えているところはたくさんありますよ』

 『それはあったとしたら帳簿を調べてみるがいい、きっと損をしているから』

 『農民をあんな惨めな状態におかなければ利益のないものなら、農場という仕事はうそですね』

 『お前は全体本当のことがこの世の中にあるとでも思っとるのか』

 父は息子の融通のきかないのにも呆れるというようにそっぽを向いてしまった。

 『思ってはいませんがね。しかし私にはどうしても現在のようにうそばかりで固めた生活ではやり切れません。』」

有島武郎『親子』より。
(原文は旧仮名遣い) 



「小樽函館間の鉄道沿線の比羅夫駅の一つ手前に狩太といふのがある。それの東々北には蝦夷富士がありその裾を尻別の美河が流れてゐるが、その川に沿うた高台が私の狩太農場であります。
〔…〕

 私は明治廿七八年頃から小作人の生活をみてゐますが実に悲惨なものでありまして、そのため私の農場の附近は現在小作権といふものに殆ど値がないのであります。

 さて私は明治三十六年から明治四十年まで亜米利加に留学しました。亜米利加にゐるときクロポトキンの著作などに親しんだことから物の所有といふことに疑問を抱かされたのでありましたが、
〔…〕

 私は昨年北海道に行きまして小作人の人々の前で私の考へをお話しました。そして私の趣旨も大体は訳わかつてくれました。そのとき私がいつたことは『泉』の第一号に小作人への告別として載せておきました。私はどう考へても生産の機関は私有にすべきものでない、それは公有若くは共有であるべき筈のものだ。私有財産としてこの農場からの収益は決して私が収める筈のものでない。小作料は貴君方自身の懐にいれてどうか仲よくやつていつて貰ひたいとお話したのでした。
〔…〕
有島武郎『農場開放顛末』より。



「農場は開拓以来、十年に近い掠奪農業のため土地は痩せ、小作人は―第1次世界大戦の余波による好況時以外は―絶えず窮乏していた。凶作時の小作料の減額にも厳しく、この農場に君臨した父、武が没したのは大正5年
〔1916年――ギトン注〕であった。

 その後、解放の時期を待っていた有島が、解放後の農民の経済的自立を考え、勧業銀行から借金をし、水田造成のための灌漑溝工事にかかったのは大正10年である。大正11年
〔1922年――ギトン注〕7月18日、有島は場内の弥照神社に第1,第2の小作人を集め、農場全体を小作人全員の共有として無償解放することを宣言した。〔…〕

 有島は解放後の理想の農場の現実を目にし得なかった。大正12年6月9日、波多野秋子と軽井沢の別荘で縊死したからである。」

高山亮二『有島武郎とその農場・農団』より







農場解放紀念碑 
旧・有島第1農場

1922年に武郎が小作人に農場を解放(無償譲渡)
したあと、小作人らの懇請によって記念碑の
建立が計画されましたが、有島が起草した
碑文を当局は許可しませんでした。

1923年に有島が自死したあと、弟・有島生馬
によって、この題字だけを記した碑が建てら
れました。裏面には、生馬の案文で

 父有島武開拓之
 子武郎解放之

と記されています。







彌照
(いやてる)神社 旧・有島第1農場

1922年7月18日、有島武郎はここに
小作人たちを集めて、農場を
彼らに解放すること、今後は
自らの共有農場として管理
すべきことを告げました。

鳥居の向こうの緩やかな石段と社殿が
“解放宣言”を行なった場所。



「7月18日の午後、彼は弥照神社の社殿に第1,第2の小作人を集めて解放の主旨を話した。30分余に亘る話の要旨は次のようなものであった。


 『この土地の全てを諸君に無償で譲渡します。しかし、それは諸君の個々に譲るのではなく、諸君が合同してこの全体を共有するよう御願いするのです。

  その理由は、生産の大本となる空気、水、土地という類のものは、人類が全体で使用し、人類全体に役立つよう仕向けられねばならず、一個人の利益によって私有されるべきものでないからです。

  諸君全体がこの土地に責任を感じ、助け合って生産を計り、周囲の状況の変化する結果となることを祈ります。』


 農民達は有島の言うことを十分理解することは出来なかった。が〈もう年貢はいらない〉という現実だけは直感できた。彼等は転ぶように神社の階段をかけ降りたという。翌日狩太駅を発つ有島を小作人の大部分が見送り、名残りを惜しんだ。」

高山亮二『有島武郎とその農場・農団』より






「A 北海道農場開放に就ての御意見を伺ひたいのですが。殊に、開放されるまでの動機やその方法、今後の処置などに就いてですな。

 B 承知しました。

   
〔…〕私の場合は、勿論現代の資本主義といふ悪制度が、如何に悪制度であるかを思つたことゝ、直接の動機としては、資本主義制度の下に生活してゐる農民、殊に小作人達の生活を実際に知り得たからです。小作人達の生活が、如何に悲惨なものであるかは分り切つたことですが、先ず具体的に言ひませう。私の狩太村の農場は、戸数が六十八九戸、……約七十戸といふところですが、それが何時まで経つても掘立小屋以上の家にならないで、二年経つても三年経つても、依然として掘立小屋なんですね。

   北海道の掘立小屋は、それこそ文字通りの掘立小屋で、柱を地面に突き差して、その上を茅屋根にして、床はといへば板を列べた上に筵を敷いただけ、それで家の中へ水が這入つて来ないやうに家の周囲に溝を作へるのです。全戸皆がこんな掘立小屋で、
〔…〕

   農民達はそんなことに満足してはゐないのですが、家らしい家を建てるまでの運びに行かないのです。一口に言へば、何時まで経つてもその日のことに追はれてゐて、そんな運びに至らないのです。小作料やら、納税やら、肥料代やら、さういつた生活費に追はれてゐて、何時まで経つても水呑百姓から脱することが出来ないのです。――

 それにあのとほり、一年の半分は雪で駄目だものですからな。冬も働かないわけではないのですが、――それよりも、鉄道線路の雪掻きや、鯡
(にしん)漁の賃銀仕事に行けば、一日に二円も二円五十銭もの賃銭がとれるのですから、百姓仕事をするよりも余程お銭が多くとれるのですが、とればとれるで矢張り贅沢になつたり、無駄費ひが多くなつたり、それに寒いので酒を飲む、飲めば賭博をする。結極余るところが借金を残す位ゐのもので、何うにも仕様がないのです。

      
〔…〕

   これにしても北海道の商人はなか\/狡猾で、農民達の貧乏を見込んで、作物が畑に青いままである頃から見立て買ひをして、ちやんと金を貸しつけて置くのです。ですから、どんな豊作の時でも農民はその豊作の余慶を少しも受けないことになるのです。

 A 商人達の狡猾なのは論外です。殊に、北海道あたりでは、未だ植民地的な気風が残つてゐるのでせうから質が悪いかも知れません。――それにしても、あの農場を開放されるまでには随分と、各方面からの反対もありましたでせうな?

 B ありました。資本主義政府の下で、縦令
(たとへ)ば一個所や二個所で共産組織をしたところで、それは直ぐ又資本家に喰ひ入られて終ふか、又は私が寄附した土地をその人達が売つたりして、幾人かのプチブルジョアが多くなる位ゐの結果になりはしないか。結極、私がやることが無駄になりはしないか。といふやうな反対意見があつたのです。〔…〕

   実は共済農団を、共産農団にしたかつたのです。共済なんかといふ煮え切らないものよりは、率直に共産の方がいゝのですからな。ところが、これが又皆の反対を買つたのです。共産といふ字は物騒で不可い。他の文字にして欲しいといふのです。それも、森本君
〔武郎の親友で北大教授・弁護士。産業組合法に準拠して、解放後の共有農場の組織を設計した―――ギトン注〕なんかよりも、大学の若い人達や、村長、管理者などに反対者があるのですから可笑しいですね。

      
〔…〕

   私も一旦農場を寄附する以上、今後は何うなつてもいゝやうなものゝ、再び資本家の手に這入つて終ふやうなことは仕度くありませんので、その悪結果を防ぐ方法として、先つきの話のとほり、共産組合の組織にしようとしてゐるのです。

 今度の成案などは、まだ\/ほんの初めのことで、不完全なものでせうが、組織は農団組合を管理する理事を置いて、これが実務に当ることになるのです。その外に、幹事を数名置くことになりますが、これが会社でいふ監査役といふところです。こんなものが、農民自身の選挙で置かれることになります。
〔…〕




有島武郎像 
有島武郎記念館






 ところで、このニセコの有島農場の解放に、宮沢賢治がどうして関わってくるのかと言うと、賢治の『春と修羅』に収録された“サハリン旅行”後の詩に、↓つぎのような一節があるからです。



 カフカズ風に帽子を折つてかぶるもの
 感官のさびしい盈虚のなかで
 貨物車輪の裏の秋の明るさ

   (ひのきのひらめく六月
    おまへが刻んだその線は
    やがてどんな重荷になつて
    おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)

  手宮文字です 手宮文字です


『春と修羅・第1集』より「雲とはんのき」〔1923.8.31.〕




 引用第1行の「カフカズ風」は、印刷前の賢治の原稿では「ロシア風」になっていました。当時、ロシア革命によって社会主義に突き進んでいたロシアが、また、そうした社会主義、共産主義にあこがれる人物が、そこには暗示されているのです。

 そして、「ひのきのひらめく六月」。この 1923年6月に起きた大きな事件といえば、有島武郎の心中自死でした。「おまへが刻んだその線」とは、有島が刻むべく起草して、当局に禁止された碑文を指しているようにもとれます。

 「手宮文字」は、ニセコにほど近い小樽の手宮洞窟で発見された(と当時は信じられていた)古代文字です。手宮洞窟については、このあと、小樽のところで詳しく説明するでしょう。

 有島武郎の「農場解放記念碑」と、宮沢賢治の詩を結びつけるギトンのこの思いつきは、ハッキリした手がかりがあるわけではありません。「雲とはんのき」には、賢治の親友・保阪嘉内にかかわる詩句が散見しますから、「ロシア風に帽子を‥かぶるもの」も、むしろ嘉内を指しているかもしれません。

 しかし、みずからも地主階級の一員として小作人に対して何ができるか悩み、また、中学生時代から『中央公論』の読者だった賢治が、有島の一連の行動と事件を、関心を持って眺めていたことは考えられます。最近の研究によれば、賢治童話『黒ぶどう』に登場する「ベチュラ公爵」は、有島武郎をモデルにしていると云います。(←この点は、のちほど札幌のところで、北大総長・佐藤昌介とのからみで、再度検討します。)


∇ 参考記事(『黒ぶどう』と有島武郎)⇒:
【ハームキヤ(19)】






 なお、賢治の「雲とはんのき」と、有島武郎の「農場解放記念碑」の関係については、↓こちらにも書きました。


∇ 本記事はこちら⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 7.11.6






 さいごに、解放された後の農場の歴史について、かんたんに触れておきましょう。

 元小作人たちの共有農場は、「有限会社狩太共生農団信用利用組合」という正式名で産業組合法に基づき 1924年7月に発足し、すべてが団員の合議制で運営されました。脱穀・精米の機械化と銘柄米としての販路開拓、乳牛の導入、肥料の共同購入など、めざましい活動が開始されたのです。

 しかし、農団の最初の 10年は、昭和初期の冷害凶作に遭遇して塗炭の苦しみを舐めたと云います。小作料は無くなったものの、水田化のための灌漑溝工事の借金を銀行に返さなければならず、その負担は軽いものではなかったからです。

 そうしたなか、農団員たちはよく結束して、自力で負債を完済しました。いま現地に行くと、有島の設けた灌漑による水田が、豊かに稔っているのを見ることができます。日本じゅうの山間部の水田がみな減反政策のために原野に返っているなかで、ここの水田が残らず耕作されているのは驚異です。

 日中戦争が拡大すると、国家総動員体制のもとで産業統制が厳しくなり、農団は、信用・販売等の部門を国の統制団体に奪われていきましたが、“食糧増産”のスローガンのもとに組合の解散を求める指導官庁に対し、農団はよく抵抗し耐えました。団結して、昭和初年の凶作の試練を乗り越えた経験が、農団員たちを結束させたのでした。

 戦後の農地改革では、GHQも、北海道および狩太村の各農地委員会も、狩太農団は、戦前すでに農地改革が行われたものと認定していました。いやそれどころか、新聞とラジオは、農地改革こそは有島の理想を実現するものだと宣伝し、農地改革の"先駆"として有島の農地解放と狩太農団が紹介されたことも、一度や二度ではなかったのです。

 ところが、日本の政府は 1948年に突如として“第2次農地改革”として農団の解散を命じました。おそらく、東西冷戦開始の世界情勢のもとで、農地を共有する相互扶助の形態は、アメリカにシッポを振りたい日本の官僚たちには、気に入らなかったのでしょう。

 こうして翌年、狩太共生農団は解散したのでした。団員たちは解散に際して「有島記念館」を設け、武郎の農場解放の理想を後世に伝えることとしました。 






∇ つぎの記事⇒:小 樽 (1)

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