函 館




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函館市内の賢治スポット





 函館にも、宮沢賢治は、やはり3回来ていますが、作品を残しているのは、1924年5月に生徒を引率して来た修学旅行の時です。

 旅行の中で、函館は単なる通過地でしたが、岩手県の外に出たことがない生徒たちにとっては、はじめて見る“大都会”だったのです。







函館港




 賢治が来た当時には、列車が直接船に入ってゆく“車両航送”はまだなく、青森と函館で、乗客と貨物を、鉄道から船に積み替えていました。


∇ 関連記事⇒:青 森(3)







函館港の木造桟橋 
青函連絡船記念館 

賢治が青函海峡を通過した 1913年、1923年、
1924年5月には、いずれも連絡船の乗降は、
函館港の岸壁から沖に張り出した長い木造
桟橋の先で行なっていました。港にはまだ、
大きい船が接岸できる岸壁がありませんでした。
左の線路は鉄道の線路ではなく、荷物を運ぶ
トロッコの軌道です。



 賢治が青函海峡を最後に渡った 1924年5月には、はじめての車両航送船・翔鳳丸が就航しましたが、港の岸壁はまだできていなかったので、通常の客船として運行しました。連絡船が接岸できる岸壁が完成したのは同年10月、列車ごと船に直接乗りこむ車両航送が開始されたのは翌1925年8月でした。

 宮沢賢治は、もう少しのところで、列車積載の青函航路は利用していないのです。






   凾館港春夜光景


 地球照ある七日の月が、
 海峡の西にかかって、
 岬の黒い山々が
 雲をかぶってたゞずめば、
 そのうら寒い螺鈿の雲も、
 またおぞましく呼吸する
 そこに喜歌劇オルフィウス風の、
 赤い酒精を照明し、
 妖蠱
〔こ〕奇怪な虹の汁をそゝいで、
 春と夏とを交雑し
 水と陸との市場をつくる

   ……………………きたわいな
   つじうらはっけがきたわいな
   オダルハコダテガスタルダイト、
   ハコダテネムロインデコライト
   マオカヨコハマ船燈みどり、
   フナカハロモエ汽笛は八時
   うんとそんきのはやわかり、
   かいりくいっしょにわかります

 海ぞこのマクロフィスティス群にもまがふ、
 巨桜の花の梢には、
 いちいちに氷質の電燈を盛り、
 朱と蒼白のうっこんかうに、
 海百合の椀を示せば
 釧路地引の親方連は、
 まなじり遠く酒を汲み、
 魚の歯したワッサーマンは、
 狂ほしく灯影を過ぎる

   ……五がつははこだてこうえんち、
     えんだんまちびとねがひごと、
     うみはうちそと日本うみ、
     りゃうばのあたりもわかります……

 夜ぞらにふるふビオロンと銅鑼
〔どら〕
 サミセンにもつれる笛や、
 繰りかへす螺
〔にし〕のスケルツォ
 あはれマドロス田谷力三
〔たや・りきぞう〕は、
 ひとりセビラの床屋を唱ひ、
 高田正夫はその一党と、
 紙の服着てタンゴを踊る
 このとき海霧
(ガス)はふたたび襲ひ
 はじめは翔ける火蛋白石や
 やがては丘と広場をつゝみ
 月長石の映えする雨に
 孤光わびしい陶磁とかはり、
 白のテントもつめたくぬれて、
 紅蟹まどふバナナの森を、
 辛くつぶやくクラリオネット

 
 風はバビロン柳をはらひ、
 またときめかす花梅のかほり、
 青いえりしたフランス兵は
 桜の枝をさゝげてわらひ
 船渠会社の観桜団が
 瓶をかざして広場を穫れば
 汽笛はふるひ犬吠えて
 地照
〔ちしょう〕かぐろい七日の月は
 日本海の雲にかくれる


『春と修羅・第2集』より#118, 1924.5.19.「函館港春夜光景」〔下書稿(四)〕



 詩の題名には「函館港」とありますが、内容を見ると、港からはやや離れた函館公園の夜の花見の情景です。

 1924年5月の修学旅行の途上、宮沢・白藤教諭の引率する農学校の一行は、正午に函館に到着し、小樽行き夜行列車(花巻〜青森間に続いて車中2泊目)が出発する午後11時まで、ガス会社、肥料工場、五稜郭を見学し、函館公園で休憩しています。

 「地球照」「地照」は、月の欠けた影の部分が、地球から太陽反射光を受けて、わずかに光って見える現象。【参考画像:アースシャイン】⇒:【にせアカシア(2)】

 「岬の黒い山々」は、函館山でしょう。「うっこんかう(鬱金香)」は、チューリップのこと。「螺(にし)」は巻貝の総称ですが、ここでは、トランペットかホルンか、管を巻いた金管楽器を指して言っているのだと思います。

 「オルフィウス」はグルック作の歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」、当時、森鴎外による翻訳がありました。

 「マクロフィスティス」は、正しくは「マクロキュスティス」または「マクロシスティス」で、長さ 60m以上になるコンブ目の巨大海藻。つまり、コンブのお化けw「魚の歯したワッサーマン」は、ドイツの伝説に登場する水の精。魚の骨の形をした尖った緑色の歯をもつ。

 「田谷力三」と「高田雅夫」は、当時一世を風靡した“浅草オペラ”のスター。「セビラの床屋」はロッシーニ作の歌劇「セヴィリアの理髪師」、“浅草オペラ”の演目でした。田谷は“浅草オペラ”随一のテノール歌手、高田はバレー団のリーダーとして活躍していました。

 もちろん、浅草の歌劇団が函館に来て公演したわけではなく、かれらの登場は賢治の幻想。桜のイルミネーションと酔客の喧騒を見て、浅草オペラを思い出したのでしょう。「ビオロン(ヴァイオリン)」、ドラ、三味線、笛、クラリネットなどの楽隊演奏、「辻占八卦」の易者や、花見客の中の船員たち、かれらの話声の中から聞こえる「根室」「横浜」「真岡(サハリンの)」といった港町の名前は、じっさいの見聞かもしれません。

 「紅蟹(こうか?)」は、ゆでた蟹を売り歩いているのでしょう。『或る農学生の日誌』の小樽のところに出てきます。「青いえりしたフランス兵」は観桜客の仮装かもしれません。「バナナの森」はマテバシイか何か、「バビロン柳」は聖書の『詩篇』が出典ですが、たぶん枝垂れ柳、「梅」「桜」とともに公園の木立ちでしょう。

 どんちゃか演奏、どんちゃん騒ぎに大声で罵る船員や易者ふぜいの呼び声も混じって、夜の花見の騒がしいありさまですが、当時の新聞記事によると、市民は思い思いに奇怪な仮装をしてやってきたとのこと。しかし、賢治の詩は、ごたごたした喧騒をそのままに、幻想的に華麗に仕上げて見せてくれます。







函館公園 
噴水広場

木立ちには桜の木が多く混じっていて、
開花の季節は、さぞ華やかなことと
思われます。現在でも、満開どきには
電飾をつけるそうです。




函館公園 
旧函館博物館1号,2号
左の建物(2号)は 1884年に函館県が、上奥の建物(1号)は
1879年に開拓使函館支庁が、それぞれ建てた木造建築で、
明治の洋風建物のなかでも珍しいアメリカ様式。

賢治が来た時には、手前は「先住民族
資料館」として、奥は「水産館」として、
資料を展示していました。




「函館公園全図」 
1882年

明治時代のこの絵図を見ると、
噴水広場も、旧博物館(2号は
まだ建っていない)も、
もちろん函館山の背景も、
現在とほとんど変らない
風景が当時からありました。






 宮沢賢治の書いた『修学旅行復命書』は、旅行の眼目だった小樽・札幌の日程だけを書いていて、函館での滞在は出てきません。

 そこで、賢治とともに引率した白藤教諭の日記↓から、函館の部分を見たいと思います。



「函館には正午着、直ぐ瓦斯会社見学、
〔…〕

 函館全市に供給する瓦斯及各工場よりの需要に応ずる瓦斯、

人造肥料

 過燐酸工場 鉱石(北海道より南洋より)積集、粉砕 硫酸製法 鉛室、蒸発

 
〔…〕燐鉱砕粉せるによりて起る蒙々たる中に立働く工業労働と諸君の晴天の下耕鋤の方と何れが幸なるかを思へ〔…〕

函館夜景

 構内を出てから生徒一同海洋気風明るい気分の漂ふ函館公園の夜景満開の枝には電懸玉の数二万とか その噴水に池畔に色電燈を飾つて美観壮観異郷の空に之を見て快を叫んだ」

『白藤慈秀日記』より。






 賢治の小説『或る農学生の日誌』では、函館についても簡単に触れられています。



「      *

 いま汽車は函館を発って小樽へ向って走っている。窓の外はまっくらだ。もう十一時だ。函館の公園はたったいま見て来たばかりだけれどもまるで夢のようだ。

 巨きな桜へみんな百ぐらいずつの電燈がついていた。それに赤や青の灯や池にはかきつばたの形した電燈の仕掛ものそれに港の船の灯や電車の火花じつにうつくしかった。けれどもぼくは昨夜からよく寝ないのでつかれた。書かないでおいたってあんなうつくしい景色は忘れない。それからひるは過燐酸の工場と五稜郭。過燐酸石灰、硫酸もつくる。」


宮沢賢治『或る農学生の日誌』より。
(原文は旧仮名遣い) 






五稜郭 
五稜郭タワーから



 五稜郭は、『白藤日記』にはありませんが、函館で必ず訪れる“修学旅行名所”ですから、じっさいに行ったのでしょう。お濠が五稜星の形☆をしています。明治政府に最後まで抵抗した「蝦夷共和国」榎本武揚の拠点。

 じつは、ギトンも、ケンジさんのおかげで、今回はじめて訪れました。

 なお、肥料工場で硫酸を製造しているのは、過リン酸石灰の原料にするためです。硫酸+リン鉱石(リン酸カルシウム)→石膏(硫酸カルシウム)+第一リン酸カルシウム(Ca(H2PO4)2) の反応で、右辺の混合物が「過リン酸石灰」肥料です。それにしても、硫酸の製造法は 1915年に発見された5酸化ヴァナジウム触媒法が主流になりつつあったのに、当時(1924年)まだ、古い「鉛室法」で製造している工場もあったのですね。

 おそらく、ガス工場から、石炭乾留の副産物としてできるアンモニアガス(鉛室法の重要原料だが、当時はその高価なことが鉛室法の欠点だった)を安価に供給されていたのではないでしょうか。





函館 
北海道ガス
この交差点には「ガス会社」というバス停
もあり古くからの地名として親しまれています。
おそらくここにガス工場もあったと思われます。




函館 
市電
五稜郭から函館駅前を経由して
函館公園へ行く路線。

路面電車は北海道でも少なくなり
ましたが、札幌と函館には、
市中心部の路線が今も現役です。

当時、花巻にも「花巻電鉄」という
極狭軌道の路面電車がありましたが、
大都市の電車には比べる
べくもありませんでした。

賢治は東京と京都で何度も市電に
乗っていましたが、岩手県外に
出たことのない生徒たちには、
初めて見るけしきだったでしょう。






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