ハームキヤ(19)




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花巻市内の宮沢賢治関係箇所




 宮沢賢治は詩や童話の中で、花巻を「ハーナムキヤ」「ハームキヤ」「ハームキャ」「ヒームキヤ」などと呼んでいました。









“金皮りんご”と黒ぶどう






 花巻市東郊、猿ヶ石川にかかる「安野橋」は「ハームキヤ(16)」で訪ねましたが、橋の近くに、“りんご博士”の愛称で親しまれた島善鄰
(よしちか)の碑があります。この“りんご博士”は、ファンタジー詩「真空溶媒」に登場する“金皮(きんかわ)りんご”と深い関係があります。

 そこから花巻市内の宮澤宅にかけて、賢治童話の舞台が散在しています。

 今回は、賢治のファンタジー詩と童話のふるさとを訪ねてみるとしましょう。







堰袋児童公園

すべり台のある公園。
奥に島博士の碑があります。




島善鄰顕彰碑 
堰袋児童公園

「島善鄰此の地に生れる」とだけ書かれ、
「苹果あることに/我は楽し」との善鄰の
言葉が添えられた簡素な碑文↑に
好感が持てます。



「島善鄰は、花巻城下の武士、島家の直系として 1889年8月27日に生れました。

      
〔…〕

 善鄰は、盛岡農学校から盛岡中学、仙台第一中学を経て、東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)に進み、郷土の大先輩・佐藤昌介の教えを受けることになります。

 卒業後、母校の助手を務めた後、1916年から青森県農事試験場の勤務となり、翌年には『青森県苹果減収の原因及び其の救済策』を表わし、リンゴ栽培の研究と指導にあたり、青森リンゴ隆盛の基を築きました。

 1918年には花巻町の豪商で貴族院議員・四代目瀬川弥右衛門の妹浦子と結婚しています。

 1922年には、欧米に出張中に発見したゴールデンデリシャスをアメリカから初めて導入し、国産リンゴの品種改良に寄与するとともに、一方でその栽培法において優れた成果を上げ、『リンゴ博士』と呼ばれるようになりました。

 1927年から母校で研究や指導にあたり、1931年には名著『実験 リンゴの研究』を発刊して、科学的な栽培技術を紹介しました。」

現地の説明板(花巻市教育委員会)より。





 上の説明を見ると、花巻の当時の最上層、エリート士族に属した人のようです。佐藤昌介は、↓このあとの『黒ぶどう』の邸にも関係する花巻城代の家臣の家柄。瀬川弥右衛門は、賢治の叔母にあたる悲劇の女性↓宮澤コトの嫁ぎ先で、花巻第一の富豪です。

 宮澤家の一族は、これらエリート層の次位にある新興実業家層、ようするに成金階層でした。

 “リンゴ博士”が賢治作品に登場するのは、下の「真空溶媒」ですが、賢治は、エリートの一人である島博士を敬愛しつつも、多少のやっかみを交えて諷刺の対象にしていることがわかります。


∇ 参考記事(宮澤コト)⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 8.4.18

∇ 参考記事(宮澤コト)⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 9.3.15






「むかふを鼻のあかい灰いろの紳士が
 うまぐらゐあるまつ白な犬をつれて
 あるいてゐることはじつに明らかだ

  (やあ こんにちは)
  (いや いゝおてんきですな)
  (どちらへ ごさんぽですか
   なるほど ふんふん ときにさくじつ
   ゾンネンタールが没
(な)くなつたさうですが
   おききでしたか)
  (いゝえ ちつとも
   ゾンネンタールと はてな)
  (りんごが中
(あた)つたのださうです)
  (りんご、ああ、なるほど
   それはあすこにみえるりんごでせう)

 はるかに湛
(たた)える花紺青の地面から
 その金いろの苹果
(りんご)の樹が
 もくりもくりと延びだしてゐる

  (金皮のまゝたべたのです)
  (そいつはおきのどくでした
   はやく王水をのませたらよかつたでせう)
  (王水、口をわつてですか
   ふんふん、なるほど)
  (いや王水はいけません
   やつぱりいけません
   死ぬよりしかたなかつたでせう
   うんめいですな
   せつりですな
   あなたとはご親類ででもいらつしやいますか)
  (えゝえゝ もうごくごく遠いしんるいで)

 いつたいなにをふざけてゐるのだ」

『春と修羅』「真空溶媒」より。


∇ 本記事はこちら⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜【21】真空溶媒 2.1.7






 「真空溶媒」は、「朝の幻想曲(eine Phantasie im Morgen)」の副題をもつ、詩集『春と修羅』の中では異色のファンタジー詩です。特定の現場体験にもとづく“心象スケッチ”とは異なって、内容はかなり物語風に構成されています。

 登場人物の何気ない発言が、まわりの世界をそれに合わせて変貌させてしまうのが、このファンタジーの特徴です。「金いろの苹果」は、島博士の導入した「ゴールデンデリシャス」を冗談化したものでしょう。そのリンゴを「金皮のまゝ」食べた人が中毒して死んだというエピソードは、成金風の「赤鼻紳士」とともに、富豪階層を諷刺しているように思われます。

 「ゾンネンタール」は、ドイツ語で「太陽の谷」を意味しますから、島博士の生地である↑堰袋‥猿ヶ石川の谷間を指しているかもしれません。成金の「赤鼻紳士」は、「ゾンネンタール」と「ごくごく遠いしんるい」だと云うのですが、‥‥たしかに、宮澤家と島家は、豪商瀬川家を介して姻戚関係にあります。金満家の半面、単純で憎めない「赤鼻紳士」は、宮澤一族の誰かかも。。。

 賢治は、白葡萄液を水で薄めたものを「王水」と称して、教え子たちにふるまっていたそうですから、王水を飲ませて蘇生させるという冗談にも根拠があるのです。もちろん、この詩の「王水」は、本物の濃塩酸・濃硝酸の混合液で、金を溶かす劇薬です。









菊池捍
(まもる)邸 里川口バス停前
建物正面(上)と側面(下)
正面中央の出っ張りが「本玄関」
下の矢印が「脇玄関」




菊池捍邸 
里川口バス停前
手前の出っ張りが本玄関。
2階に白い手すりの
「バルコン」が見えます。



 ↑この建物は、賢治童話『黒ぶどう』に登場する貴族屋敷のモデルと言われているもので、安野橋からバス通りを来て朝日橋で北上川を渡り、花巻市街地に入ったところにあります。隣りは、賢治がよく参禅していた「長久寺」です。(【地図】⇒:ハームキヤ(18))


∇ 参考記事(長久寺)⇒:ハームキヤ(6)



 外側は、洋館を模した木造で、中は畳を敷いた日本家屋、「本玄関」「脇玄関」の二つの玄関があるのは、武家屋敷の間取りに倣っているのだそうです。↓下で引用したように、『黒ぶどう』には、「赤狐」と「仔牛」が「わき玄関」から屋敷に入ったと書いてあるので、この建物がモデルだと言われています。

 たしかに、『黒ぶどう』には、建物と周囲の細部が具体的に詳しく書かれており、この童話は建物自体に対する強い関心から書かれているように思われます。しかし、ヒイラギの植え込み、二階へ上がる・真鍮の手すりの付いた梯子段、花もようの絨毯、丸テーブル、二階の窓から出られる「バルコン」などの細部もあるので、ギトンはまだちょっと、このモデル説は断定できない気がしています。

 童話に登場する「黒ぶどう」「赤狐」「仔牛」「ベチュラ公爵」「ヘルバ伯爵」などについても、この邸の所有者(当時)であった菊池捍氏の周辺人物を暗示する寓意として説明する議論が、最近さかんになっています:


 【参考】⇒:『黒ぶだう』と旧菊池捍邸

 【参考】⇒:『黒ぶだう』をめぐる人間模様





「仔牛が厭
(あ)きて頭をぶらぶら振ってゐましたら向ふの丘の上を通りかかった赤狐が風のやうに走って来ました。

 『おい、散歩に出ようぢゃないか。僕がこの柵を持ちあげてゐるから早くくぐっておしまひ。』

      
〔…〕

 そして二人は樺林の中のベチュラ公爵の別荘の前を通りました。

 ところが別荘の中はしいんとして煙突からはいつものコルク抜きのやうな煙も出ず鉄の垣
(かき)が行儀よくみちに影法師を落してゐるだけで中には誰(たれ)も居ないやうでした。

 そこで狐がタン、タンと二つ舌を鳴らしてしばらく立ちどまってから云ひました。

 『おい、ちょっとはひって見ようぢゃないか。大丈夫なやうだから。』

      
〔…〕

 赤狐はさっさと中へ入りました。仔牛も仕方なくついて行きました。ひひらぎの植込みの処を通るとき狐の子は又青ぞらを見上げてタンと一つ舌を鳴らしました。仔牛はどきっとしました。

 赤狐はわき玄関の扉
(と)のとこでちょっとマットに足をふいてそれからさっさと段をあがって家の中に入りました。仔牛もびくびくしながらその通りしました。

      
〔…〕

 『この室へはひって見よう。おい。誰か居たら遁げ出すんだよ。』赤狐は身構へしながら扉をあけました。

      
〔…〕

 狐はだまって今度は真鍮のてすりのついた立派なはしごをのぼりはじめました。どうして狐さんはあゝうまくのぼるんだらうと仔牛は思ひました。

 『やかましいねえ、お前の足ったら、何て無器用なんだらう。』狐はこはい眼をして指で仔牛をおどしました。

 はしご段をのぼりましたら一つの室があけはなしてありました。日が一ぱいに射して絨緞の花のもやうが燃えるやうに見えました。てかてかした円卓
(まるテーブル)の上にまっ白な皿があってその上に立派な二房の黒ぶだうが置いてありました。冷たさうな影法師までちゃんと添へてあったのです。

 『さあ、喰べよう。』狐はそれを取ってちょっと嚊いで検査するやうにしながら云ひました。

      
〔…〕

 『ではあれはやっぱりあのまんまにして置きませう。』といふ声とステッキのカチッと鳴る音がして誰か二三人はしご段をのぼって来るやうでした。

 狐はちょっと眼を円くしてつっ立って音を聞いてゐましたがいきなり残りの葡萄の房を一ぺんにべろりとなめてそれから一つくるっとまはってバルコンへ飛び出しひらっと外へ下りてしまひました。仔牛はあわてて室の出口の方へ来ました。

 『おや、牛の子が来てるよ。迷って来たんだね。』せいの高い鼻眼鏡の公爵が段をあがって来て云ひました。

      
〔…〕
宮沢賢治『黒ぶだう』より。





「賢治寓話『黒ぶだう』は,仔牛が赤狐に誘われ,ベチュラ公爵別荘にわき玄関から入り,二階で黒ブドウを食べる。狐はブドウの汁を吸って他は吐き出し,仔牛は種まで噛む。公爵たちが帰ってきて,狐は逃げ,残された仔牛はリボンを貰う。

 この話の公爵別荘のモデルは花巻市街に現存する菊池捍
(まもる)邸であることが明らかとなった。菊池邸は1926年に建てられ,外見は洋館,中が畳敷きの和室で,花巻出身で北海道清水町の明治製糖工場長であった捍氏が建主である。北海道の洋館建築の様式をとり入れつつも,武家住宅の伝統を受け継ぎ,洋館には無いはずの本玄関と脇玄関を付けた。

 賢治が仔牛たちは『わき玄関』から入ったと書いているのが菊池邸をモデルとした証拠である。この建物は他にも『黒ぶだう』の別荘と合う点が多い。菊池捍邸が賢治作品の創作の秘密を解く鍵として極めて重要なことがわかったが,建物自体も大正期の洋風建築として価値の高いものであり,保存保全が望ましい。」

米地文夫,木村清且「賢治寓話『黒ぶだう』の西洋館モデルとしての花巻・菊池邸の発見」in:岩手県立大学総合政策学会『総合政策』,8(1),2006.抄録



 寓意説によると、別荘が「樺林」で囲まれているのは“白樺派”を暗示し、「ベチュラ」もカバノキ属の学名(betula)。「ベチュラ公爵」は、白樺派の作家・有島武郎だとされます。有島は、所有農地を農民に解放したあと 1923年に心中自刹していますが、賢治がこの事件に衝撃を受けていたと思われることは、↓こちらで書きました:


∇ 関連記事⇒:〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 7.11.6






 さらに寓意説によると、「ヘルバ伯爵」は、菊池捍の義兄・佐藤昌介。北海道大学(当時・東北帝大農科大学)の学長で、1924年に賢治が引率した花巻農学校の修学旅行一行を歓迎して、訓示を述べています。佐藤家は、代々花巻城に仕えた士族の家柄で、先代の昌蔵は南部藩大目付に任ぜられています。

 「ハームキヤ(17)」で訪ねた「清水観音堂」のある旧太田村には、佐藤家の菩提寺・昌歓寺があります。




昌歓寺 
花巻市太田





 ブドウを汁だけ吸ってタネと皮を吐き散らす「赤狐」は、佐藤昌介の妹を“初恋の人”として詠った島崎藤村だということになります。

 しかし、佐藤昌介がなぜ「ヘルバ」なのか、わかりません。「草の」を意味するエスペラント語の形容詞「ヘルバ(herba)」だとすると、「ヘルバ伯爵」は草野心平ではないでしょうか?



 ↑写真を見てわかるように、菊池邸の2階バルコンの下には、本玄関の屋根があって、狐ならばスルッとつたって逃げてしまえそうです。しかし、牛では、そうは行きません。バルコンに出ることもできないでしょう。梯子段のほうへ行って、昇って来る人間と出遭ってしまいます。しかし、牛がブドウのタネを吐くとは誰も思わないので、疑われずにすんでしまいます。

 賢治童話は、動物を寓話の人物として利用しているだけで、動物の生態や特徴をとらえていない、シートン『動物記』のような観察眼に乏しいと批判されることがありますが、この作品などを見ると、そうでもないんじゃないかと思えます。人間との関係、動物同士の関係を、けっこうよく観察していると思うのですが‥?











御旅屋 

現在は駐車場になっています。




御旅屋 
「鳥谷ヶ崎神社」の碑
右に「遥拝所」の標石があります。



 「御旅屋(おたびや)」は、宮澤宅のある豊沢通りの東隣りの道すじに面した空き地です。「旅屋」または「旅所」とは、神社の出張所のような場所で、小さな祠があるのがふつうですが、花巻のこの「御旅屋」は、現在はただの空き地です。しかし、施設の有無にかかわらず、祭礼の時には神輿の休憩所になり、夜店が出て賑わいます。ここは、花巻城近くの「鳥谷ヶ崎神社」の「旅屋」なのです。

 賢治は、祭礼のさいには、この「御旅屋」によく行っていたようで、童話『祭の晩』の舞台は、ここの「御旅屋」だとされています。『黄いろのトマト』でサーカスの小屋が建つ場所も、ここだと言われます。

 ただ、ギトンがちょっと疑問に思うのは、『祭の晩』で言う「お旅屋」は、普通名詞ではないかということです。「お旅屋」は『水仙月の四日』にも出てきますが、こちらは地上ではなく、太陽が雲の後ろで隠れている場所‥という程度の意味です。

 賢治の時代には、↓ここに描かれている神楽殿があったのかどうか、などまで考証しないと、この花巻の場所が、『祭の晩』の舞台だとは断定できない気がします。

 【参考】⇒:『祭の晩』と御旅屋




「山の神の秋の祭りの晩でした。

 亮二はあたらしい水色のしごきをしめて、それに十五銭もらって、お旅屋にでかけました。『空気獣』という見世物が大繁盛でした。

      
〔…〕

 亮二も急いでそこをはなれました。その辺一ぱいにならんだ屋台の青い苹果や葡萄が、アセチレンのあかりできらきら光っていました。

      
〔…〕

 向うの神楽殿には、ぼんやり五つばかりの提灯がついて、これからおかぐらがはじまるところらしく、てびらがねだけしずかに鳴っておりました。
〔…〕

 そしたら向うのひのきの陰の暗い掛茶屋の方で、なにか大きな声がして、みんながそっちへ走って行きました。亮二も急いでかけて行って、みんなの横からのぞき込みました。するとさっきの大きな男が、髪をもじゃもじゃして、しきりに村の若い者にいじめられているのでした。額から汗を流してなんべんも頭を下げていました。

      
〔…〕

 『た、た、た、薪
(たきぎ)百把持って来てやるがら』

 掛茶屋の主人は、耳が少し悪いとみえて、それをよく聞きとりかねて、かえって大声で言いました。

 『何だと。たった二串だと。あたりまえさ。団子の二串やそこら、くれてやってもいいのだが、おれはどうもきさまの物言いが気に食わないのでな。やい。何つうつらだ。こら、貴
〔き〕さん』

 男は汗を拭きながら、やっと又言いました。

 『薪をあとで百把持って来てやっから、許してくれろ』

 すると若者が怒ってしまいました。

 『うそをつけ、この野郎。どこの国に、団子二串に薪百把払うやづがあっか。全体きさんどこのやつだ』

 『そ、そ、そ、そ、そいつはとても言われない。許してくれろ』男は黄金
(きん)色の眼をぱちぱちさせて、汗をふきふき言いました。一緒に涙もふいたようでした。

 『ぶん撲れ、ぶん撲れ』誰
(たれ)かが叫びました。」
宮沢賢治『祭の晩』より。
(原文は旧仮名遣い) 







「朝日座」跡

御旅屋の向かい正面、現在の
ホテル花城(赤い建物)隣り
の空き地のあたりに
あったようです。



 「朝日座」は、当時の芝居小屋で、旅回りの一座が来て興行をする場所でしたが、年に何度かは活動写真の興行をしていました。当時花巻には、朝日座のような臨時の活動写真館が3つあったそうです。賢治は、活動写真の興行が来ると、おそらく父には内緒で、ここに見に来ていました。



「私がまだ4歳くらいで明治40年のころのことです。はじめて兄と一緒に活動写真を見に行ったのは、花巻の朝日座という芝居小屋でした。

 そこで、生まれてから初めて舞台に張られた白い幕の上に見たものと、どこからか湧き出して来る不思議な音に私はすっかり憑かれてしまったのでした。

      
〔…〕

 田舎町にそのころ興行のために持ってきたフィルムは、当時はなかなかの貴重品で、一晩の興行には時間があまるので、一度映したものをまた繰り返して見せたり、フィルムを襷
(たすき)のようにつなぎ合わせて、何回もぐるぐるまわして見せるので、同じ場所が何回も出てくる〔…〕

 私たちにとってもまた兄の賢治にとっても、一年の間に何回かしか見られず、この変な匂いの朝日座という小屋で、摺り切れかかった映画を繰り返して見せられることが、どれほど楽しく貴重な時間であったかを、今の若い人たちにわかって貰うことは容易のことではないと思うのです。

        *

 当時の花巻町の氏神、鳥谷ヶ崎神社の秋の三日間の祭りには、朝日座の前のお旅屋が人出の中心となっていました。この一年に一度のお祭りには、たくさんの山車が神輿さんの前を笛や太鼓や三味線で先導し、後の方には鹿おどりや剣舞がお供をして町内をねり歩いて、最後に朝日座前のお旅屋におみこしが鎮座するのです。

      
〔…〕

 見世物の中心は毎年サーカスか動物園で、
〔…〕大正のころになってから、サーカスと競って人気のあったのが、まだ珍しかった活動写真で、それが毎年朝日座にかかったのでした。

 ところが朝日座に田舎周りの芝居などがかかったときは、
〔映画のほうは御旅屋の露天で興行した。―――ギトン注〕広場に巨きなテントの小屋がつくられて、にぎやかな楽団と大きな旗やペンキの看板が客を誘い、殊に露天の映写台のアセチレンの青白い光が沢山の客を集めたのでした。赤や青や色とりどりの服を着た楽師や、フロックコートに素敵なネクタイをつけた映写機をまわす技師などを見ますと、私たちも見ないでは居られなかったのですが、祭りに来た活動写真はもうフィルムが摺り切れて、何回も画面がまっくらになるようなのです。」
宮沢清六『兄のトランク』,pp.39-43.






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