ハームキヤ(17)




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花巻市内の宮沢賢治関係箇所




 宮沢賢治は詩や童話の中で、花巻を「ハーナムキヤ」「ハームキヤ」「ハームキャ」「ヒームキヤ」などと呼んでいました。









清水
(きよみず)観音堂









花巻西南郊(太田地区)
豊沢川上流方面を望む。
中央の台形の山は江釣子森、その右の双耳峰は草井山。

豊沢川が形成した扇状地に広がる耕地。
賢治童話で有名な「なめとこ山」を奥に控え、
戦後高村光太郎が隠棲した八方山を含む
花巻西方の山々がよく見えます。

この広い田野を、羅須地人協会時代の賢治は、
教え子たちを引き連れて、巡検して歩いたのでした。




地図(花巻西南郊)





 花巻市西南郊にある「清水寺
(きよみずでら)」は、京都、兵庫の清水寺とともに、天台宗の“日本三清水”のひとつとされています。寺伝では9世紀の創建とされ、古い歴史があります。そんな由緒あるお寺が、市域からはるか隔たった田圃のまんなかに、ぽつんと建っているのは、なぜなのでしょうか。このあたり、今でこそ僻地ですが、古い時代には、和賀方面と結ぶ交通路、あるいはもしかして、奥州街道の前身が通っていたのでしょうか?‥奥州街道の道すじは何度か変更されています。

 江戸時代初期の慶長年間に、南部藩花巻城代が、清水寺の近くにあった市場を現在の花巻市に移したと伝えられていますから、戦国時代までは、このあたりが交通の中心地であったと思われるのです。

 「清水寺」には、江戸時代の観音堂(1813年再築)、千体薬師堂(賢治の時代には現存。その後焼失・1965年再築)、神馬堂、1927年再築の山門‥などの建物が現存しています。

 ここは、羅須地人協会時代の宮沢賢治が、教え子たちとともに稲の成長の見回りをした経路の途上にあたり、この寺の観音堂を休憩場所としてしばしば利用したようです。↓下で見るように、清水寺の「観音堂」は、賢治詩にも何度か登場します。

【公式HP】⇒:岩手花巻・清水寺







清水寺 
南方から望む。
杉などの木立ちが密集した中に、山門、観音堂
などがあります。




清水寺 
北方から望む。

いちめんに広がる水田の中に浮かんだ“島”
のようにも見えます。




     穂孕期
〔ほばらみき〕

 蜂蜜いろの夕陽のなかを
 みんな渇いて
 稲田のなかの萓の島、
 観音堂へ漂ひ着いた
 いちにちの行程は
 ただまっ青な稲の中
 眼路をかぎりの
 その水いろの葉筒の底で
 けむりのやうな一ミリの羽
 淡い稲穂の原体が
 いまこっそりと形成され
 この幾月の心労は
 ぼうぼう東の山地に消える
 青く澱んだ夕陽のなかで
 麻シャツの胸をはだけてしゃがんだり
 帽子をぬいで小さな石に腰かけたり
 みんな顔中稲で傷だらけにして
 芬
〔かお〕って酸っぱいあんずをたべる
 みんなのことばはきれぎれで
 知らない国の原語のやう
 ぼうとまなこをめぐらせば、
 青い寒天のやうにもさやぎ
 むしろ液体のやうにもけむって
 この堂をめぐる萓むらである

『春と修羅・第3集』より 1928.7.14.「穂孕期」〔下書稿手入れ〕



 ↑この詩の「観音堂」も、『定本・宮澤賢治語彙辞典』によれば、清水寺の観音堂とされます。「萓
(かや)の島」とありますが、じっさいには杉などの森の島なので、疑問はありますが、ここで取り上げておきたいと思います。

 1928年7月といえば、同年3月の共産党・労農党大弾圧の影響で、賢治の周辺にも逮捕者が出ただけでなく、賢治自身も警察で取り調べを受けたと推測されています。羅須地人協会の活動も、事実上休止状態に追い込まれました。

 協会の農村文化活動の挫折と終息は、よく言われるように賢治自身の病のためでも、周辺農民の無理解のためでもなかったと思います。それらは、公権力によって「アカ」の烙印を押されたことの結果でしかありません。宮沢賢治の理想主義的な活動は、弾圧と、賢治自身の“萎縮”のために挫折したのです。

 上の詩で「この幾月の心労」と言っているのは、稲を育てる心労――賢治自身は稲作はしていません――ばかりではなかったはずです。

 ともかく、茎の先がふくらんで、いまにも穂を出しかけている稲のようす、期待と不安の入り混じった思いでそれを観察する作者と教え子たちのようすが、目に見えるようです。

 ただちょっと解らないのは、「ぼうぼう東の山地に消える/青く澱んだ夕陽」という部分です。この「東」は、手入れ前の初稿から同じですから、誤記ではないはずですが、夕陽が東に沈むわけがないw… 賢治の意図を読み当てる妙案は、ないものでしょうか?



 この詩は、描写の技法にもすぐれた点を備えています。蜂蜜のような夕陽、夕焼けの山々や、「萓むら」の流動化した風景は、『春と修羅』以来の⦅心象スケッチ⦆のみごとな発展と言えます。「麻シャツの胸をはだけてしゃが」む青年たちの姿は、疲労の汗が匂い立つような爽快なエロスを感じさせます。


「みんな顔中稲で傷だらけにして
 芬
〔かお〕って酸っぱいあんずをたべる
 みんなのことばはきれぎれで
 知らない国の原語のやう」


 苦境にみまわれても、師と仰ぐ作者の周りに集まって活動をつづけようとする青年たちの「稲で傷だらけ」の顔、「知らない国の原語のやう」にさえひびく「きれぎれ」の言葉…… ここには、単なる悲哀や叙情を超える力強さが感じられないでしょうか?


∇ 関連記事⇒:宮沢賢治の
《いきいきとした現在》へ 第3章(iii)








清水寺 
山門

現在の山門は、1927年に再建され、
1928年に落慶法要が行われたとのこと。
↑上の賢治詩の日付は、ちょうど落慶の
前後になります。詩が古い「観音堂」
だけをとらえて、真新しい山門には
あえて言及していないのも、何か
考えさせるものがあります。








 次の口語詩も、やはり稲作巡検の途中で、「清水寺」で休憩した時のことを描いています。「観音堂」としか書かれていませんが、この清水寺の観音堂であることは、杉の巨樹や、「観音堂」内の絵馬、算額などが詠みこまれていることから、まちがえないと言えます。

 〔下書稿(一)〕から(三)までの逐次草稿が現存していますが、↑上の詩と違って日付がありません。日付のないこと自体が、1929年以後の作であることを推定させるのですが、草稿に使われている用紙から見ても、やはりそのころ以降です。

 〔下書稿(一)〕は、「黄罫詩稿用紙24/24,24/0」に書かれており、この用紙の使用時期は、1930年秋頃と推定されています(杉浦静『宮沢賢治 明滅する春と修羅』,1993,蒼丘書林,p.245)。

 そこで、スケッチされた体験の時期は 1930年秋、またはそれ以前ということになります。↑上の「穂孕期」の巡検(1928年夏)について、回想して再度書いたのか、別の年の巡検なのかは、何とも言えません。詩の内容や雰囲気から言うと、別の年のように思われます。1929年夏または1930年夏の巡検ではないでしょうか。




清水寺 
観音堂

入口中央に、“どら”と紐がさがっていますね。






      境 内

 みんなが辨当を食べてゐる間
 わたくしはこの杉の幹にかくれて
 しばらくひとり憩んでゐやう
 二里も遠くから この野原中
 くろくわだかまって見え
 千年にもなると云はれる
 林のなかの一本だ
 うす光る巻積雲に
 梢が黒く浮いてゐて
 見てゐると
 杉とわたくしとが
 空を旅してゐるやうだ
 みんなは杉のうしろの方
 山門の下や石碑に腰かけて
 割合ひっそりしてゐるのは
 いま盛んにたべてゐるのだ
 約束をしてみな辨当をもち出して
 じぶんの家の近辺を
 ふだんはあるかないやうなあちこちの田の隅まで
 仲間といっしょにまはってあるく
 ちょっと異様な気持ちだらう
 おれも飯でも握ってもってくるとよかった
 空手で来ても
 学校前の荒物店で
 パンなぞ買へると考へたのは
 第一ひどい間違ひだった
 冬は酸へずに五日や十日置けるので
 とにかく売ってゐたのだらう
 パンはありませんかと云ふと
 冬はたしかに売ったのに
 主人がまるで忘れたやうな
 ひどくけげんな顔をして
 はあ? パンすかときいてゐた
 一つの椅子に腰かけて
 朝から酒をのんでゐた
 眉の蕪雑なぢいさんが
 ぢろっとおれをふり向いた
 それから大へん親切さうに
 パンだらそこにあったっけがと
 右手の棚を何かさがすといふ風にして
 それから大へんとぼけた顔で
 ははあ食はれなぃ石
(セキ)バンだと
 さう云ひながらおれを見た
 主人もすこしもくつろがず
 おれにもわらふ余裕がなかった
 あのぢいさんにあすこまで
 強い皮肉を云はせたものを
 そのまっくらな巨きなものを
 おれはどうにも動かせない
 結局おれではだめなのかなあ
 みんなはもう飯もすんだのか
 改めてまたどらをうったり手を叩いたり
 林いっぱい大へんにぎやかになった
 向ふはさっき
 みんなといっしょに入った鳥居
 しだれのやなぎや桜や水
 鳥居は明るいま夏の野原にひらいてゐる
 あゝ杉を出て社殿をのぼり
 絵馬や格子に囲まれた
 うすくらがりの板の上に
 からだを投げておれは泣きたい
 けれどもおれはそれをしてはならない
 無畏 無畏
 断じて進め

宮沢賢治『口語詩稿』より〔みんな食事もすんだらしく〕〔下書稿(一)〕。






 「この杉の幹……二里も遠くから この野原中/くろくわだかまって見え/千年にもなると云はれる/林のなかの一本だ」とある点は、この場所が「清水寺」だという一つの根拠になります。たしかに、寺を囲む森には、古い杉の巨樹が少なくないのです。公式HPには「子持ち杉」の説明がありますが、「子持ち杉」だけでなく、同様に古そうな杉の巨樹がたくさんあります。

 「山門」があること、「社殿」つまり観音堂の前に「どら」があること、中に「絵馬や格子」があることも、清水寺と一致します。「石碑」は、庚申碑や「出羽三山」などの山岳信仰の碑が、境内には多数あります。

 ただ、「鳥居」は、現在の清水寺にはありません。しかし、2ヶ所の入口には、門も何もないところをみると、昔は鳥居があったのかもしれません。「延命寺」↓で見たように、入口に鳥居のあるお寺は、花巻では珍しくないのです。


∇ 参考記事⇒:ハームキヤ(14)



 いっしょに稲作の巡検をして歩いてきた教え子たちは、いま、ひっそりとなって食事に余念がないのに、賢治ひとりは皆から離れて、手持ち無沙汰に空を眺めている:


「うす光る巻積雲に
 梢が黒く浮いてゐて
 見てゐると
 杉とわたくしとが
 空を旅してゐるやうだ」


 などと、空腹をかかえてじっとしていなければならない淋しさを、まぎらわしているのです。

 もし彼が、

 「やぁ、じつは弁当を持ってくるの忘れちゃってなぁ‥」

とひとこと言えば、教え子たちは我先にと握り飯などを賢治に差し出したにちがいありません。回想談などで知られる“師弟”の関係からは、明らかにそう思えるのです。にもかかわらず、賢治には、教え子たちにそれを言うわけにはいかない、自分の食抜きを隠さなければならない理由があったのです。

 その理由は、「学校前の荒物店で」以下の詩行で明らかになります。



 じつは、この作品の発見と公表は、たいへん複雑な経過をたどってきました。

 初期の宮澤賢治全集では、途中の「そのまっくらな巨きなものを」からあとの後半だけが、独立した作品として掲載されていました。前半の草稿の存在は知られていませんでした。そこで、「そのまっくらな巨きなもの」とは、いったい何なのか?‥さまざまな推測がなされ、さまざまな見解が発表されていたのです。

 1970年代に、入沢康夫氏をはじめとする『校本宮澤賢治全集』の編集委員が、賢治草稿の全面的な調査を行なった際に、前半の存在と、後半との接続が確認され、こうして、64行からなる〔下書稿(一)〕の全貌が明らかになったのでした。⇒:入沢康夫『プリオシン海岸からの報告』,1991,筑摩書房,pp.178-187; 杉浦静『宮沢賢治 明滅する春と修羅』,pp.180-192. 参照。

 こうして陽の目を見た草稿の全体を通して読んでみると、「そのまっくらな巨きなもの」とは、その前の行の「あのぢいさんにあすこまで/強い皮肉を云はせたもの」を言いかえた表現であることが明らかです。

 “パンなど置いてない、石盤ならあるけどよ”という、「荒物店」にいた「ぢいさん」の皮肉は、単にこの人が意地悪な性格だということではなく、若者たちを連れて他人の農地の“巡検”などをしている賢治に向けられた住民一般の激しい反感の表現なのです。それは、文脈から明らかでしょう。すくなくとも、賢治は、「ぢいさん」の言動をそう受けとったのです。

 そのことは、いっしょに巡検をしている教え子たちに対する賢治の気持ちにも表れています:


「じぶんの家の近辺を
 ふだんはあるかないやうなあちこちの田の隅まで
 仲間といっしょにまはってあるく
 ちょっと異様な気持ちだらう」


 つまり、近所の他人の田圃まで、挨拶もなく観察して歩くような活動をすることは、部落じゅうから白眼視されかねない危険な行動と思われたかもしれない。教え子たち自身が不安を感じていたかどうかはともかく、賢治は、そう思われることを心配しているのです。

 賢治が県立農学校の教諭であった時なら、表立って非難する者はいなかったでしょう。陰でこそこそ悪口を言うのが関の山です。しかし、今は賢治には、何の“公の”後ろ盾もないのです。教師時代に培われた地元の信頼と名声も、1928年の労農党弾圧に連座したことで、地に堕ちていたにちがいありません。



 賢治たちの活動に対する農村の人々の、頑迷な反感と無理解―――それが、「そのまっくらな巨きなもの」の実体だったと言えます。

 「結局おれではだめなのかなあ」―――この“人間の壁”に突き当たるたび、賢治はまったく取り付く“島”もない絶望感を味わっていたことがわかります。



 この荒物店が近くにあったという「学校」が、どこなのかは判りません。当時このへんにありえた「学校」は、小学校にかぎりますが、現在、清水寺の近くに小学校はありません。最も近い太田小学校は、かなり離れています。

 詩には、「朝から酒をのんでゐた/眉の蕪雑なぢいさん」とありますから、「学校前の荒物店」に寄ったのは朝で、清水寺に着いたのは昼頃なのかもしれません。だとすると、徒歩数時間の距離があります。当時の地図を調べればわかるかもしれませんが、今後の課題にしたいと思います。

 ともかく、この「石バン」の一件は、賢治の心に、よほど深い傷を残したようです。『グスコーブドリの伝記』(1932年2月発表)では、ブドリが農民たちから不作の原因を押しつけられて集団暴行される場面に、このエピソードが挿入されているのです:



「ところがある日、ブドリがタチナという火山へ行った帰り、とりいれの済んでがらんとした沼ばたけの中の小さな村を通りかかりました。ちょうどひるころなので、パンを買おうと思って、一軒の雑貨や菓子を買っている店へ寄って、

 『パンはありませんか。』とききました。するとそこには三人のはだしの人たちが、目をまっ赤にして酒を飲んでおりましたが、一人が立ち上がって、

 『パンはあるが、どうも食われないパンでな。石盤
(セキパン)だもな。』とおかしなことを言いますと、みんなはおもしろそうにブドリの顔を見てどっと笑いました。ブドリはいやになって、ぷいっと表へ出ましたら、向こうから髪を角刈りにしたせいの高い男が来て、いきなり、

 『おい、お前、ことしの夏、電気でこやし降らせたブドリだな。』と言いました。

 『そうだ。』ブドリは何げなく答えました。その男は高く叫びました。

 『火山局のブドリが来たぞ。みんな集まれ。』

 すると今の家の中やそこらの畑から、十八人の百姓たちが、げらげらわらってかけて来ました。

 『この野郎、きさまの電気のおかげで、おいらのオリザ、みんな倒れてしまったぞ。何
(な)してあんなまねしたんだ。』一人が言いました。

 ブドリはしずかに言いました。

 『倒れるなんて、きみらは春に出したポスターを見なかったのか。』

 『何この野郎。』いきなり一人がブドリの帽子をたたき落としました。それからみんなは寄ってたかってブドリをなぐったりふんだりしました。ブドリはとうとう何がなんだかわからなくなって倒れてしまいました。」


宮沢賢治『グスコーブドリの伝記』より。
(原文は旧仮名遣い) 


∇ 関連記事⇒:
【暴力村のブドリ】








 さて、次に〔下書稿(二)〕を見たいと思います。〔下書稿(一)〕が 1930年夏〜秋頃だとすると、〔下書稿(二)〕に直したのは 1931年以後ではないかと考えられるのですが、用紙から推敲年代を推定するのは困難です。用紙は〔下書稿(一)〕の裏を利用しているからです。

 しかし、この〔下書稿(二)〕については、その内容から、1931年9月の《満洲事変》に触発されて書かれたと推定する議論があります。《満洲事変》の批判、反戦意志の表明――までは行かなくとも、少なくとも「満洲事変を嘆く気持」の表白が見られると言うのです。

 ギトンは、↓下の記事で、《満洲事変》に対する宮沢賢治の態度には二面性が見られることを指摘したのですが、それは、《事変》に続く《熱河作戦》に従軍した教え子への手紙を検討した結果でした。

 しかし、鈴木貞美氏が最近発表された研究によれば、賢治は、他人に見せない詩草稿では、《満洲事変》に批判的な見解を述べていると言うのです。この鈴木氏の指摘は、もっと注目されてよいと思います。鈴木氏は、〔下書稿(二)〕に推敲された形をもとに論じておられるのですが、今回、ギトンはさらに、〔下書稿(一)〕から(二)への推敲途中の形についても詳しく調べた結果、鈴木氏が論ずる以上に明確な反戦的見解が書かれ、また消されていることがわかりました!


∇ 関連記事⇒:《あ〜いえばこーゆー記》
【宮沢賢治】キメラ襲う(2)




 鈴木氏の議論は、のちほど紹介することにして、とりあえずは〔下書稿(二)〕に、(一)からの推敲の途上で書かれて消された部分を加えたテクストを、ご覧に入れたいと思います:






 みんな食事もすんだらしく
 また改めてごぼんごぼんとどらをたゝいたり
 樹にこだまさせて柏手をうったり
 林のなかはにぎやかになった

 ――ひでりや寒さやつぎつぎ襲ふ
   自然の半面とたゝかふほかに
   この人たちはいままで幾百年
   自分と闘ふことを教はり
   克明にそれをやってきた
   一つの敵はいま変った
   いまその第二をしばらくすてゝ
   形一そう瞭
〔あき〕らかに
   烈しい威嚇や復讐をする
   新たな敵に進めといふ――

 そのことがまこと正しく
 そのことがこの人たちの苦悩をまことに消すものと知らば

 この人たちはもはやこゝにぬかずかず
 われらの意志と腕を除いて
 どこに菩薩も神もあるかと
 さうまっしぐらに起つであらう

 何故に施無畏の大士はその無畏をこそ

 あゝわたくしはそのことの
 正しいかどうかはしばらくおき
 身を失ふかどうかもしばらくおき
 たゞそのことが約することについて
 ついに信ずることができない

 この樹を棄てて壇をのぼり
 施無畏の大士遠く去って
 うつろな拝殿のうすくらがり
 古くからの幡や絵馬の間に
 声あげて声あげて慟哭したい

 世は愚によって滅びると

 杉の梢を雲がすべり
 鳥居はひるの野原にひらく

宮沢賢治『口語詩稿』より〔みんな食事もすんだらしく〕〔下書稿(二)〕。
褐色字は、手入れ中途形の一部を再現。



 〔下書稿(一)〕では、「みんな」が食事をしているあいだのこと、そして、午前中の「荒物店」での体験が書かれたあと、「みんな食事もすんだらしく」ドラを叩いたり柏手を打つ音で賑やかになったと書かれていました。しかし、この〔下書稿(二)〕になると、前半部分は削られて、「みんな食事もすんだらしく」から詩が始まっています。そして、(一)には無かった:


「ひでりや寒さやつぎつぎ襲ふ」


 以下の、作者の見解と言ってよいものが書きこまれています。この見解は、鈴木氏が推定するように、《満洲事変》以後の賢治の見解を書きこんだものと見てよいと思います。



「ひでりや寒さやつぎつぎ襲ふ
 自然の半面とたゝかふほかに
 この人たちはいままで幾百年
 自分と闘ふことを教はり
 克明にそれをやってきた」


 つまり、岩手のみならず日本の農民は、江戸時代以来、自然に対しては、半面はそれに従うことを教えられ、半面は、治水工事などに駆り出されて、それと闘うことを命じられてきました。またその一方で、儒教思想の下で、「自分と闘う」ように教えられ、その教えを忠実に実行してきたのでした。

 ところが、今になって急に、この“教え”の後半がひっくり返されてしまったというのです。今や農民は、「自分と闘う」のをやめて、


「形一そう瞭らかに
 烈しい威嚇や復讐をする
 新たな敵に進めといふ」


 そういう新たな方向に向け変えられようとしている。この「新たな敵」が何を意味するかについては、いろいろに考えられるかもしれません。ひとつには、この「新たな敵」とはブルジョワジー、資本家階級で、当時盛んになった左翼運動のことを言っているのだとする解釈がありうるでしょう。しかし、あとのほうで、


「世は愚によって滅びると」


 と書きかけて、消しています。この詩句を見る限り、作者は「世」つまり日本全体の趨勢、いわば“体制”に対して強烈に批判的な見解を持っていると言わざるをえないのです。したがって、左翼運動――この時期には、すでに弾圧によって退潮していました――を批判の対象にしているとは思えないのです。

 そうすると、この「新たな敵」と闘うように仕向けているのは、むしろ軍や政府のほうだと考えざるをえません。

 じつは、⦅満洲事変⦆に先立って、陸軍は、農民の好戦熱を煽るために日本各地で軍人による「時局講演会」を催していました。その一端は↓こちらの記事でも触れましたが、岩手県でも盛んに催されていたことでしょう。(ところが、この「時局講演会」は、厳重な報道管制の下で行われたので、新聞等には全く記録が残っていないのです!)


∇ 関連記事⇒:【シベリア派兵史】
日露戦争から満州事変へ(3)




 「時局講演会」の内容は、↑こちらの記事に引用した石堂清倫氏の証言を読んでほしいのですが、農民たちに対して、現下の苦境から脱出する道は、農業技術の改良でも、社会の変革でもない、中国大陸へ出かけて行って、そこにある土地を“ちょうだい”すればよいのだ、と煽っていたのです。あまりにもあからさまな侵略思想が堂々と吹きこまれていました。軍刀を提げた現役の軍人が公式に言うのですから、誰も反対することができません。

 つまり、自然と闘うのは、とりあえずそのまま放っておいて、それよりも、“第二の敵”を自己から他者へ、他民族へと向け変えろ――というわけです。

 そして、《満洲事変》を起こした後は、その「新たな敵」の「烈しい威嚇や復讐」のさまが、ウソも誇張も入り混じって喧伝され、農民たちは、闘え、闘え、軍隊に入って闘え、銃後で闘えと煽られたのです。

 そして、賢治自身、この烈しい侵略煽動の渦中にあって、それを頭から否定することもできませんでした。軍と政府とマスコミが一体となったような侵略宣伝に見舞われた苦悩と迷いが、↓これらの詩句に表れています:



「あゝわたくしはそのことの
 正しいかどうかはしばらくおき
 身を失ふかどうかもしばらくおき
 たゞそのことが約することについて
 ついに信ずることができない」



 「正しいかどうか」さえ、すぐには言うことができない、と言い、それでも、「そのこと〔侵略宣伝〕が約することについて/ついに信ずることができない」と最後に言い切ったことを、私たちは高く評価すべきでしょう。もっとも、これは推敲中途形ですから、言い切ったというよりは、そういう考えが一瞬、賢治の脳裡を去来した、と言うべきかもしれません。

 それでも賢治は、中国を侵略して英米と闘えば、すべては良くなる、と言う軍の宣伝、「敵」の向け変えについて、どうしても「信ずることができない」と言っているのです。この反戦の意志を見逃すならば、私たちは宮沢賢治を永久に誤解しつづけることになるのではないでしょうか?






「『自分と闘ふこと』とは儒教による克己の道を指していい、『烈しい威嚇や復讐をする/新たな敵に進めといふ』は、満洲軍閥・張作霖を、反日運動を高める者と関東軍が喧伝し、爆殺(1928年)、やがて1931年9月18日、その息子、張学良の政権が鉄道敷設を進めたことから、不況に喘ぐ南満州鉄道の経営を脅かすものとし、陰謀をはかって、一挙にその軍隊を蹴散らし、満洲を占領した戦争を想わせる。1932年春には、中国人を要人に据え、清朝皇帝、愛新覚羅溥儀の首根っこをおさえて執政(のち皇帝)に担ぐが、政府中枢を日本人官吏が握る傀儡政権をつくり、『王道楽土』『民族協和』の旗を掲げて独立国家を標榜したものの、かかる横暴は国際社会の強い反発を生み、国際連盟で孤立、1933年には脱退宣言に至ったことはよく知られる。

 
〔…〕もし、このように読んでよいとしたら、賢治は満州事変を嘆く気持をもっていたことになる。〔…〕

 ひとつだけはっきりしているのは、賢治が、1932年10月、草野心平に宛てて、草野との『主義』のちがいをいいつつ、『ちがった考は許すならやっぱりにせものです。何としても闘はなければならないといふと、それはおれの方だとあなたは笑ふかもしれません。さうでもないです』と記していることである。
〔…〕

 賢治は、むしろ、卑怯なふるまいと闘う姿勢を固めていったと考えてよいのではないか。
〔…〕そのころ取り組んでいたと想われる童話〔…〕草稿〔フランドン農学校の豚〕は、神学校で飼われている豚たちに、校長が屠殺されることを自ら同意するようにしむける過程を書こうとしている。権力の命令を仲介する者を諷刺し、最後には命令が暴力的に貫徹するしくみを暴く意図が明らかな草稿である。」
鈴木貞美『宮沢賢治 氾濫する生命』,2015,左右社,pp.369-371.



 鈴木氏が言及している草野宛て書簡ですが、これは、心平が、アメリカのサッコ・ヴァンゼッティ冤罪事件を批判する自分の翻訳書を賢治に贈ったのに対する返事なのです。草野の主張に反発した賢治の趣旨は、2とおりに解釈できると思います。ひとつは、冤罪などを主張して“おかみ”に楯突くとは、とんでもないという考えです。そういう一面も賢治にはあったかもしれないと、ギトンは思います。しかし、もうひとつの解釈は、心平は、日本の裁判所を批判しないでおいて、アメリカの裁判所は批判しても日本の検閲に引っかからないから批判するというのは、ずるい、という考え方です。

 たしかに、サッコとヴァンゼッティはアナーキストで、同じくアナーキストを標榜する草野心平が、擁護しないではいられないと思ったのは、理解できることです。しかし、それなら大杉栄はどうなのか? 日本のアナーキスト大杉栄は、甘粕大尉に虐殺され、その甘粕大尉を日本の裁判所は軽罰で放免したのです。その裁判を心平が批判したことはありません。批判できるはずもないのですが...

 それまでの親英・親米から反英・反米への“旋回”は、当時、日本の知識人一般の流れだったと言えます。高村光太郎が良い例でしょう。真珠湾攻撃の 10年近く前から、対英米開戦の土壌は形づくられつつあったと言えます。そのひとつの“節目”が、《満洲事変》による傍若無人の侵略政策の発露、その結果としての国際連盟脱退だったと言えます。

 しかし、日本の軍や政府の政策はともかく、そうした“体制”とは一線を画するかのようにふるまって来た知識人の、手のひらを返すような“旋回”は、知識人の“圏外”に居る賢治から見れば、ずるい、卑怯だ、と思われたにちがいありません。

 鈴木氏の議論は、そのように理解することができます。



 草野宛て書簡から明らかになることは、賢治自身、草野とはやや違う意味で「何としても闘はなければならない」と考えていたということです。

 草野心平について言えば、その反米姿勢は、高村光太郎などとは異なって、必ずしも“旋回”ではなく、もともとからの考えだったようです。興亜・反欧の思想を持って中国広東に留学し、1940年には中国の汪精衛親日政権のもとで対日和平政策を進めています。しかし、宮沢賢治は、その点では草野よりずっと“欧米派”だったと思います。

 それでは、賢治は、いったい何と、「闘はなければならない」と考えていたのか?‥彼は、はっきりと答えてはいません。これはまたひとつ、私たちの宿題が増えたようですねw



 なお、「施無畏の大士」については、鈴木氏も「誰か、心あたりがない。」としておられるように、何を意味するのか、よくわかりません。特定の人を指すのかどうかも不明というべきです。ただ、仏教用語としては、「施無畏」とは、衆生の恐れを除いて救うことであり、「施無畏者」とは観音菩薩のことだそうです。そうすると、「施無畏の大士」も、観音菩薩か、それに近い存在ではないでしょうか。〔下書稿(一)〕の「無畏 無畏/断じて進め」を受けていることは、まちがえないでしょう。

 「無畏!無畏!」と自分を励ましていた姿勢から一歩退いて、「施無畏の大士遠く去っ」た暗黒を覗きこみ、己れの弱さを見つめた時に、明確な反戦の意志が現れたことに、私たちは注目してよいのではないでしょうか?

 
【後記】「施無畏の大士」の「大士」は「大師」に通じます。しかし、実在の人物を指しているとしたら、“静かな勇気、不動心を与えてくれる人”とは、最澄(伝教大師)よりも、日蓮ではないでしょうか。当代の“国難”にあたって、軍の鼓舞する侵掠思想が「正しいかどうか」を問題にする場面で、「何故に施無畏の大士はその無畏をこそ」と、いったん想起しかけて途中で消していることからも、日蓮が考えられると思うのです。みなさんは、どうお考えになるでしょうか?







清水寺 
観音堂・内部
賢治の詩に記されているように、
格子があり、大きな絵馬が掲げられています。




清水寺 
観音堂・内部

よく見ると、この絵馬は“算額”です。いろいろな図形の
求積問題と解答が、漢文で書かれています。
「明治廿五年九月吉辰」の奉納日付が記されています。



 「算額」とは、数学(和算)の問題を書いた絵馬のことです。全国の寺社に奉納されたものがありますが、東北地方ではたいへん珍しいのではないでしょうか?

 算額とわかっていれば、もっと字が読めるように接写して来るんでしたw

 明治25年(1892年)の奉納ですから、賢治たちが来た時にはあったはずです。



 じつは、〔下書稿(二)〕の「古くからの幡や絵馬の間に」は、〔下書稿(三)〕では:


「古くからの幡や丹群青で彩った和算の額の間に」


 と改められています。この「和算の額」があることで、この詩の「社殿」は、清水寺の観音堂に間違いないと言い切れるのです。






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