ハームキヤ(16)




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花巻市内の宮沢賢治関係箇所




 宮沢賢治は詩や童話の中で、花巻を「ハーナムキヤ」「ハームキヤ」「ハームキャ」「ヒームキヤ」などと呼んでいました。









キーデンノーと立岩
(たていわ)






 花巻市東郊にある「旧天王山(久田野とも言う)」は、現在は高木団地という住宅地に造成されていますが、下根子の「羅須地人協会」や賢治の自耕地「下の畑」からよく見える丘です。

 「旧天王山」の周辺は、花巻農学校教師時代に賢治が生徒たちを連れて地学実習をした場所でもあります。

 今回は、旧天王山とその麓を流れる猿ヶ石川の河原をたどり、川の浸蝕が形成した火山噴出岩の大露頭を訪れます。









地図(花巻東郊)







安野
(やすの)と猿ヶ石川(上流側)
中央右の丘が「旧天王山」




安野橋 
河原(下流側)を望む。



「北上川支流の一つである猿ヶ石川にかかる安野橋にさしかかったとき、清六氏は、せきこむように言われた。

 『アッ、ちょっと待って下さい。この川原に寄ってゆきましょう』

 ――車を降りた清六氏は、私がお貸しした岩石用ハンマーで、河原のブッシュをさっさと払いながら、一直線に河岸にでられた。
〔…〕

 『この辺は、賢治の生徒たちの、野外実習の折の、集合場所でしてねえ。それに、ここらにあった筈だが、はーて、隠れてしまいましたな』

 ――その、“あった”というのは大きな奇岩で賢治がつねづね『これは胡四王山
〔こしおうざん〕の石だ』といっていたという。〔…〕
宮城一男『宮沢賢治との旅』,1978,津軽書房,pp.116-117.



「秋晴の一日農学校の生徒は賢治さんに伴なわれて、矢沢村に土質調査の実習に行きました。猿ヶ石川に架っている安野橋まで行き、そこで調査用紙が生徒に渡されました。その調査用紙には矢沢村の地図が印刷されており、それに調査した土質を色別を以て記入するわけで、生徒は組に分けられ、各方面に分遣され、午後の二時には、この安野橋に再び集合する手はずです。

 午後二時生徒はそれぞれ記入を終って、安野橋に帰って来ました。
〔…〕

 『そこの橋の下に面白い形の岩が沢山あるでしょう。黝
(くろず)んで、さびていて、庭石にでもすればすてきです。これはね、あっちの胡四王山から来て、ここにまた頭を出してるのです。このあたりでは高松石と呼んでいる、第三紀の岩です。』

 帰りに路の傍の野に入り、賢治さんと生徒とはともどもに、野荊
(のばら)や、まゆみの木や、あかしやの木を掘って帰り、校庭や校門のあたりに植えつけました。(大正13年秋)」
佐藤隆房『宮沢賢治』,改訂増補第5版,1970,富山房,pp.159-160.



「上流から運ばれてきたいわゆる転石ではなく、そこに根の生えている石、つまり基盤の石であって、しかも、それは胡四王山のつづきだということを、生徒たちに説明している」

宮城一男『宮沢賢治との旅』,p.118.



 この猿ヶ石川両岸の基盤岩は、主に新第三紀(賢治の時代の紀年では第三紀)の安山集塊岩からなっているようです。平野部では基盤岩の上に洪積層や土壌が被覆していますが、胡四王山の頂上や河岸では、土壌が浸食されて基盤の安山集塊岩が顔を出しているわけです。

 安山集塊岩は、地元では「高松石」と呼んで、庭石などにしていました。





 なお、佐藤氏の伝記には、帰りがけの山路で、師弟はノバラ、マユミ、アカシアなどを掘り取って行き、学校に植えたことが書かれています。

 賢治自身、同様のことを、この前年の口語詩「過去情炎」で描いています:



「截られた根から青じろい樹液がにじみ
 あたらしい腐植のにほひを嚊ぎながら
 きらびやかな雨あがりの中にはたらけば
 わたくしは移住の清教徒
(ピユリタン)です

      
〔…〕

 なぜならいまこのちいさなアカシヤをとつたあとで
 わたくしは鄭重にかがんでそれに唇をあてる

      
〔…〕

 なにもかもみんなたよりなく
 なにもかもみんなあてにならない
 これらげんしやうのせかいのなかで
 そのたよりない性質が
 こんなきれいな露になつたり
 いぢけたちいさなまゆみの木を
 紅
(べに)からやさしい月光いろまで
 豪奢な織物に染めたりする
 そんならもうアカシヤの木もほりとられたし
 いまはまんぞくしてたうぐわをおき」


『春と修羅』「過去情炎」より。


∇ 関連記事⇒:宮沢賢治の
《いきいきとした現在》へ 第5章(iii)



∇ 本記事はこちら⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜【83】過去情炎








「一千九百廿五年十月廿五日

 今日は土性調査の実習だった。僕は第二班の班長で図板をもった。あとは五人でハムマアだの検土杖だの試験紙だの塩化加里の瓶だの持って学校を出るときの愉快さは何とも云われなかった。谷先生もほんとうに愉快そうだった。六班がみんな思い思いの計画で別々のコースをとって調査にかかった。僕は郡で調べたのをちゃんと写して予察図にして持っていたからほかの班のようにまごつかなかった。けれどもなかなかわからない。郡のも十万分一だしほんの大体しか調ばっていない。猿ヶ石川の南の平地
(ひらち)に十時半ころまでにできた。それからは洪積層が旧天王の安山集塊岩の丘つづきのにも被さっているかがいちばんの疑問だったけれどもぼくたちは集塊岩のいくつもの露頭を丘の頂部近くで見附けた。結局洪積紀は地形図の百四十米(メートル)の線以下という大体の見当も附けてあとは先生が云ったように木の育ち工合や何かを参照して決めた。ぼくは土性の調査よりも地質の方が面白い。土性の方ならただ土をしらべてその場所を地図の上にその色で取っていくだけなのだが地質の方は考えなければいけないしその考えがなかなかうまくあたるのだから。

 ぼくらは松林の中だの萱の中で何べんもほかの班に出会った。みんなぼくらの地図をのぞきたがった。

 萱の中からは何べんも雉子も飛んだ。

      
〔…〕

 午后一時に約束の通り各班が猿ヶ石川の岸にあるきれいな安山集塊岩の露出のところに集った。どこからか小梨を貰ったと云って先生はみんなに分けた。ぼくたちはそこで地図を塗りなおしたりした。先生はその場所では誰のもいいとも悪わるいとも云わなかった。しばらくやすんでから、こんどはみんなで先生について川の北の花崗岩だの三紀の泥岩だのまではいった込んだ地質や土性のところを教わってあるいた。図は次の月曜までに清書して出すことにした。

 ぼくはあの図を出して先生に直してもらったら次の日曜に高橋君を頼んで僕のうちの近所のをすっかりこしらえてしまうんだ。僕のうちの近くなら洪積と沖積があるきりだしずっと簡単だ。それでも肥料の入れようやなんかまるでちがうんだから。いまならみんなはまるで反対にやってるんでないかと思う。」


宮沢賢治『或る農学生の日誌』より。
(原文は旧仮名遣い) 



「集塊岩というのは、やはり、火山噴出物の一種で、大小さまざまの角れきが火山灰でかためられている“岩おこし”のような岩石。その角れきの岩種が安山岩なので、安山集塊岩(安山岩質集塊岩)とよんだのであろう。」

宮城一男『宮沢賢治との旅』,p.120.



 ↑上の地図でわかるように、猿ヶ石川にかかる安野橋の北には「胡四王山」、南には「旧天王山」があって、いずれも新第三紀(当時の紀年では第三紀)の安山集塊岩を主体とする基盤岩から成っています。場所によっては、花崗岩の陥入や、新第三紀層の泥岩が混在します。

 安山集塊岩は、火山噴出岩である安山岩が砕かれた岩塊や礫を、火山灰がおおって固めた岩石ということですから、相当長い時間をかけて何度かの火山活動により形成されたことになります。現在では、この北上平野のまんなかに火山は見られませんが、古い時代には活発な火山活動のあったことをうかがわせるものです。

 しかし、農学校教師としての宮沢賢治が狙いとしていたのは、そうした地史の探究よりも、その先でした。地表の地質は、その上に形成される土壌の性質に影響します(とくに当時の土壌学は英独流で、母材の地質学的性質を重視していました)。『或る農学生の日誌』の引用の最後に書かれているように、土壌の性質を知るのと知らないのとでは、


「肥料の入れようやなんかまるでちがうんだから。いまならみんなはまるで反対にやってるんでないかと思う。」


 このような科学的な農業を身につけさせることが、教師としての賢治の目標であったのです。






 そこで、『或る農学生の日誌』に書かれている「旧天王山」の頂上へ行ってみました。丘の大部分は現在は団地と小学校になっていますが、頂上には、古くからある神社が残っています。




旧天王山 
高木岡神社



「古くからこのお山には大山祇命を祭神とした祠がありました 
祠には羽黒派の山伏達が修行の場にしておりましたので、住民は羽黒山と称していたとのことです
〔…〕
現地案内板より。



「高木岡神社所蔵の由緒書によると、この堂宇は慶長8年
〔1603年〕に五穀豊穣を祈って伊勢の外宮に請願して稲蒼魂命を迎え、古くからあった大山祇命と合祀したと記されている。

 従って古くから祠があったものと思われる。昔からこの付近一帯は久田野と呼ばれ先住民族が住んでいたらしく古い文化遺跡が数多く発掘されている。
〔…〕住民は羽黒山と呼び、長い間霊山として信仰の聖域となっていた。明治の初期に高木岡神社と改称となり、村社であった。」
現地案内板より。



 「旧天王山」は「久田野」とも書かれたことがわかります。おそらく読み方は同じなのでしょう。



 1603年といえば、徳川家康が江戸幕府を開いた年であり、なんらかの政治的関連が考えられます。これは偶然ではないでしょう。しかし、それ以前からここに神社があったかどうかは、何とも言えないと思います。

 もっとも、「きゅうでんの」という地名の由来については、アイヌ語で「ウバユリを掘る」という意味の「キュウ・タ」から来ているとする説があります(あまり似てませんねw)

 この丘から縄文時代の土器や住居址が発掘されたのは戦後のことであり、宮沢賢治は、この丘が先住民(エゾ)の住居地だったことなど、まったく知らなかったはずです。

 全国的に言えば、中世の城館や寺社の跡から弥生・縄文の遺跡が発掘されるのは珍しいことではありません。それは、日当たりや交通の便などの立地条件が、各時代の利用の基礎にあるためです。縄文の遺跡が出たからといって、ここにある神社が先住民と関係があるなどとは即断できません。この丘は、現在は団地になっていますが、むかし先住民が住んでいたから、いまの団地住民の先祖はアイヌにちがいないなどと“推定”したら、おかしなことになります。それと同じことですw

 むしろ、賢治の時代までは、出羽(山形県)羽黒山に拠る山伏の拠点・聖域として、信仰を集めていたことがわかります。幕末の文化9年(1812年)に山伏の経蔵として建立された「法華経一字一石塔」が残っています。

 旧天王山について、宮沢賢治の関係で過去にさかのぼるとしたら、追究すべきはアイヌや先住民ではなく、山伏と修験道でしょう。



 現在の高木岡神社は、たいへんきれいに整備されてしまっていて、賢治の時代にあった安山集塊岩の露頭は見つかりませんでした。安山集塊岩は、近くにある別の露頭で、↓このあと観察することにしたいと思います。






 ところで、この「旧天王山」は、農学校退職後の羅須地人協会時代の賢治の口語詩にも登場します。

 この丘は、北上川をはさんだ下根子の羅須地人協会跡から、たいへんよく見えるのです。詩の内容は、協会跡の下にある北上川畔の「下の畑」で、耕作中の賢治が、通りかかった工兵隊長と交わす会話です。




旧天王山 

羅須地人協会跡(下根子・宮澤家別宅)から望む。



〔冒頭原稿なし〕

   何かをおれに云ってゐる

 (ちょっときみ
  あの山は何と云ふかね)

   あの山なんて指さしたって
   おれから見れば角度がちがふ

 (あのいたゞきに松の茂ったあれですか)
 (さうだ)
 (あいつはキーデンノーと云ひます)

   うまくいったぞキーデンノー
   何とことばの微妙さよ
   キーデンノーと答へれば
   こっちは琿河か遼河の岸で
   白菜
(ペツアイ)をつくる百姓だ

 (キーデンノー?)
 (地図には名前はありません
  社のある百五米かのそれであります)
 (ははあこいつだ
  うしろに川があるんぢゃね)
 (あります)
 (なるほどははあ あすこへ落ちてくるんだな)

   あすこへ落ちて来るともさ
   あすこで川が一つになって
   向ふの水はつめたく清く
   こっちの水はにごってぬるく
   こゝらへんでもまだまじらない

 (峠のあるのはどの辺だらう)
 (ちゃうどあなたの正面です)
 (それ?)

   手袋をはめた指で
   景色を指すのは上品だ

 (あの藍いろの小松の山の右肩です)
 (車は通るんぢゃね)
 (通りませんな、はだかの馬もやっとです)

   傾斜を見たらわかるぢゃないか

 (も一つ南に峠があるね)
 (それは向ふの渡し場の
  ま上の山の右肩です)

   山の上は一列ひかる雲
   そこの安山集塊岩から
   モーターボートの音が
   とんとん反射してくる

 (臥牛はソーシとよむんかね)
 (さうです)
 (いやありがたう
  きみはいま何をやっとるのかね)
 (白菜を播くところです)
 (はあ今かね)
 (今です)
 (いやありがたう)

   ごくおとなしいとうさんだ
   盛岡の宅にはお嬢さんだのあるのだらう

 中隊長の声にはどうも感傷的なところがある
 ゆふべねむらないのかもしれない
 川がうしろでぎらぎらひかる」

宮沢賢治『口語詩稿』より〔何かをおれに云ってゐる〕〔下書稿手入れ〕。


∇ 関連記事⇒:《あ〜いえばこーゆー記》
【宮沢賢治】キメラ襲う(2)




 「旧天王山」ないし「久田野」を、ここでは「キーデンノー」と呼んでいます。この「キーデンノー」は、賢治が工兵隊の中隊長をからかうために、わざと訛って発音したのか、それとも、地元でのふつうの発音なのかは解りません。声調をつけて中国語風に発音したかもしれませんね。

 「社のある百五米かのそれであります」の「社」は、高木岡神社。「うしろに川があるんぢゃね」の「川」は、猿ヶ石川。


「あすこで川が一つになって
 向ふの水はつめたく清く
 こっちの水はにごってぬるく
 こゝらへんでもまだまじらない」


 は、猿ヶ石川と北上川の合流点のことを言っています。合流点は「イギリス海岸」の北にありますが(↑地図参照)、合流した水がすぐには混合しきれずに、数km 下流の「下の畑」のあたりでもまだ、2本の水脈が並んで流れているのが見えると言っているのです。

 当時はじっさいにそうだったようです。現在でも、イギリス海岸の近くまでは、分離した流れを見ることができます:



∇ 関連記事(イギリス海岸上流の2川合流点)⇒:
【ハームキヤ(13)】




「(峠のあるのはどの辺だらう)

      
〔…〕

 (あの藍いろの小松の山の右肩です)
 (車は通るんぢゃね)
 (通りませんな、はだかの馬もやっとです)

   傾斜を見たらわかるぢゃないか」


 とありますが、旧天王山の南側は、山が高くなって、当時はたいへん険しい峠路だったようです。「はだかの馬」は、人も荷も乗せていない馬という意味でしょう。現在は「大沢トンネル」というトンネルができて、自動車が通れるようになっています。






 ところで、『或る農学生の日誌』では、集合場所が「猿ヶ石川の岸にあるきれいな安山集塊岩の露出のところ」と書かれています。これは、安野橋ではないような気がします。安野橋の下に当時露出していたという奇岩は、「きれいな‥露出」とまでは言えないでしょう。

 じつは、猿ヶ石川のもう少し上流に、観光地にしてもいいような「きれいな」安山集塊岩の巨大露頭があります。通称「立岩」。「旧天王山」の頂上・高木岡神社からも近く、歩いて 30分程度の距離です。

 『或る農学生の日誌』の集合場所は、ここではないかと思うのですが、‥現在では安野橋でも高木岡神社でも、露頭が見られなくなってしまったので、「立岩」で安山集塊岩の観察をしたいと思います。




立岩 
全景
川は猿ヶ石川。下流方向を望む。




立岩 
接写
火山灰が固まった凝灰岩質のあいだに、
大小さまざまな安山岩の岩塊が包摂されています。




立岩 
岩だたみ
立岩のやや上流。渇水期で露出している
川底の平らな岩も、安山集塊岩です。



「花巻八景『平良木
(ひららぎ)の立岩』

 
〔…〕猿ヶ石川右岸の垂直に切り立った岩場とそれに生える樹木の織りなす景観は、猿ヶ石川随一の景勝地であり、四季おりおりの景色は川面に映えて絶景である。」
現地案内板より。



 残念ながら、案内板には岩石についての説明さえありませんでした。

 ここも含めて、花巻周辺の各種露頭を、ジオ・サイトとして保存・宣伝したら、宮沢賢治ブームに乗っかって、観光客がわんさかやって来ると思うんですがねえ。。。






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