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山田野演習場・跡






 宮沢賢治の足跡は、津軽にもあります。1925年、兵役で弘前の第8師団に入営していた弟・清六の慰問のため、賢治は何度か弘前の地を訪ねているのです。







山田野 
「演習場」跡付近
スイレンの咲く沼地

戦後の開拓によって、湿原の多くが
現在では水田になっていますが、
溜池として残された沼も散在しています。





 1925年9月、弟から音信がないのを心配した賢治は、弘前の歩兵第31連隊を訪れて、弟らは山田野演習場へ野戦訓練を受けに行っていることを知ります。

 賢治は、五能線の陸奥森田駅で下車して、演習場の正門まで歩いたと思われます。現在は演習場跡に最寄りの越水駅は、当時はまだありませんでした。途中、時間を節約しようとして、路のない野原を対角線に横切って沼地に踏み込んだので、演習場に現れた時には賢治は泥だらけの姿でした。

 路のない野原を歩ける北上平野とは違って、この山田野の一帯は、沼と湿原の原野だったのです。




「さて、三回目の弟慰問旅行が9月はじめ。このときは弘前の連隊を訪ねてみて、弟が山田野の演習地に出かけていることを知り、
〔…〕おそらく森田駅で下車。そこから数キロの、雨上りの道を、賢治は、走るように歩いて、とうとう泥まみれの姿を、山田野の丘の上に現わすことになったのだ。」
宮城一男『宮沢賢治との旅』,pp.42-43.



「それは9月の半ば頃のことで、まだ暑さが烈しく、野原は連日焼けるようであった。私は数日前から下痢をして身体も弱っていたが、聯隊の検閲も間近いときでもあったので無理して演習に出ていたのであった。

 この日、私共は午後の四時頃に一応演習を終えて、小隊毎に集結して廠舎への帰途についたのであったが、きっとそれを遠方から見たら土煙にまみれた芋虫の爬行とも見えたろうし、近くで見れば灰色によごれて疲れきった集団でもあったろう。

 私共がだんだん廠舎に近づいたとき、道のそばの小高いところに支那服のようなものを着た人が、太陽を背中にして直立し、逆行線に浮かび上っているのに気づいたのであった。その人は姿勢を正しく、いつまでも聯隊の行軍を見守っていたのが印象的であったし、山田野は中々地方人
〔軍隊用語で、軍人軍属以外の者のこと―――ギトン注〕などの来るところでもないので特に私共の注目を浴びたのでもあった。」
宮沢清六『兄のトランク』,ちくま文庫,p.29.



「一人の奇妙な姿の男が立っていた。たそがれどきだった。奇妙な――といったのは、支那服のような、作業服のような、なんとも不思議ないでたちで、しかも全身泥まみれの姿だったからだ。

 
〔…〕宮沢清六さんは、近づいたそのシルエットが、まさか兄貴だとは、そのときは思いもよらなかったという。」
宮城一男『宮沢賢治との旅』,p.40.



「帰営して銃や何かの手入れを終えたころ、私に面会人だというので急いで行って見ると、兄が満面に笑いを浮かべて衛兵所のそばに居たのである。そこで私は先刻途中で立っていた人が兄であったことに気付いたのであるが、支那服と見えたのは実は黒い折襟の服で、それは繻子でダブダブに仕立てた変なものであった。」

宮沢清六『兄のトランク』,p.30.






 遠目にチャイナドレスのように見えた「繻子(しゅす)でダブダブに仕立てた」「黒い折襟(おりえり)の服」とは、『春と修羅』にも出てくる「えりをりのシヤツ」↓ではないかと思います。


「     
〔…〕

 なぜならいまこのちひさなアカシヤをとつたあとで
 わたくしは鄭重にかがんでそれに唇をあてる
 えりをりのシヤツやぼろぼろの上着をきて
 企らむやうに肩をはりながら
 そつちをぬすみみてゐれば
 ひじやうな悪漢
(わるもの)にもみえようが
 わたくしはゆるされるとおもふ」


『春と修羅(第1集)』「過去情炎」より。



 この種のダブダブの服は、当時ロシア風に「ルパシカ」などと呼ばれ、文人気取りの若者のあいだでたいへんはやっていました。中原中也も愛用しています。

 賢治は、東京でこの風俗を見たか、東京から来た“今風”青年の姿を岩手の駅で見たかして、真似をしたのだと思います。(⇒:『春と修羅・第1集補遺』「厨川停車場」



∇ 本記事はこちら⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 【83】過去情炎


∇ 参考画像⇒:【しゅすのマント】


∇ 参考画像(サテンのマント)⇒:【カオリン】


∇ 本記事はこちら⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 【33】厨川停車場







山田野 
バス停「山田野」付近
演習場跡「廠舎」近くの丘

現在は畑やリンゴ園になっていますが、
ここも広大な演習場敷地の中です。
「廠舎」は丘の向う側にありました。

賢治が、弟たちが演習から帰って来るのを
見ていたのは、このあたりの丘と思われます。
清六氏の手記に「太陽を背中にして」とある
ので、丘を西に見る位置から撮しました。









山田野演習場・跡(地図)



 さて、このへんで、現地の「山田野演習場」跡について説明しておきたいと思います。

 現地踏査に当たって、↓こちらのサイトの周到な基礎調査の成果を利用させていただきました。記して御礼申し上げます。


【参考】⇒:旧陸軍第8師団山田野演習場(1)/津軽森林鉄道

【参考】⇒:旧陸軍第8師団山田野演習場(2)/津軽森林鉄道

【参考】⇒:旧陸軍第8師団山田野演習場(3)/津軽森林鉄道



 上記のサイトで詳しく解説されているように、演習場の跡地は、現在では開拓農村として生まれ変わっており、将校宿舎と兵舎の一部などがわずかに残っているにすぎません。また、観光地として保存・公開されているわけではないので、残されている遺構を、現地でそれと視認するのも容易ではありません。

 当然のことながら一帯はすべて私有地であり、日曜でも地元の方が農作業等しておられます。もし現地に行かれる場合には、多人数での“見学”等は絶対におやめください。また、遺構は倉庫などとして現役で使用されています。お仕事の邪魔にならぬよう、気をつけて距離をおいて見ていただくようにお願いします。



 さて、旧日本軍での用語例から見ますと、「廠舎(しょうしゃ)」とは、演習場や駐在地のなかで、宿舎などの建物が集まっている部分のことを云うようです。

 おそらくほかの場所でも同様だったと思いますが、ここ山田野演習場の「廠舎」は、土塁(土手)で囲まれた四角い敷地の中に、12棟の兵舎、数棟の将校用宿舎、正門、衛兵所、酒保(酒食を売る購買施設)、井戸などが設置されていました。

 演習場は、「廠舎」の南側に広大に拡がっていました。

 現在、現地で見られる遺構は、12棟あった兵舎のうち「9号兵舎」などの一部、将校用宿舎の一部、衛兵所、井戸、囲い土塁の一部などです。







山田野演習場 
将校宿舎
戦後は民家として使われましたが、
現在は人が住んでいないようです。




山田野演習場 
「9号兵舎」
遠くから全景を見ると、このように、
たいへん細長い建物です。1棟に
200名を収容するこのような兵舎が
かつては 12棟並んでいました。




山田野演習場 
南側の土塁跡
「廠舎」を取り囲んでいた土塁は、大部分が崩れて
平らになってしまっています。このあたりでは
中央を路で切られた以外は、土塁の形が
残っています。土塁の上には、ヒノキなどが
植栽されています。




山田野演習場 
「廠舎」正門跡
ここが正門のあった位置です。
ヤブが生い茂っていてよく見えませんが、
木立ちの下にある土塁が、ここだけ切れて
いるので、正門通路のあったことが判ります。
深い草藪の奥に、衛兵所の屋根が見えます。




山田野演習場 
衛兵所
正門跡の奥に、衛兵所の廃屋が残っています。






「私は懐しいやら可笑しいやらで『やあ。』と云って頭を下げ、兄もうれしそうに『やあ。』と麦藁帽子を取った。それから私共は松の樹が黒く影をつくっている衛兵所の近くの芝生で、酒保で売っているピーナッツやぱんをたべ、贋物の安葡萄酒をのみながら夕方まで話し合ったのであった。――兄がこんな辺鄙なところまで突然来てくれたのは、私の手紙が中々届かなかったので、病気で参っているのではないかと思ってわざわざ学校を休んで会いに来てくれたのであった。

 思ったより私が元気で、まっ黒になっているので大変喜んでくれたが、兄もまたこの時は大変な意気込みで、最近は童話も詩もどんどん書いているし、学校の方など色々面白いことも沢山あるし、これからやらなければならないことも山ほどあるから、君も帰って来たら大いにやろうという風なことを談したのであった。

      
〔…〕

 太陽が赤く大きく揺れながら西の山に落ちるまで、兄はこれからやらねばならない沢山の企画を聞かせてくれたし、私は私なりにこの時に思っていた将来への考えを述べたのであった。」

宮沢清六『兄のトランク』,pp.30-31.




〔…〕先頃は走ってやっと汽車に間に合ひました。

 あの夕方の黒松の生えた営庭の草原で、ほかの面会人たちが重箱を開いて笑ったりするのを楽しく眺め、われわれもうすく濁った赤酒を呑み、柔らかな風を味ひうるんだ雲を見ながら何となく談してゐた寂かな愉悦はいまだに頭から離れません。

 いろいろな暗い思想を太陽の下でみんな汗といっしょに昇華さしたそのあとの楽しさはわたくしもまた知っています。われわれは楽しく正しく進まうではありませんか。苦痛を享楽できる人はほんたうの詩人です。もし風や光のなかに自分を忘れ世界がじぶんの庭になり、あるひは惚として銀河系全体をひとりのじぶんだと感ずるときはたのしいことではありませんか。もし四月まで居るやうならもいちどきっと訪ねて行きます。

   九月廿一日」

宮沢賢治書簡 1925年9月21日付 宮澤清六宛て。



「正門を入ってすぐの右手に、黒松林があった。みごとの林で、なかには樹齢がゆうに百年をこえるとおもわれる老木も少なくない。
〔…〕

 酒保の建物はこわされてなくなっていたが、この黒松林にほど近い位置にあったという。そして 300メートルほど先には、旧兵舎の一棟がのこっていた。なかは暗い。ここに、粗末な木製のベットが並べられ、兵にとっては、軍律きびしい日夜が展開していたのである。その苦労話を、清六さんは兄貴におもい切りぶつけたという。話ははずむ。五能線の終列車の時間がせまった。

 『裏門からでて、まっすぐの道をゆけば、鳴沢駅にでる』と弟さんに教えられた賢治はその道を走る。黒松の原生林の枝葉が、夜風に鳴ったことだろう。沼に浮かぶすいれんやジュンサイの葉が、夜霧に光ったことだろう。やがて、鳴沢駅の灯がみえた。」

宮城一男『宮沢賢治との旅』,pp.45-46.






山田野演習場 
演習場跡から鳴沢駅へ
途中には、このような沼地がいくつもあります。
木立ちの間に岩木山が見える。




山田野演習場 
演習場跡から鳴沢駅へ
電柱列の下が、鳴沢駅へ向かう道。
右の線路は、五能線。






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