弘 前(1)




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弘前城と師団跡






 宮沢賢治の足跡は、津軽にもあります。1925年、兵役で弘前の第8師団に入営していた弟・清六の慰問のため、賢治は何度か弘前の地を訪ねているのです。





弘前城 
本丸・天守閣と岩木山
現存の本丸天守は、櫓の改築という名目で
1811年に建てられたもの。幕府の追及を避ける
ために「天守」と呼ばず「三階櫓」と呼んだ。

盛岡城の天守が明治初年に取り壊されているのとは
対照的に、弘前城は廃藩時の遺構がほぼそのまま
残されています。市の手入れも行き届いており、
現在の盛岡城址では見られない大正時代の城跡の
ようすを、ここで偲ぶことができると思いました。






 弘前には、陸軍第8師団が所在していました。岩手県から徴兵された兵役服務者は、第8師団歩兵第31連隊に所属して訓練を受けるならわしでした。

 宮沢賢治自身は、幸か不幸か、胸の持病のために徴兵検査で不合格となりましたが、弟の清六は、1924年11月に徴集され、弘前に入営しました。

 賢治は、翌1925年4,6,9月の3回、弘前を訪れて弟に面会しています。






「お変りはありませんか。

 次の十九日の日曜にそちらへ訪ねて行きたいと思ひますが都合はどうでせうか。もしよかったら訪ねて行く時間場所或は着車時間等ご返事下さい。並びに必要の金員品ものなどご報をねがひます。まづは用件だけ

 余はお会ひの上申します。

  四月十一日

 清六様

賢治」
宮沢賢治書簡 1925年4月11日付 宮澤清六宛て。





「お手紙拝見いたしました。

 今週土曜(廿日)当地十時五十分発でそちらへ参ります もし出られるならその晩八時停車場へ来て下さい。けれども多分遅くてだめでせうからそのときは日曜朝八時頃隊へ行きますから出ないで待ってゐて貰ひます

 そちらの都合で日曜一杯或は月曜朝まで居てもいゝつもりです。世話になる方たちへ蓴菜でももって行きませう 去年旱魃のためできないといふ話もあります。

 いろいろ会ってお話します。

  六月十八日」

宮沢賢治書簡 1925年6月18日付 宮澤清六宛て。



 賢治が弟を訪ねた師団駐屯地は、弘前市の南郊に広がっていました。現在、自衛隊の駐屯地があるのとは別の場所です。

 師団司令部の跡地は弘前大学農学部になり、衛戍病院は国立弘前病院になっています。現存する建物は「偕行社」(将校用の娯楽施設)と師団長官舎だけです。

 第31連隊の入口の門は、自衛隊敷地内に移設されて保存されているそうです。

 なお、蓴菜(ジュンサイ)は、花巻の宮澤家別宅(のちの羅須地人協会)と獅子ヶ鼻の間にある湿地帯が産地でした↓


∇ 参考記事⇒:
【じゅんさい】







師団司令部・跡 
弘前大学農学生物科学部




旧「師団通り」






 陸軍は、
「明治31年[1898年]には12個師団制となり、歩兵第4旅団(弘前)および歩兵第16旅団(秋田)からなる第8師団が、弘前に設置されることになった。

      
〔…〕

 第8師団司令部は、現在の弘前大学農学生命科学部がある敷地に置かれ、通りは「師団通り」と呼ばれた。
〔…〕

 第8師団の施設は、弘前市の南郊と、それに続く中津軽郡清水村富田地区から千(ち)年(とせ)村にかけて設営された。地区と市街を結ぶ道路は拡幅され、田畑であった富田地区は一大兵営と化した。
〔…〕商店も繁盛し、富田大通りや銀座街に、軍人相手のカフェーが立ち並んだ。秋田・山形・岩手から軍人の家族が休日面会に訪れ、市内の旅館は満員状態となった。

      
〔…〕

 明治35年[1902年]1月、日露戦争を想定した雪中行軍が、八甲田山中で行われた。弘前の第4旅団を構成する歩兵第5連隊(青森)と歩兵第31連隊(弘前)によって実施されたが、199名の犠牲者を出した第5連隊の惨事は、あまりにも有名である。

 明治38年[1905年]1月の黒溝台会戦で第8師団は活躍し、ロシア軍総退却のきっかけを作って『国宝師団』と賞賛された。また、大正11年(1922年)には、ロシア革命に伴うシベリア出兵のため、ウラジオストクに派遣された。さらに、太平洋戦争では中国大陸に派遣されたが、後にフィリピンのルソン島に転用され、壊滅した。」




 弘前の第8師団は、あの多大な犠牲者を出した八甲田雪中行軍事件や黒溝台戦闘を行なった軍隊でした。黒溝台戦闘も、たとえ戦果を挙げて賞讃されたとは云っても、あまりにも多くの犠牲者を出した無謀な戦闘であったことは否定できないのです。宮沢賢治は、この悲惨そのものの作戦を描いた戯曲「黒溝台」の構想メモを残しています。賢治がもう少し長く生きていたら、この反戦的な作品も執筆され、いつかは陽の目を見たことでしょう。







旧・師団長官舎

師団の駐屯施設の中で、唯一、弘前の
中心部にありました。現在残っている建物は、
もとの官舎の約3分の1の部分だそうで、
場所も 100mほど移動しています。現在は
弘前市の所有で、スタバの店舗に貸し出しています。









 さて、賢治から入営中の清六に宛てた3通目の手紙↓は、やや調子が変っています。家族みなで清六の安否を気遣っているようすが伝わってきます。



「手紙を見た。何と云っても暑くてずゐぶんひどいだらう。みんなには折角安心するやうにはなしてゐるけれどもおれもかなり心配してゐる。それでも人にはめいめいのもってゐる徳があってさうめちやめちやにひどい目に会ふまいとも思ふ。も少しのところだ。ひどいだらうがしっかりやってくれ。今年は志願兵も多いのだし十一月には帰れないだらうか。

 こっちは愉快な仕事がうんとある。大いに二人でやらうでないか。おれたちには力はあるし慾はない。うまく行っても行かなくてもたのしく稼がうではないか。

 工兵も騎兵も来てゐる。ずゐぶんひどさうだ。平安を祈る。

  大正十四年七月廿五日日」

宮沢賢治書簡 1925年7月25日付 宮澤清六宛て。



 おそらく、清六氏からの手紙がそれまでになく短かったか、暑さの中での訓練に憔悴して元気のないようすが読みとれたかしたのでしょう。

 「工兵も騎兵も来てゐる。」は、花巻にも陸軍の部隊が訓練の途上立ち寄っていたので、暑さにやられた兵士のようすを目近に見ているということ。岩手山麓に騎兵連隊の駐屯地があり、花巻の宮澤家別宅近くには工兵隊の廠舎がありました↓


∇ 参考記事(工兵隊廠舎跡)⇒:
【ハームキヤ(5)】






 しかし、この手紙に対する清六氏の返事は、なかなか届かなかったようです。2か月近くたっても返事がなかったため、賢治は前の2回のように予告の通知を出す手間も惜しんで、学校の勤務を休んで弘前へ出かけたのでした。9月半ばのことでした。

 ところが、賢治が連隊を訪ねてみると、清六はそこにはおらず、「山田野」の演習場へ出かけているということでした。






岩木山 
「山田野演習場」兵舎跡地から。




「わが津軽のシンボル岩木山の北麓にある鯵ヶ沢町の山田野には、そのむかし、弘前歩兵第31連隊の演習地があって、幾棟かの兵舎もたてられていたという。

 この付近一帯の地形は複雑である。まず、“十腰内小丘群”とよばれている、標高70〜120メートルのマンジュウのような形の山がいくつかある。岩木山の火山活動がつくった山々である。つぎに、その小丘群の間をぬうように、湯舟川や湯沢川が流れている。
〔…〕そして、小さな湖沼もたくさん散らばっている。〔…〕〔ギトン註――森林の乏しい原野になっているのは〕むかし温泉が湧き出していたにちがいない。いまは、まわりが湿地帯だ。

 このように、山田野の、いわば“山あり、谷あり、川あり、沼あり”といった変化に富んだ地形が、演習地としては、もってこいの場所だったのだろう。」

宮城一男『宮沢賢治との旅』,pp.39-42.



「岩手県から入営した歩兵は弘前の31聯隊に入ることになっていて、毎年何回かこの山田野という荒寥とした野原で烈しい訓練を受けるのが例であった。そこには地獄谷とか待命森とか特種の軍の用語でなづけられた変化のある地形もあって、この野原で兵隊は毎日疎開し分散し、早馳けで前進し、匍匐して突撃したりして、体力の限りを尽して一日が終るのであった。

 私はそのころ上等兵でこの山田野に居たのであった。兄が農学校につとめていた大正14年のことである。

 
〔…〕私共の同期生20名は幹部候補生に切替えられる直前の一年志願兵で、同期生中には〔…〕軍を好まないものや兵隊に適さないものもあって、(私もたしかにその一人であったのだが)それまでに病死したり落伍したりした人もあった。

      
〔…〕

 それは9月の半ば頃のことで、まだ暑さが烈しく、野原は連日焼けるようであった。私は数日前から下痢をして身体も弱っていたが、聯隊の検閲も間近いときでもあったので無理して演習に出ていたのであった。

 
〔…〕――兄がこんな辺鄙なところまで突然来てくれたのは、私の手紙が中々届かなかったので、病気で参っているのではないかと思ってわざわざ学校を休んで会いに来てくれたのであった。」
宮沢清六『兄のトランク』,pp.28-30.



 戦前の日本軍の兵役には「志願兵」という制度がありました。徴兵検査に合格した後で、一定の金額を軍に献上すると、「志願兵」として入営期間が短くなり、最初から上等兵として待遇され、入営期間の終りには幹部候補生として下士官への道も開かれる、除隊後は在郷軍人会で重きを置かれる、青年訓練所などへの就職の便宜もあるなど、数々の特典が与えられたのです。

 それでもここに清六氏が書いているように、「志願兵」であるのに訓練に耐えられず病死する人が跡を絶ちませんでしたし、たまたま平時だからよかったものの、満洲事変後であれば、まっさきに戦地に送られるおそれもありました。まして、献上金を用意する資力のない通常の兵役者の場合には、内務班での奴隷的虐待など、より苛酷な待遇を受けていたのです。

 賢治が弟の安否を気遣って、勤務を休んでまで会いに行ったのは、けっして大げさなことではなかったのです。







山田野演習場

現在も残る「9号兵舎」の一部

次回お目にかけますが、兵舎は長さ68メートルの
細長い建物が12棟並んでいました。1棟に約200
名収容。この兵舎も、写真に映っているのは
全体の長さの5分の1以下の部分です。

一緒に訓練を受けていた兵役者(現役徴集兵)の中で
「志願兵」20名というのは、ほんとうにごく一部の
“上流階級”だったことがわかります。




山田野演習場

「廠舎」正門跡から演習場跡地を望む

戦後の開拓で耕地がひらかれ、起伏も均されて
いますが、遠方に丘や木立ちが残っています。
演習場は、この遠くの丘のずっと向うにまで
5000ヘクタールを超える広大なもので、
当時はすべて原野でした。






∇ つぎの記事⇒:弘 前(2)




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