青 森(3)




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青函連絡船





 1988年に青函トンネルが開通するまでは、青森と函館の間は連絡船航路がつないでいました。

 宮沢賢治は、生涯に3度、北海道方面への旅行のために、ここを往復しています。







青森駅 
連絡船埠頭と引き込み線
矢印のところに連絡船が接岸して、レールをつなぎ、
列車を直接船の中に受け入れていました。

引き込み線の線路と岸壁が、
現在もそのまま保存されています。




青函連絡船 
八甲田丸(青森港)
「メモリアルシップ」として、
青森港に係留されています。




青函連絡船 
摩周丸と着岸岸壁(函館港)
函館港に、着岸してレールをつないだ状態で係留されています。
船の中は、「函館市青函連絡船記念館」。



 このように、青函連絡船と言えば、引き込み線の線路と連絡船の中のレールをつないで、鉄道列車が乗客や貨物を乗せたまま直接、船の中に乗り入れる方式を思い浮かべるのですが、青函連絡船が客車を含めてこのような車両航送を開始したのは、1925年のことでした。

 宮沢賢治が青函航路を往復したのは、@1913年5月 中学5年の北海道修学旅行、A1923年8月 農学校生徒の就職あっせんのためサハリン旅行、B1924年5月 生徒を引率して北海道修学旅行、の3回です。つまり、賢治は、わずかの差で、車両航送の連絡船は体験できなかったことになります。

 賢治が往復した当時の連絡船は、どうなっていたかというと、まず、@の中学校修学旅行の時には、青森港、函館港、ともにハシケによる乗下船でした。連絡船のような吃水の深い大型汽船は、港に着岸することができませんでした!! 港の沖(防波堤の外側!)に停泊し、乗船客はハシケに乗って沖まで行かなければなりませんでした。貨物も、貨物用のハシケで運んだのです。函館に着いて下船する時も同じです。

 A1923年のサハリン旅行の時も、青森港はやはりハシケでしたが、函館港には、先端に大型汽船が着岸できる長い桟橋ができ、しかも線路を函館駅から桟橋上に延ばして「函館桟橋駅」を造ったので、乗客は、連絡船から降りてすぐに函館本線の列車に乗れるようになっていました。

 B1924年の修学旅行引率の時には、青森・函館ともに、連絡船の着岸岸壁はほぼ完成していたのですが、レールをつなぐ設備や可動橋を建設している段階で、車両航送まではあと一歩でした。したがって、まだ客車に乗ったまま船に乗ることはできませんでしたが、ハシケの必要はなく、青森駅で列車を降りて、建設工事中の鉄道桟橋から徒歩で乗船したと思われます。

 青森駅のプラットホームから桟橋へ直接行く通路ができたのも、翌年のことでしたから、賢治と生徒たちは、いったん改札を出て、駅の外から桟橋へ向かったことになります。
(以上、「青函連絡船記念館」の展示説明と、Wikipedia による)

 そういうわけで、Bの旅行を書いた『或る農学生の日誌』でも、青森駅ではいったん下車して、待合室の蕎麦屋や駅の外のリンゴ売りのようすを見ているわけです↓


∇ 関連記事⇒:青森(2)







連絡船・田村丸(下)と
旅客乗下船用の小型艇・はしけ(上) 
函館市青函連絡船記念館

1924年に鉄道車両の航送が開始されるまでは、
乗客はいったん列車から降りて、
小型艇の牽引するハシケで、沖に停泊している
連絡船まで行かなければなりませんでした。








「五月十九日

      
〔…〕

      *

船はいま黒い煙を青森の方へ長くひいて下北半島と津軽半島の間を通って海峡へ出るところだ。みんなは校歌をうたっている。けむりの影は波にうつって黒い鏡のようだ。

津軽半島の方はまるで学校にある広重の絵のようだ。山の谷がみんな海まで来ているのだ。そして海岸にわずかの砂浜があってそこには巨きな黒松の並木のある街道が通っている。少し大きな谷には小さな家が二、三十も建っていてそこの浜には五、六そうの舟もある。

さっきから見えていた白い燈台はすぐそこだ。ぼくは船が横を通る間にだまってすっかり見てやろう。絵が上手だといいんだけれども僕は絵は描けないから覚えて行ってみんな話すのだ。風は寒いけれどもいい天気だ。僕は少しも船に酔わない。ほかにも誰も酔ったものはない。

      *」


宮沢賢治『或る農学生の日誌』より。
(原文は旧仮名遣い) 



「津軽半島沿いに北上する連絡船。その津軽半島は『広重の絵』のような風情だという。じっさい、光があたって白くつづく道路と町なみの上におおいかぶさるような山々の緑と、さらにその上に重なる青い連山の風景は、まさに一ぷくの名画のそれにふさわしかった。」

宮城一男『宮沢賢治との旅』,p.33.



 残念ながら、ギトンの訪れた日は台風が近づいている時で、モノクロームの暗い風景しか撮せませんでしたが、この海峡は、天候次第で極端に表情が変わる場所のようでした。

 次回は、津軽半島側の陸路をたどって、「白い燈台」など色彩のある風景を撮影したいと思います。







青函フェリー 
青森湾に尾を引く航跡
賢治はこれを、化学実験の「砒素鏡」(マーシュ・テスト)に喩えました↓



∇ 関連記事(砒素鏡)⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 7.2.2〜

∇ 参考記事⇒:【砒素鏡】






 夏の稀薄から却って玉髄の雲が凍える
 亜鉛張りの浪は白光の水平線から続き
 新らしく潮で洗ったチークの甲板の上を
 みんなはぞろぞろ行ったり来たりする。
 中学校の四年生のあのときの旅ならば
 けむりは砒素鏡の影を波につくり
 うしろへまっすぐに流れて行った。
 今日はかもめが一疋も見えない。

  (天候のためでなければ食物のため、
   じっさいべーリング海峡の氷は
   今年はまだみんな融け切らず
   寒流はぢきその辺まで来てゐるのだ。)

 向ふの山が鼠いろに大へん沈んで暗いのに
 水はあんまりまっ白に湛え
 小さな黒い漁船さへ動いてゐる。

 (あんまり視野が明る過ぎる
  その中の一つのブラウン氏運動だ。)

 いままではおまへたち尖ったパナマ帽や
 硬い麦稈のぞろぞろデックを歩く仲間と
 苹果を食ったり遺伝のはなしをしたりしたが
 いつまでもそんなお付き合ひはしてゐられない。
 さあいま帆綱はぴんと張り
 波は深い伯林青に変り
 岬の白い燈台には
 うすれ日や微かな虹といっしょに
 ほかの方処系統からの信号も下りてゐる。
 どこで鳴る呼子の声だ、
 私はいま心象の気圏の底、
 津軽海峡を渡って行く。
 船はかすかに左右にゆれ
 鉛筆の影はすみやかに動き
 日光は音なく注いでゐる。
 それらの三羽のうみがらす
 そのなき声は波にまぎれ
 そのはゞたきはひかりに消され

   (燈台はもう空の網でめちゃめちゃだ。)


『春と修羅・第1集補遺』 1923.8.1.「津軽海峡」



       ※

 うみすゞめ
 つどひめぐりて
 あかつきの
 青き魚とる 雲垂れ落つを

       ※

 うちゆらぐ
 波の砒素鏡つくりつゝ
 くろけむりはきて船や行くらん。


宮沢賢治『歌稿B』#752-753.



      水の結婚

 東には黒い乱積雲の椀ができて
 古びた緑青いろの半島が
 ひるの寂寥をたたえてゐる
 その突端と青い島とのさけめから
 ひとつの漁船がまばゆく尖って現はれる
 波は潜まりやきらびやかな点々や
 反覆される四部輪唱の水平や

   ……面映ゆい数々の正反射……

 あるひは海蒼と銀との縞を織り
 また錫病と伯林青
(プルシヤンブルー)
 水がその七いろの衣裳をかへて
 ひとびとに誇ってゐるときに

   ……東邦風のあかるく喧澄な結婚式……

 けむりはながれ
 水脉はさびしい砒素鏡になる


 わたくしは南に一つの天の氷河を見
 また竜巻の渦巻く黒い尾をのぞむ


『春と修羅・第2集』#116, 1924.5,19.「津軽海峡」〔下書稿(一)〕






 「古びた緑青いろの半島‥‥/その突端と青い島とのさけめから/ひとつの漁船がまばゆく尖って現はれる」とありますが、これは青函連絡船から見た夏泊半島ではないかと思います。たしかに、夏泊半島の先端にある陸繋島「大島」が、現在のフェリーからもよく見えます↓




青函フェリー
から。 夏泊半島

半島の先端に大島が見えます。







青函フェリー
から。 下北半島
下北半島の先端は、切り立った崖が海に迫っています。




青函フェリー
から。 津軽半島

たしかに、「白い灯台」が見えます。
平館
(たいらだて)灯台と思われます。






∇ 関連記事⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜【64】津軽海峡



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