ハームキヤ(14)




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花巻市内の宮沢賢治関係箇所




 宮沢賢治は詩や童話の中で、花巻を「ハーナムキヤ」「ハームキヤ」「ハームキャ」「ヒームキヤ」などと呼んでいました。









アイヌ塚と巨杉






 花巻西郊の「延命寺」は、農学校の賢治の教え子・桜羽場寛の家で、古い歴史をもつ「5本杉」があり、口語詩「巨杉」の舞台でもあります。

 去年訪問した時は、どしゃぶりの雨だったので、写真もよく映らず、賢治詩碑も見逃していました。今回は「延命寺」をリベンジしてから、その数百メートル西にある「アイヌ塚」を訪ねます。



∇ 関連記事⇒:
ハームキヤ(7)









地図(花巻西郊)





延命寺 
鳥居と、地蔵堂(奥)
鳥居には、珍しい三角形の額がかかり、
「地蔵尊」とあります。

天台宗のお寺(現在は修験宗)なのですが、地蔵堂が中心で、
入口には鳥居があります。また、代々住職を務める桜羽場家は、
僧侶でなくともこの“寺”の住職として認められた
特別の家柄なのだそうです。







延命寺 
「5本杉」

去年の記事↑に書きましたが、
現在残っているこれらの杉の高木は
寺伝の“3本の巨杉”ではありません。
しかし、賢治の時代にはすでに
立っていたと思われますから、賢治の言う
“5本杉”または“4本杉”は、これらを
含んでいるのでしょう。




延命寺 
宮沢賢治詩碑



     巨 杉

 地蔵堂の五本の巨杉
(すぎ)
 まばゆい春の空気の海に
 もくもくもくもく盛りあがるのは
 古い怪
(け)性の青唐獅子の一族が
 ここで誰かの呪文を食って
 仏法守護を命ぜられたといふかたち

    ……地獄のまっ黒けの花椰菜め!
      そらをひっかく鉄の箒め!……

 地蔵堂のこっちに続き
 さくらもしだれの柳も匝
(めぐ)
 風にひなびた天台寺
(でら)
 悧発で純な三年生の寛の家
 寛がいまより小さなとき
 鉛いろした障子だの
 鐘のかたちの飾り窓
 そこらあたりで遊んでゐて
 あの青ぐろい巨きなものを
 はっきり樹だとおもったらうか

『春と修羅・第2集』,#520,1925.4.18.
〔地蔵堂の五本の巨杉が〕〔定稿〕より抜粋。
現地詩碑に刻まれている部分。












熊野神社 
鳥居と拝殿

熊野神社は、延命寺から歩いて5分ほどですが、
これまた古い歴史のある郷社です。

しかし、宮沢賢治と関係があるのは、神社の境内
にある「熊堂古墳群」です。




熊野神社 
熊堂古墳群
土饅頭のような小型の円墳が十数基集まっています。
江戸時代までは 49基あったそうですが、天保年間に
開墾のために潰されてしまい、現在はこの数だけが
残っています。

地元では「アイヌ塚」と呼んでいました。おそらく宮沢賢治も、
「アイヌ塚」という呼び名から、古い時代には東北にも住んで
いたアイヌ(エゾ)の墓だと信じていたでしょう。

しかし、最近発掘された結果、これらは8世紀(奈良時代)の
エミシの首長墓と判明しました。エミシとは、エゾのなかでも、
ヤマト朝廷に服属し、朝廷の権威によって東北を支配していた
有力者層のことです。古墳群の副葬品には、ヤマト文化の象徴
である勾玉や、ヤマトで鋳造された銅貨「和銅開寶」が含まれ
ていました。




熊堂古墳群 
発掘された石室
黄色枠内は出土した副葬品。



「熊堂古墳群は、8世紀頃、現在の上根子地域に拠点を置いていた『蝦夷
(えみし)』の墓と考えられており、発掘調査で熊野神社の境内を中心に10数基が確認されています。小山状の墳丘は直径約10メートル・高さ1.5メートル、周囲が円形の溝で囲まれており、中央部に川原石を積んだ石室があって、そこに棺が納められていました。副葬品は、勾玉・切子玉などの玉類、蕨手刀などの刀剣類、長頸壺などの土器類、和銅開珎などで、この地域に朝廷の勢力が及んでいたことを示す資料と見られています。」
現地説明板(花巻市教育委員会)より。






 このように、「熊堂古墳群」は、現在では、純粋なアイヌないし縄文人の墓ではないことが判明していますが、賢治の時代まではアイヌの墓だと信じられていました。

 ↓下の口語詩は、賢治が農学校の生徒を引率して北海道へ修学旅行に行く前日の日付で書かれています。詩中の「鬼神」は、〔下書稿(二)〕では「アイヌ」に改められており、この詩は、「アイヌ塚」と、熊野神社の杉木立や沼の印象を書いたものだと言われています。





     石塚・

 日はトパースのかけらをそそぎ
 雲は酸敗してつめたくこごえ
 ひばりの群はそらいちめんに浮沈する
 一本の緑天蚕絨の杉の古木が
 南の風に奇矯な枝をそよがせてゐる
 その狂ほしい塊りや房の造形は
 表面立地や樹の変質によるけれども
 またそこに棲む古い鬼神の気癖を稟けて
 三つ並んだ樹陰の赤い石塚と共にいまわれわれの所感を外れた
        古い宙宇の投影である

   (わたくしはなぜ立ってゐるか
    立ってゐてはいけない
    鏡の面にひとりの鬼神ものぞいてゐる
              第一九頁)

 およそこのやうに巨大で黒緑な
 そんな樹神の集りを考へるなら
 わたくしは花巻一方里のあひだに
 その七箇所を数へ得る

『春と修羅・第2集』より 1924.5.18. #106
〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕〔下書稿(一)〕





∇ 関連記事⇒:100年たってようやく‥(12)


∇ 関連記事⇒:100年たってようやく‥(13)



 すでに、詳しいことは↑上の関連記事に書きましたが、「鏡の面」は沼の水面のことで、水面に映った作者自身の影、または杉の「樹神」を、「鬼神」と見ているようです。

 今回現地を訪れてみて、大きく衝撃を受けたことが2つあります。

 ひとつは、“沼”の大きさです。たしかに、神社の下に水面はありますが(↓写真参照)、沼というより池、池というより水たまりです。賢治の時代には、もっと大きかったかもしれませんが、それにしても――まわりの地形から考えて――沼というほどの大きさだったとは思えません。

 そこで、詩を改めて読んでみると、沼とも池とも言わず「鏡の面」と言っていることや、“沼”よりも水辺に聳え立つ杉の古木が風景の中心であることなど、池の狭さに対応した描写になっていると言えます。

 第2は、熊野神社の杉木立の鬱蒼と繁った暗い印象です。高い杉の密に生えた空間は、古墳群の上も覆っていて、周囲から隔絶した閉鎖的な世界を形づくっています。何か胸を絞めつけるような憂鬱な印象があって、熊野神社を離れて歩き出しても、しばらくはその暗い心象から脱出できないほどでした。〔下書稿(一)〕の「鬼神」とは、この暗澹たる心象世界の存在なのだと思いました。それは、古代のアイヌ(エゾ)の霊なのでしょうけれども、賢治が「鬼神」と呼んだのは、そう呼ぶ理由があったからなのです。

 しかし、その一方で、新たな謎も生じていしまいました。ひとつは、↑上の詩稿にある「三つ並んだ樹陰の赤い石塚」という表現です。標題も「石塚」です。現地にあるのは円墳であって、石塚ではありません。もちろん、赤い石などはありません。賢治が描いているのは、ほんとうにこの場所の風景なのでしょうか? これは大きな疑問です。

 もともとこの詩稿には、大きな問題が2つありました。括弧内の


「わたくしはなぜ立ってゐるか
 立ってゐてはいけない」


 という部分の意味。なぜ、立っていてはいけないのか?

 また、同じカッコ内の「第一九頁」とは、何の本の 19ページなのか? ↓こちらの関連記事で考えてみましたが、まだ疑問の解決には程遠いと言わなければなりません。


∇ 関連記事⇒:100年たってようやく‥(19)



 これらの謎は、現地へ行ってみても手がかりはなく、依然として謎のままです。







熊野神社 

神社の敷地のすぐ下(川岸の方向)にあります。
池というより、細長い水たまり。




熊野神社 

美観のためか、池の中で鯉を飼っていました。
賢治の時代には、いなかったでしょう。






∇ ひとつ前の記事⇒:ハームキヤ(13)




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