キオート(8)




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京都をエスペラントで「キオート」と言います。

京都での宮沢賢治の足跡をたどります。







山 科
(やましな)







旧東海道線、伏見稲荷と山科
(地図)




 前回、稲荷駅から出発して、伏見稲荷の奥から古い道をつたって山科に下りて来ました。期待の竹林にも遭遇できましたが、むかしはもっとあったのでしょうね。山科全体が、賢治たちの来たころには田畑と林地のモザイクだったのですから。

 古道の出口から旧・山科駅までは、ゆっくり歩いて 30分かかりません。賢治たちのグループは――もし来たとしたらですが――旧・山科駅のほうから歩いたかもしれません。



「八時宿を出で京津電車にて大津に向ふ。山科の辺を過ぐ。大石良雄に有名たり名所旧跡亦多し
〔…〕
     
 帰りは二途に別れた。吾々は電車で大津に其れから和船で疎水を下つた。

 
〔…〕有名なるインクライン南禅寺を見て宿に帰つたのが六時他の途を通つた一行も最早帰つて居つた。」
(「農学科第二学年修学旅行記」「二十六日(三木敏明執筆)」, in:『校友会会報』,第31号,1916年7月;『新校本全集』14巻・校異篇,pp.21-22.)



 「帰りは二途に別れた」うちの、疎水下りへ行かなかったグループが、山科の「大石良雄」旧跡を訪れたのではないかと、探索しているわけです。







旧東海道線・山科駅・跡 
山科区小野
名神高速道路高架下にあります。名神高速道路は、
旧東海道本線の軌道跡を利用して建設されました。



 旧東海道線の山科駅があった場所は、戦後にその線路敷を利用して名神高速道路を造った時に、最初に起工した場所だったそうで、↑高架の上に大々的に記念物(名神高速のマーク?)が建てられています。

 しかし、旧・山科駅もそれ自体、明治・大正期には有名だったんです。徳富蘆花の『不如帰
(ふじょき)』という、明治時代のベストセラー小説ですが、悲恋のヒーローとヒロインが、たまたま逆方向の列車に乗り合わせて、行き違いになってしまうという、たいへん有名になった名場面が、この駅を舞台に演じられています:





「山科に着きて、東行の列車に乗りぬ。上等室は他に人もなく、浪子は開ける窓のそばに、父はかなたに坐して新聞を広げつ。

 おりから煙を噴き地をとどろかして、神戸行きの列車は東より来たり、まさに出でんとするこなたの列車と相ならびたり。客車の戸を開閉
(あけたて)する音、プラットフォームの砂利踏みにじりて駅夫の『山科、山科』と叫び過ぐる声かなたに聞こゆるとともに、汽笛鳴りてこなたの列車はおもむろに動き初めぬ。開ける窓の下に坐して、浪子はそぞろに移り行くあなたの列車をながめつ。あたかもかの中等室の前に来し時、窓に頬杖つきたる洋装の男と顔見合わしたり。

 『まッあなた!』
 『おッ浪さん!』

 こは武男なりき。

 車は過ぎんとす。狂せるごとく、浪子は窓の外にのび上がりて、手に持てるすみれ色のハンケチを投げつけつ。

 『おあぶのうございますよ、お嬢様』

 幾は驚きてしかと浪子の袂を握りぬ。

 新聞手に持ちたるまま中将も立ち上がりて窓の外を望みたり。

 列車は五間
(けん)過ぎ――十間過ぎぬ。落つばかりのび上がりて、ふりかえりたる浪子は、武男が狂えるごとくかのハンケチを振りて、何か呼べるを見つ。

 たちまちレールは山角をめぐりぬ。両窓のほか青葉の山あるのみ。後ろに聞こゆる帛
(きぬ)を裂くごとき一声は、今しもかの列車が西に走れるならん。

 浪子は顔打ちおおいて、父の膝にうつむきたり。」


徳冨蘆花『不如帰』「八の二」より。





 1世紀前の恋愛小説はこんなものかというくらいまだるっこしいですが、汽車という当時は最先端の交通機関をうまく使った設定なのでしょう。

 とにかくベストセラーで、発表から 10年で再版が 100回を越えたと言いますから、賢治の同級生はみな、この小説を知っていたはずです。読んだことがなくても、あらすじは誰でも知っていたはずで、その山科駅で下りて、忠臣蔵の史跡を見るという趣向なら、希望者は多かった気がします。







極楽寺 
山科区西野山桜ノ馬場町
大石内蔵助が浅野内匠頭の位牌を納めたと伝えられる。







岩屋寺 
山科区西野山桜ノ馬場町
大石内蔵助住居跡に立つ「大石良雄君
隠棲旧址」碑(手前,1901年建立)
と十三重の塔




岩屋寺 
山科区西野山桜ノ馬場町
「忠」字池と大石良雄弁財天(池畔の祠。
大石内蔵助の遺作と伝える弁財天像を安置)。
奥の建物は、内蔵助隠棲住居の木材で建てた茶室。

岩屋寺は、内蔵助が討入り・切腹したあとの全財産を寄進
した寺で、内蔵助の遺髪塚、四十七士の木像など、さまざまな
遺品を納めています。内蔵助の木像といっしょに永代供養して
くれる納骨堂もあって、忠臣蔵ファンの執念にはあきれて‥、
いや圧倒されるほかはありませんね。

現在は、岩屋寺の隣りに大石神社というのもありますが、
こちらは賢治の時代にはまだ建てられていませんでした。







瑞光院 
山科区安朱堂ノ後町
1962年まで、上京区堀川鞍馬口にあった。
赤穂城主浅野家の祈願寺。浅野内匠頭切腹の翌年、
供養塔が建てられた。内匠頭の墓と四十六義士の
遺髪塔(大石の遺髪塚は岩谷寺↑)がある。

ほかの大石内蔵助史跡とは離れて
現・山科駅の北にあります。






 こうして、山科の地を歩いてみると、たしかに賢治たちがここを訪れた可能性、また、ここで「山しなのたけのこばた」を実際に見た可能性、いずれもありそうに思えてくるのですが、…

 ここでまた、『歌稿A』『歌稿B』それぞれの形を引用してみますと:



 山しなのたけのこやぶのそらわらひうすれ日にしてさびしかりけり

『歌稿A』#257.



      ※
 山しなの
 たけのこばたのうすれ日に
 そらわらひする
 商人のむれ

『歌稿B』#257.



∇ 参考記事⇒:キオート(2)



 『歌稿A』はいいとして、『歌稿B』の「そらわらひする/商人のむれ」‥これはいったい何なのか?

 タケノコ畑に商人が買い付けに来たとか、タケノコ畑の持主が京都の筍栽培は「儲かりまっせ!」と誇っているとか、タケノコ畑そのものに関係ある「商人」を考えやすいですが、これは“風景”なのですから、必ずしも関係がなくてもよいはずです。たまたまそこに、おおぜいの商人が通りかかったとか、近くで見たといったことでないと、「商人のむれ」というのは説明がつかない気がします。「群れ」と言うからには、数人程度では足りないでしょう。相当おおぜいいなければならないはずです……

 そこで閃いたのが、伏見稲荷大社の「千本鳥居」です。「商人のむれ」とは、「千本鳥居」を歩いている、おおぜいの参拝客ではないか?







伏見稲荷大社 
千本鳥居

朱塗りもあざやかな鳥居がぎっしりと立ち並んだ
風景は壮観です。こういう道が、上がったり
下がったり、稲荷山のてっぺんまで続いてるん
ですから、すさまじいです。




伏見稲荷大社 
千本鳥居

鳥居にはみな、会社やら商店やら、寄進者の名前が
書いてあって、それもほとんど全国各県から。
外国から来た人たちはびっくりしてるかもw



 もちろん、稲荷山に来る参拝の人が、みな「商人」なわけではありません。それは昔も同じだったでしょう。しかし、東北から出て来て、鳥居の贅沢さ、記名された商店の多さ、歩いても歩いても終ることのない厖大な御利益祈願の“群れ”に度肝を抜かれた賢治たちには、歩いている人がみな「商人」に見えたかもしれません。

 東北の純朴な人の観念では、神社と言えば、敬虔な村人たちの素朴な尊崇の場、また修験者の厳しい修行の場であったでしょう。ここは、それとはいささか趣きが違うかもしれません。商売繁盛の現世利益追求があからさまに唱えられ、商人の欲望が露骨に謳歌されています。当時は、酒に酔って哄笑しながら参道を闊歩する団体もあったかもしれません。そうした「千本鳥居」の印象が、この短歌の推敲の際に心象を形成したとは言えないでしょうか?‥

 賢治の参加したグループが伏見稲荷に来たという想像自体、どれだけ根拠があるやら心もとないですから、以上は、この短歌の可能な理解のひとつとして考えておきたいと思います。





∇ 次の記事⇒:キオート(9)

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