キオート(6)




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京都をエスペラントで「キオート」と言います。

京都での宮沢賢治の足跡をたどります。






伏見桃山




 1916年修学旅行の際の賢治短歌のうち、「山しなの/たけのこばた」の歌を詠んだ場所が宿題になっていました。いま、『歌稿A』から前後の歌とともに引用してみますと:



 日はめぐり幡はかゞやき紫宸殿たちばなの木ぞたわにみのれる


 山しなのたけのこやぶのそらわらひうすれ日にしてさびしかりけり


 たそがれの奈良の宿屋ののきちかくせまりよせたる銀鼠ぞら

『歌稿A』#256-258.



 つまり、詠んだ順に並んでいるとすれば、京都御所の紫宸殿を見学したあと、奈良に行くまでの間に詠んだことになります。

 つぎに『歌稿B』。#256,258 は『歌稿A』とほぼ同じなので、問題の #257番だけ引用します:



      ※
 山しなの
 たけのこばたのうすれ日に
 そらわらひする
 商人のむれ

『歌稿B』#257.



 この「そらわらひする/商人のむれ」が謎なのですが‥、初めの『歌稿A』の形は「たけのこやぶのそらわらひ」で、タケノコ畑じたいが「そら笑い」しているともとれるので、「商人のむれ」については、とりあえず気にしなくてもよいのでした:

∇ 参考記事⇒:キオート(2)






 そこで『修学旅行記』を見ますと、3月24日に、京都御所→二条城→桃山稜→京都府立農事試験場桃山分場→奈良 という順序で移動していることがわかります。この移動の間に「竹」が出て来る箇所を赤字で強調しますと:



「午前九時宿舎を出発し、電車の便を借り御所に向ひ、
〔…〕紫宸殿より順次拝観を終る。〔…〕十時四十分二条離宮を拝観した。次いで十一時を過ぐる頃七条橋を発し、桃山御陵に参拝、畏敬の念転た禁ずるを得なかつた。後京都府教育会紀伊郡部会学生団体休憩所に小憩し、昼食を済し、府立農事試験場桃山分場を参観した。本場は傾斜地にあつて、全面積は約五町歩、主に園芸に関することを試験して居つた。試験作物の主なるものは梨、桃、李、桜桃、柿、葡萄、等で〔…〕竹の更新法は前のと同様なる故省く〔…〕

 午後三時十三分桃山駅発の列車で奈良へと回つたが沿道車中より竹林、茶園は勿論水田の畦上に梨樹の栽培されて居るのを見た。」

(「農学科第二学年修学旅行記」「三月二十四日晴天(菅原俊男執筆)」, in:『校友会会報』,第31号,1916年7月;『新校本全集』14巻・校異篇,p.20.)



 どうやら、農事試験場と、そのあと奈良へ行く車窓の風景に「たけのこ畑」がありそうです。

 とはいえ、まずは桃山稜から、一行の道すじをたどってみたいと思います。



 「七条橋」から明治天皇桃山稜へ京阪電車で行くと、「伏見桃山」駅か「桃山南口」駅で下りて歩くことになります。どちらでもよいのですが、「桃山南口」駅から行ってみたいと思います。というのは、この駅が桃山稜にいちばん近いですし、なんと言っても正面・真下から仰ぐようにして陵墓へ上がって行くので、「畏敬の念」をたっぷり感じられるルートだからですw







桃山南口駅
から伏見桃山稜を望む。
正面の木の生えた丘が伏見桃山稜。




伏見桃山稜 
正面階段

「天子は南面して治める」と言いますからね。
紫宸殿だって、皇居の一般参賀だって、天子の座は
真南を向いてるんです。臣下は南から拝むんですョ


 それにしても急な階段ですね。一気に登ると脚が痛くなります。







伏見桃山稜 
墳墓
階段を登りきったところ。円墳が明治天皇のお墓。




伏見桃山稜 
鳥居前から南方の眺め。



 手入れの行き届いた紅葉の叢林に、雄大な平野の眺め‥‥帝王の墳墓としては言うことなしですが、見たところ、このへんには竹は生えていませんね。そこで、農事試験場・跡へ向かいます。









京都教育大付属桃山中学校

府立農事試験場桃山分場・跡
教育大付属中学校・小学校を含む広い範囲が
桃山分場の敷地でした。



桃山井伊掃部(ももやまいいかもん)
〔この場所の地名―――ギトン注〕

〔…〕

 明治37年には府立農業試験場桃山分場が設置され、果樹・蔬菜や草花も試作された。後に府立女子師範学校が洛北紫野よりここに移転されたのに伴い試験場は廃止された。戦後、学制の改革によって京都教育大附属桃山中学校・同小学校・同幼稚園が設置されている。
〔…〕
現地案内板説明文より。



 『修学旅行記』にあるように、ゆるやかな西向きの斜面で、竹木の栽培には良さそうです。現在は、学校の敷地とその周りの住宅地になってしまって、試験農場のおもかげはありませんが、ともかくここで「たけのこ畑」を見学したのはまちがえないでしょう。


「竹の更新法は前のと同様なる故省く」


 とありますが、「前の」とは、前日に桂の府立農林学校そばで篤農家の「たけのこ畑」を見学したことを指すのでしょう。桃山でも同様の解説があったことになります。

 そこで、「たけのこやぶのそらわらひ」の短歌が、なぜ前日でなく、この日におかれているのかが、なんとなくわかってきます。『歌稿A』を清書する時に、短歌のメモを記した手帳か何かを見て写しているのだとすると、タケノコ畑を1回見ただけでは歌にするほどの印象はなかったが、2度目ともなると印象が強くなって、1首浮かんで手帳に書きつけた―――ということだったかもしれません。

 手帳にメモった原形では、「商人のむれ」は出てこなかったでしょう。

 こうして、「たけのこやぶのそらわらひ」を詠んだ場所は桃山分場‥‥ということで解決か?と思いきや、まだ解決ではありません。どうして「山しな」なのかが未解決です。桃山と山科は、そんなに近くありません。『修学旅行記』に書かれているこの日のスケジュールで、山科まで足を延ばしている余裕があったとは思えないのです。

 『歌稿B』で、どうして「商人のむれ」が出てくるのかもわかりません。






 そこで、今度は、賢治たちが山科へ行った可能性のある 26日の足跡を追いかけてみる必要があるでしょう... 26日には、京都・三条の宿から、大津へ出かけていますが、帰路は二手に分かれています。そのうち、賢治が参加したほうのグループが、山科のほうへ行ったのではないか?‥という可能性です。

 ところで、ここでギトンは、たいへん大きなことを見落としていたことに気づきました!! それは、東海道線(在来線)のルートが、昔と今は違うということなのです。大津から京都までの東海道線のルートは、てっきり、昔も今も山科の北のはしをまっすぐに行くものとばかり思っていましたが、それは大きな間違いだったのですw




旧東海道線
(地図) 京都鉄道博物館

薄い色の線路は、1921年7月までの東海道線のルート。



 賢治たちが修学旅行で来た時には、↑このように、京都と大津の間でぐるっと南のほうを迂回していたのです。これは、京都東山の地質に問題があって、トンネルの掘削が容易でなかったせいなのだそうです。そこで、旧い山科駅は、現在の山科区役所よりも南にあり、さらに伏見稲荷大社のある稲荷山の南側を迂回して、現在は奈良線の稲荷駅を経由して真北に京都へ向かっていたわけです。

 そして、そういうことだとすると、「山しなの/たけのこばた」には行きやすくなるでしょう。たとえば旧・山科駅で降りれば、タケノコ畑のありそうな稲荷山東麓はすぐです。地図を見ると、「深草」という地名も近くにあります。「深草」と言えば、美しい竹林の風景で有名ですよね?

 あるいは、稲荷駅で降りて、山科のほうへ向かってもいいかもしれません。。。 そこでまた閃きました。たしか、伏見稲荷大社の奥から山科へ抜ける古道があるのを、思い出したのです。

 しかし、古道の探索は、回をあらためてやることにしたいと思います。








稲荷駅・ランプ小屋

旧東海道線の駅だった時代の建物。レンガ造りです。

「ランプ小屋」は、電燈になる前の時代に、
駅や客車の照明用ランプと燃料灯油を格納
した倉庫で、これは、現存するランプ小屋
のうち最古のものだそうです。





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