キオート(5)




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京都をエスペラントで「キオート」と言います。

京都での宮沢賢治の足跡をたどります。







東西本願寺







 賢治が学生として参加した 1916年の盛岡高等農林学校修学旅行、やはり京都駅に着いて最初の行き先は東西本願寺でした:



「午前四時九分京都七条駅に着いた、駅前の奉祝門は独り御大典当時の賑さを語つてゐる。先輩の山下川見両君は、遠路態々来り迎へられた、一同東本願寺及西本願寺を訪れ。桂橋側なる万甚楼へと急いだ。これより先西本願寺前にて、吾々を迎へれたる先輩佐藤氏は、熱心に種々御尽力の労を取られ、実に有難く御礼申し上ぐる次第である。」

(「農学科第二学年修学旅行記」「三月二十三日(原勝成執筆)」, in:『校友会会報』,第31号,1916年7月;『新校本全集』14巻・校異篇,p.19.)



 東西本願寺も、京都に行ったらウムを言わさず連れて行かれる“修学旅行名所”のひとつ(ふたつ)で、賢治たちも型通りを踏まされてるかんじですが、‥しかし、この2つの寺はどちらも、宮沢賢治とは深いつながりがあります。

 なので、1回分をついやして特集することにしました。








西本願寺 
阿弥陀堂門
内部の建物は阿弥陀堂。






 それにしても、2つあるのはまぎらわしい... 両派とも宮沢賢治に関連があるから、よけいまぎらわしい←

 ギトンもいままで、何度か両派を混同してました。。。 ので、↓まずは一覧表をw:



 本山   宗派  教育機関 主な人物
                イベント


西本願寺 本願寺派 龍谷大学 大谷光瑞 橘瑞超 島地大等
                西域探検隊の派遣

東本願寺 大谷派  真宗大学 近角常観 暁烏敏 多田鼎
                浩々洞の活動



 ↑「主な人物」と「イベント」は、宮沢賢治に関係するものだけ挙げました。「東本願寺」は通称で、正式名は「真宗本廟」。宗派名も正式には「浄土真宗本願寺派」と「真宗大谷派」です。もちろん両方とも浄土真宗。「真宗大学」は現在の大谷大学です。

 著名な法主
(ほっす)の大谷光瑞が大谷派でなく本願寺派だから、ますますまぎらわしいんですねw じつは、龍谷大学へおじゃまして、学外者向けの講座と実習(宗教関係ではありませんが)を受けたこともあるんですが、宗派の関係は全然知りませんでした←

 ということからもわかるように、本願寺派(西本願寺)のほうは宗教一辺倒ではなく、災害復興支援から、仏教美術、自然保護‥ などなど、じつに多種多彩な実践活動が盛んです。このあと見ていきますが、西本願寺自体も、国宝級の古い建築や美術品でいっぱいです。そうした多彩さは戦前からだったようで、宮沢賢治の生きていた時代には、法主・大谷光瑞のもとで3次にわたる西域(中央アジア,インド)探検隊↓とチベット留学僧を送り出しています:


∇ 参考記事(西域探検隊と橘瑞超)⇒:
《あ〜いえばこーゆー記》
【ユーラシア】グレイト・ゲーム(1)

∇ 参考記事⇒:《あ〜いえばこーゆー記》
【ユーラシア】グレイト・ゲーム(2)




 本願寺派の人物に挙げた島地大等
(しまじ・だいとう)は、盛岡・願教寺の住職ですが、東京帝大講師を兼任していて、華厳・天台教学の権威‥、宗派の枠を大きく超えた学識で知られていました。そういう人がいるのも、本願寺派らしいと言えます。その島地大等が編集発行した『和漢対照・妙法蓮華経』は、宮沢賢治を感動させて法華経に夢中にさせ、けっきょく賢治は浄土真宗から離れて日蓮宗に身を投じることとなりました。賢治が西域に関心を持って、『雁の童子』『インドラの網』などの“西域童話”を書くようになったのも、大等から本願寺派の西域探検隊(「大谷探検隊」とも呼ばれますが、大谷派ではありません!‥あぁまぎらわしい)のことを聞いたからだと言われています。



 これに対して、大谷派(東本願寺)のほうは、どちらかと言えばジミです。↓このあとお目にかけますが、東本願寺は幕末の大火で全焼したため、古い国宝級の建築物は残っていません。しかし、ジミと言っても随所に真新しい黄金の装飾が耀いており、重々しく荘厳‥、西本願寺の華やかさとは対照的です。

 両派のこうした印象の違いを手っ取り早く知るには、ホームページを一瞥するのがよいと思います:

 【参考】⇒:西本願寺・公式HP

 【参考】⇒:東本願寺・公式HP






 賢治の父・宮澤政次郎は、東本願寺(大谷派)に帰依していたという説があります。たとえば、直木賞受賞作『銀河鉄道の父』には↓つぎのように描かれています:



「鴨川にかかる五条大橋だった。政次郎は橋の上を西へ行き、市街へ入り、さらに五条通をまっすぐ行く。目的地は東本願寺。二十三歳の政次郎が、ほかのどんな宗派よりも、

 ――人間を、高めてくれる。

 と確信するところの浄土真宗のいっぽうの総本山にほかならなかった。

 東本願寺は、閉まっていた。

 時間が時間である。当然だろう。政次郎は巨大な壁のような門の前にたたずんで瞑目し、手を合わせた。
〔…〕
門井慶喜『銀河鉄道の父』,2017,講談社,p.11.



 しかし、ギトンはこれに疑問をもっています。門井氏も、政次郎の信仰は「浄土真宗」にあったとしており、東本願寺のほうをとりたてて信仰していたとは見ていないかもしれません。

 たしかに、当時の宮沢家の菩提寺は、真宗大谷派の安浄寺でした
(『定本・宮澤賢治語彙辞典』「日実上人」が「浄土宗」としているのは誤り)


∇ 関連記事(安浄寺)⇒:
ハームキヤ(10)



 また、政次郎はじめ、その世代の宮澤家の人々が親しく交流していたのは、もっぱら近角常観
(ちかずみ・じょうかん)、暁烏敏(あけがらす・はや)といった大谷派の僧侶でした。

 ただ、それらの僧侶は大谷派全体ではなく、大谷派の中の“改革派”の人々でした。当時東本願寺で宗派の実権を握っていた保守的な人々に対しては、政次郎らは“改革派”の批判を共有していたかもしれないのです。そのへんは、↓東本願寺のところでもう少し書くことにしたいと思います。


∇ 参考記事(宮沢賢治の宗教的環境)⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 0.1.1







西本願寺 
唐門(上部)
江戸時代初期の建造。極彩色と鍍金の贅を尽くした装飾が見られます。



 賢治の父・宮澤政次郎は、市内の学生・知識人向けに毎年夏、花巻郊外の大沢温泉で「夏期仏教講習会」を開いていました。賢治は中学生時代は毎夏これに参加していました。宮沢賢治と言えば“日蓮宗”と思う向きが多いのですが‥、彼の信仰のバックボーンは、むしろ中学生までに培われた浄土真宗の開明的宗教思想――『歎異抄』を中心とし、西洋近代哲学に基づけられた――によるところが大きいのです。

 講師として呼ばれたのは大谷派の学者が大部分で、村上専精
(大谷派,東京帝大講師)、近角常観(大谷派,「浩々洞」改革派)、斎藤唯信(大谷派,真宗大学教授)、多田鼎(大谷派,「浩々洞」改革派)、暁烏敏(大谷派,「浩々洞」改革派)などでしたが、それらと並んで、本願寺派から唯一、東京帝大講師の島地大等が来講しています。

 大等は、住職をしていた盛岡・願教寺と東京とのあいだを往復しながら、学生や一般信者を集めて講話を行ない、広汎な崇拝者を得ていました。賢治は、盛岡高等農林に入学してからも、大等の講話を聴講したり、願教寺に直接大等を訪ねて行ったりしています。




願教寺
(盛岡市) 宮沢賢治歌碑

       ※

 本堂の
 高座に島地大等の
 ひとみに映る
 黄なる薄明


宮沢賢治『歌稿B』#255a256



∇ 関連記事⇒:モリーオ(2)






 本願寺派の僧で、宮沢賢治とかかわりの深い人物は、もうひとりいます。「花巻農学校」で賢治の同僚教師だった白藤慈秀
(しらふじ・じしゅう)です。

 白藤は、農学校では国語、体操などを教えていましたが、他の同僚教師の回想によると、同じ“宗教家”ということで、賢治とは馬が合ったそうです。1924年の北海道修学旅行は、賢治と2人で引率しています。1926年に賢治が農学校を辞めた半年後に白藤も辞職して、盛岡・願教寺の院代になっています。住職の島地大等(1927年没)が病気で来られなくなった(大等の自宅は東京)ためでしょう。

 ↓下の詩の「白淵先生」は白藤慈秀です。賢治は、学校の日常でも、生徒を使って白藤にいたずらするなど、コミカルに揶揄することが多かったようです。本願寺派の僧に対して、“自分の家は大谷派”なので距離を置く気持があったかもしれません。

   

    氷質の冗談

 職員諸兄 学校がもう砂漠のなかに来てますぞ
 杉の林がペルシャなつめに変ってしまひ
 はたけも藪もなくなって
 そこらはいちめん氷凍された砂けむりです
 白淵先生 北緯三十九度辺まで
 アラビヤ魔神が出て来ますのに
 大本山からなんにもお振れがなかったですか

     
〔…〕

 もしわたくしがあなたの方の管長ならば
 こんなときこそ布教使がたを
 みんな巨きな駱駝に乗せて
 あのほのじろくあえかな霧のイリデスセンス
 蛋白石のけむりのなかに
 もうどこまでもだしてやります

     
〔…〕

 熱く息づくらくだのせなの革嚢に
 世界の辛苦を一杯につめ
 極地の海に堅く封じて沈めることを命じます
 そしたらたぶん それは強力な竜にかはって
 地球一めんはげしい雹を降らすでせう
 そのときわたくし管長は
 東京の中本山の玻璃台にろ頂部だけをてかてか剃って
 九条のけさをかけて立ち
 二人の侍者に香炉と白い百合の花とをさゝげさせ
 空を仰いでごくおもむろに
 竜をなだめる二行の迦陀をつくります
 いやごらんなさい
 たうたう新聞記者がやってきました


『春と修羅・第2集』#401,1925.1.18.「氷質の冗談」〔下書稿(二)手入れ〕




西本願寺 
伝道本部
浄土真宗本願寺派伝道本部











東本願寺 
御影堂門
内部の建物は御影堂(ごえいどう)。



「東本願寺は、閉まっていた。

 時間が時間である。当然だろう。政次郎は巨大な壁のような門の前にたたずんで瞑目し、手を合わせた。門のむこうには昨年落成したばかりの、宗祖親鸞をまつる御影堂があるはずだった。世界最大の木造建築という。

 『なむあみだぶつ。なむあみだぶつ』

 口のなかで称名をころがすうち、心がゆっくりと静かになる。報恩感謝の念のみになる。

 (ありがとがんす。ありがとがんす)」

門井慶喜『銀河鉄道の父』,2017,講談社,p.11.




東本願寺 
御影堂






 本堂に流れて入れる外光を多田先生はまぶしみ給ふ


宮沢賢治『歌稿A』#329. 



 ↑「多田先生」は、大谷派の「浩々洞」に集った“改革派”のひとり・多田鼎だと言われています
(『定本・宮澤賢治語彙辞典』)。多田鼎も、夏期仏教講習会の講師として来講しており、賢治は聴講しています。

 しかし、この短歌、↑上で引用した『歌稿B』#255a256番に似ていないでしょうか?『歌稿B』のほうを、こんどは推敲前の初期形で引用してみます↓



       ※

 本堂の
 高座に説ける大等が
 ひとみに映る
 黄なる薄明


宮沢賢治『歌稿B』#255a256〔初期形〕



 『歌稿B』は、『歌稿A』を推敲・再清書したものですが、#329番は『歌稿A』にしかなく、#255a256番は『歌稿B』で新たに加えられています。「多田先生」とした#329番を「大等」に変えて、場所を前に移したように思われます。#329番は、「大正5年3月より」の章にあるのに対し、移動後の#255a256番は「大正4年4月」の章
(大正5年2月までを収録)の最後に置かれています。

 この推敲・移動には、どんな意味があるのでしょうか?

 同時期(1916年3月前後)の賢治書簡を見ると、3月末の修学旅行の帰りに、東北線下り列車の中で賢治は島地大等に遭っています。そして、帰盛後に願教寺に大等を訪ねていると推定されます。


∇ 参考記事⇒:《あ〜いえばこーゆー記》
【宮沢賢治】旅程ミステリー:東海篇(6)



 修学旅行中、賢治が主に信仰問題で煩悶していたことは旅行中の短歌からも伺われるのですが、尊敬する大等に遭遇し、帰盛後に直接教えを受けたことによって“迷い”が解消したかというと、むしろ逆で、満足な示唆を得られなかったために、これをきっかけに大等からは離れてしまったと推定されています。小野隆祥氏らがそうした見解です。

 高等農林の「仏教会」の学生たちが願教寺に参禅に行く時、賢治は途中まで一緒に来るけれども、ひとりだけ願教寺には行かず、近くにある曹洞宗の報恩寺へ行ったという証言もあります。また、1917-18年ころから法華経と日蓮宗に大きく傾いて行きます。


∇ 関連記事(報恩寺)⇒:
モリーオ(2)



 『歌稿A』のほうは、1916年に詠んだ手帳かメモの原形を反映したものでしょう。「多田先生」としたのは、島地大等の名を出すのをはばかったからではないでしょうか?…戸外から差し込む日光をまぶしがっているようすは、尊敬すべき宗教指導者の姿には見えないからです。

 推敲後の「ひとみに映る/黄なる薄明」も、輝かしい先覚者の姿からはほど遠いでしょう。(小野隆祥氏が、そう述べています。)むしろ、仏教界の未来に希望を見いだせなくなった悲観的で頼りない高僧の姿ではないでしょうか?

 歌稿での配置を「三月」より前に移したのは、自身の過去の信仰として整理をつけるためではなかったか?…賢治は、2つの歌稿を清書した時期には、すでに浄土真宗を離れて日蓮宗に入信していましたから。。。







「求道会館」と「浩々洞 発祥之地」碑
東京都文京区本郷6-20-5

1899年大谷派の僧・清沢満之は、近角常観からこの地にあった
寮を借りて私塾「浩々洞」を開き、学生を集めて共同生活を
始めました。2名のほか、多田鼎、暁烏敏らが草創時の同人。
いずれも真宗大谷派に属する僧籍の仏教学・哲学学生でした。
1901年には雑誌『精神界』を発刊して、広く一般の若い信者の
心のよりどころとなり、その後所在地は本郷東片町、本郷曙町、
巣鴨、小石川に転々しつつ、1917年まで活動しました。
この“発祥の地”には、公衆布教の場として「求道会館」が
建設され、1915年に落成開館しています。

「浩々洞」は、日曜ごとに精神講話を開催し、当時、
内村鑑三の「聖書講読会」とならんで東京を二分する
2大宗教系私塾だったと言います。



 政次郎氏らが主催し、中学生時代の賢治が熱心に聴講した「夏期仏教講習会」の講師は、大谷派のなかでも「浩々洞」に集う“改革派”の人々が大部分でした。

 「浩々洞」改革派のなかで忘れてならない重要な人物として、清澤満之
(きよざわ・まんし)がいます。清澤は、早逝したため、また晩年は東京から離れていたために花巻に来講することはできませんでしたが、ほかの「浩々洞」メンバーを通じて間接的に、賢治には大きな影響を与えているように思われます。

 清澤満之について、いまウィキペディアの記事を拾ってみますと:



「1878年2月、得度して真宗大谷派の僧侶となり、東本願寺育英教校に入学した。
〔…〕その留学生として東京大学予備門に補欠募集があるのを知り、僅かの準備期間でトップで入学した。1887年に東京大学文学部哲学科を首席で卒業。〔…〕大学院では、宗教哲学を専攻。しかし、1888年7月には、真宗大谷派の要請で、当時、同派が経営を委嘱されていた京都府尋常中学校の校長を務め、〔…〕しかし大学院をやめても、彼は研究をやめたわけではなかった。

 1890年7月には京都府尋常中学校校長を辞任する。この頃からミニマム・ポッシブル(Minimum Possible)と呼ばれる最低限の制欲自戒生活を始める。黒衣黒袈裟の僧服姿で、食膳は麦飯一菜漬物、煮炊きはせず、酒はもちろん茶すら飲まず、飲料には素湯もしくは冷湯を用いた。そんな生活を続ける中、学問の面でも『歎異抄』などをよく読み、その自戒生活の実践の中で得意の哲学を駆使して『宗教哲学骸骨』『他力門哲学骸骨試稿』を執筆する。
〔…〕

 1894年、肺結核を発病した。同年1月、禁欲生活で体力が落ちた体で、厳寒の京都で前法主の葬儀に参列した清沢は屋外に立ち続けた。これが引き金といわれる。1896年に京都府愛宕郡白川村(現在の京都市左京区)に移り済む。白川党の宗門改革運動を始める。
〔…〕東本願寺における近代的な教育制度・組織の確立を期して種々の改革を建議・推進し、しばしば当局者と対立し、宗門からの除名処分を受ける。〔…〕

 1903年(明治36年)6月6日、肺結核が悪化し、改革の道半ばにして西方寺にて死去、満39歳没。」





清沢満之






 賢治の生涯に似ている点がないでしょうか?‥“生存最低限”の生活を実践したために結核を患い、それが原因で早逝したという点です。中学生時代の賢治は、「浩々洞」メンバーから清沢満之の話を聞き、その極端に質素な“精神主義”の生活にあこがれを持ったのではないか?

 このような、食事を極端に切り詰め、お茶も飲まない、おさ湯だけ‥‥という生活は、金田一京助もしていたと言います:


∇ 関連記事(金田一京助)⇒:
トキーオ(21)



 おそらく、清沢ほど極端でなくとも同様の“精神主義生活”は、当時の知識人の一部で、広く尊ばれていたのではないかと思います。

 宮沢賢治の質素な生活ぶりが“精神主義”のためだとすると、かなり大きな問題が解けることになります。

 賢治は、一方で“禁欲”だ“菜食主義”だと言われながら、他方では、意外に贅沢な食生活や、ポルノグラフィー蒐集などの活発な“性欲志向”が指摘されています。


∇ 関連記事(賢治グルメ)⇒:
ハームキヤ(9)



 ふだんの質素な食生活が、宗教的戒律の遵守でも、肉食魚食をタブーとするためでもなく、“精神生活”の充実のためだったとしたら、ときどき同僚との付き合い、また後輩を饗応するために贅沢な食事をとることは、何ら差し支えないはずです。また、極端な食生活が肺結核を悪化させることを知りながら、意にも介さずに続けたという点も、清沢満之を“鏡”にしていたと考えれば理解できるでしょう。

 「雨ニモマケズ」は、ある一時期に手帳に書きつけた感想にすぎません。賢治の真意を知るためには、「浩々洞」と浄土真宗“改革派”の方面を、もっと追究してよいのではないかと思います。





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