トキーオ(21)




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 宮沢賢治は、童話の中では東京を「トケイ」「トケウ」「トキーオ」などと呼んでいました。「トキーオ」は、エスペラント語で東京のことです。


 東京での賢治の足跡をたどります。





本郷森川町、龍岡町








 東京の賢治の足跡をたどる旅も終りに近づき、本郷の賢治の下宿先
(1921年上京時)に戻ってきました。

 





ベルウッド本郷 
文京区本郷4丁目35

正面突き当りのマンションの場所に、1921年上京時の
賢治の下宿がありました。



∇ 参考記事(宮沢賢治・下宿跡)⇒:
【トキーオ(3)】









金田一京助・旧居 
本郷4丁目11-6
本郷森川町(当時)



 金田一京助(1882-1971)は、言語学者・民俗学者で、日本のアイヌ語研究の創始者。盛岡市出身、盛岡中学校卒業生で、宮沢賢治の先輩にあたります。やはり盛岡中卒の石川啄木の親友としても、知られています。

 金田一は、1909年に結婚し、東京の本郷森川町↑に自宅を構えていました。

 行ってみて驚いたのですが、金田一宅は、賢治の下宿から目と鼻の先なのです。直線距離にして約 90メートル。賢治の下宿は、谷底の場所――菊坂下通りという、どぶ川沿い――で、そのすぐ“上”の台地のへりに、金田一の家がある、という配置です。





地図
(本郷4,7丁目)






 こんなに近くにいたのは、偶然の結果です。しいて言えば、石川啄木の霊
(1912年急逝)が二人を引き寄せたと言えます。この界隈は、啄木の下宿先、啄木が通った質屋、床屋など、その生活のあとが残る界隈でしたし、金田一の結婚を仲介したのは啄木ですから、金田一がここに新居を構えるのは自然なことでした。他方、賢治の下宿は、本人が探したか、小林六太郎が紹介したかは不明ですが、同じ岩手県の歌人・啄木のゆかりの地であることが念頭にあったのは、まちがえないでしょう。



∇ 参考画像(中屋薬局・小林六太郎宅・跡)⇒:
【トキーオ(15)】








「国柱会の上野坂下で行われているノボリを立てての街頭布教の辻説教に、ある日賢治も加わっていた。その日東京帝国大学講師の金田一京助が通りかかって賢治をみとめた。金田一の弟他人と賢治は、盛岡中学同級生だった。賢治はなつかしそうにこの先輩にニコニコ笑ってお辞儀した。2,3の会話のあと『馬鈴薯と水で生きています』と話した。けれども金田一は、お茶よりも『白湯』が、『白湯』よりも水の方が燃料や金が経済になるという生活をしていたので、賢治の話を珍しい事とは聞かなかった。」

森荘已池『宮沢賢治の肖像』,1977,津軽書房,p.244.



 こちら↓(リンク先)の、金田一京助自身が書いた回想文では、賢治が上野公園の“辻説法”の場にいたことは気づかず、そのあと自宅に賢治が訪ねてきて驚いたことになっています。

 しかし、金田一の書いた回想文は、この場合に限らず、事実関係が不正確だという評判があります。

 金田一京助と宮沢賢治は、賢治の同級生だった金田一他人を通じて顔見知りだったというだけで、この時以前に直接のつながりはなかったのですから、賢治は金田一の東京の住所を知らなかったでしょう。賢治がいきなり森川町の自宅を訪ねてきたという話は腑に落ちないのです。

 むしろ、「上野の坂下」
(毎昼休みに田中智学の街頭説教が行われていた上野公園・清水観音堂下)で偶然出会って、たがいに住居が近いことを知って驚いた。そのあと、賢治が金田一宅を訪問した、という、森荘已池の聞き書きのほうが真実味があります。


∇ 参考記事(清水観音堂下)⇒:
【トキーオ(7)】




 “ジャガイモと水だけ”という東京での賢治の食生活には、賢治の父も、下宿先に来た他の人も、びっくりしていますが、金田一京助は、自身も質素な生活をしていたので、「珍しい」とも思わなかった―――まったく驚かなかったというのです。金田一は、アイヌ語という、世間から顧みられない分野を専門にしていたために、安月給の講師以外には職がありませんでした。三省堂でアルバイトをしましたが、倒産で失職しました。金田一の妻も、この翌年に寄寓した知里幸恵
(アイヌの少女。↓下でもういちど説明します)も早逝しているのは、おそらく栄養が悪かったせいでしょう。

 当時、金田一が接触していた北海道の居留地アイヌには、貧しい食生活を強いられていた人が多かったにちがいありません。しかし、金田一は、自身の食生活が極端に質素だったうえ学究ひとすじでしたから、アイヌの境遇が政府の略奪的な“土人”政策によるものであることには思い及ばなかったでしょう。戦後はその点を批判されることになりますが、アイヌを棄てて顧みなかった他の大多数の日本人を置いて、なぜ金田一が批判されなければならないのか、ギトンにはよく解りません。






 ところで、宮沢賢治は金田一宅を一度しか訪ねなかったのでしょうか?…これらの回想記事に記されているのは1回きりですが、ギトンには、むしろ足しげく訪ねたように思われるのです。なにしろ、下宿先からすぐ近くです。賢治滞京中の 1921年6月には、東京で「啄木会」が結成されていますが、その結成決議書の「同志名」のなかに宮沢賢治の名があります。賢治の従弟の安太郎という人の名もありますが、この人は、賢治の下宿先に一時いた人です。賢治と啄木の間の人脈は、金田一京助以外にありません。

 おそらく、賢治は東京にいるあいだは、金田一との間に交流があったと思うのです。というのは、金田一のアイヌ語研究は、樺太のアイヌ部落の調査から始まっており、その際入ったアイヌ部落が、サハリン・栄浜の北にある内淵部落なのです。

 ここは白鳥湖の沿岸であり、賢治の「オホーツク挽歌」は、内淵部落のそばの海岸で書かれたと推定されるのです。

 “場所の一致”以外に証拠はないのですが、賢治は金田一から、内淵アイヌ部落のことを聞いていて、その海岸へ向かった‥‥と想像するのは無理でしょうか?


∇ 参考画像(地図:栄浜、内淵)⇒:
【鈴谷平野】

∇ 本記事はこちら⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 7.6.2.

∇ 本記事はこちら⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 7.6.38.




菊坂下から金田一宅を見上げる。
本郷4丁目31

狭い路地ですが、井戸は昔からのものでしょう。
正面突き当りが、金田一旧宅の
建物が乗っている擁壁です。






 宮沢賢治――金田一京助――アイヌ。この3つをつなぐ“環”は、もうひとつあります。

 賢治が東京の金田一宅のそばに滞在していた 1921年の翌年のことですが、金田一は、北海道からアイヌの少女・知里幸恵を呼び寄せて自宅に寄寓させます。

 知里幸恵(1903-1922)は、アイヌ語にも日本語にも堪能で、カムイ・ユカラ(カムイ・ユーカラ。神謡)をよく知っていたので、金田一は、自分の指導の下でカムイ・ユカラをローマ字で筆記し、日本語訳するように彼女に勧めていました。

 ところが、幸恵は、金田一宅に来て僅か数か月で病死しています。19歳でした。もともと重度の心臓疾患を患っていたそうですが、持病を押して『アイヌ神謡集』の編集・翻訳に専心し、その原稿を完成させた日に亡くなったのでした。

 

 知里幸恵の遺した『アイヌ神謡集』は、金田一の手で 1923年8月に出版されました。宮沢賢治とつながるのは、賢治の 1924年5月18日付の詩〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕の初稿に、次のような箇所があるからです:



   (わたくしはなぜ立ってゐるか
    立ってゐてはいけない
    鏡の面にひとりの鬼神ものぞいてゐる
              第一九頁)

『春と修羅・第2集』,#106,1924.5.18.〔下書稿(一)〕



 「鬼神」は、〔下書稿(二)〕では「アイヌ」に改められています。

 問題は「第一九頁」という謎の記述です。何かの本の 19ページを参照せよということでしょうか?知里幸恵の『アイヌ神謡集』だとすると、それなりに意味が通じるのです。詳しくは、↓下のリンク先で。

 賢治は、この前年に発行されたばかりの『アイヌ神謡集』を入手して目を通していたのでしょうか?もしそうだとすると、金田一京助から、アイヌに関して教示を受けていたことになります。



∇ 関連記事はこちら(賢治詩に登場するアイヌ)⇒:
ギトンのあ〜いえばこーゆー記 2015/03/23


∇ 関連記事はこちら(賢治詩と『アイヌ神謡集』)⇒:
ギトンのあ〜いえばこーゆー記 2015/03/29







(あぶみ)
この坂の途中左側に
金田一京助・旧居↑があります。









 さて、次は、本郷龍岡町。東京大学・龍岡門に近い一角です。現在は湯島の一部ですが、賢治が花巻に帰って農学校に就職した翌年、弟の清六氏が――家出ではなく、父の許可を得て――上京し、龍岡町に下宿して「研数学館」に通っています。




本郷龍岡町 
東京大学・龍岡門
湯島4丁目1付近






「………手っ取り早く言ってみれば、その年の正月に26歳だった兄は、念仏とお題目のことについて、父と激しく話し合った後で、いきなり東京へ逃げたのだ。東京へ着いたら六銭余ったので、二度ほど豆腐をたべ、三日仕事をさがし、一回卒倒したということだ。

 それから本郷の菊坂町では、芋と豆腐と油揚げを毎日食べて、筆耕もやったし、辻説教もやり、童話もうんと書いたと言う。

 
〔…〕七か月もそんなことをしている中には、原稿も随分増えたに相違ない。だから電報が来て帰宅するときに、あんなに巨きなトランクを買わねばならなかったのであろう。

 さて、そのトランクを二人で、代りがわりにぶらさげて家へ帰ったとき、
〔…〕『今度はこんなものを書いて来たんじゃあ』と言いながら、そのトランクを開けたのだ。

 それがいま残っているイーハトーヴォ童話集、花鳥童話や民譚集、村童スケッチその他全集3・4・5巻の初稿の大部分に、その後自分で投げすてた、童話などの不思議な作品群の一団だった。

      
〔…〕

 それから兄は農学校の先生になって、
〔…〕そのズックの巨きなトランクは、その後2年ばかりの間、うすぐらい土蔵の2階に投げられていた。……

      *

 ……大正12年の正月に、兄はその大トランクを持って、突然本郷辰岡町の私の下宿へ現われた。」

宮沢清六『兄のトランク』,1991,ちくま文庫,pp.88-90.





「そのころ弟の清六さんは、上京中で本郷竜岡町に止宿、受験勉強につとめていた。入学希望校は蔵前の高等工業学校
(現・東京工業大学)の電気科だった。

 『あの大トランクに、東京から持って帰った原稿を、ぞっくり入れたまんま、兄は持って上京しあんしたのス』」

森荘已池『宮沢賢治の肖像』,p.244.



 清六氏は、水道橋の「研数学館」↓に通って、数学を勉強していました。



∇ 参考画像(研数学館)⇒:
トキーオ(13)






「『此の原稿を何かの雑誌社へもって行き、掲載さして見ろじゃ』と兄は言い、
〔…〕さっさと郷里へ引き上げた。

 当時学生の私は、そのトランクを『婦人画報』の東京堂へ持って行き、その応接室へドシッと下し、小野浩という人に『読んで見て下さい』と言って帰ったのだ。

 あの『風の又三郎』や、『ビヂテリアン大祭』や『楢ノ木大学士の野宿』などと言う、桁っ外れの作品が、どうして婦人画報の読者たる、淑女諸氏と関係ある筈があろう。

 そいつを思う度毎に、私はあまりの可笑しさに、全く困ってしまうのだ。」

宮沢清六『兄のトランク』,p.90.



「大正12年の正月に、私が東京に出ていたとき、兄がぎっしり童話原稿を入れたトランクを持って来て、『この原稿を東京社の婦人画報にでも載せてもらってくれ。』といって帰って行った。

 原稿を東京社において来てから何日か過ぎて行って見ると『これは私の方の雑誌には向きませんので。』といって返されたのであったが、今思えば何の伝手もなく、いきなり私のような中学校を出たばかりのものに、山のような原稿を持ち込ませたところで、とても真面目に読んでくれる筈もないと思われるのである。全く変わったところのある兄であった。」

宮沢清六『兄のトランク』,pp.255-256.



 「東京社」は、国木田独歩の「独歩社」から『婦人画報』の発行を受け継ぎ、また児童雑誌『コドモノクニ』なども発行していた当時の大手でした。戦後、「婦人画報社」に社名変更しています。神田神保町の東京堂書店も、当時からありましたが、東京堂と東京社は、まったく別の会社です。清六氏が原稿入りトランクを持ちこんだのは、「東京堂」ではなく「東京社」のほうです。



 清六氏は、賢治は童話原稿の詰まった大トランクを預けると、すぐ岩手に帰って行ったように書いていますが、じっさいには約1週間後に、またふらっとやってきて、返された原稿入りのトランクを受け取って、帰って行ったようです
(全集「年譜」。『宮沢賢治の肖像』)

 清六氏自身、ほかの回想文では、トランクを預かった後の日に、兄と浅草の映画館で落ち合ったことを書いていますから
(『兄のトランク』,p.49.)、「年譜」と森荘已池聞き書きのほうが、事実に沿っているでしょう。

 また、清六氏は「何の伝手もなく」と書いていますが、それは清六氏が知らなかっただけかもしれません。

 当時の藤原嘉籐治日記を見ると、賢治の「東京社」持ちこみに、藤原も大いに期待していたようです。結果として1篇も採用されなかったわけですが、それによって、賢治の創作意欲はかえって旺盛になったと書いています
(全集「年譜」)

 そこから考えると、事前に「東京社」に対して、友人たちを介して何らかの紹介があったのではないでしょうか。そうでなければ、いきなり持ちこまれた“大トランク”を、編集部が預かるはずもないと思われます。







雑誌『コドモノクニ』の広告 

『興国課外読本 尋常四学年第二学期用』改訂46版,1924年6月,東京社発行。
国立国会図書館デジタルコレクション



 「東京社」は、東京堂とは別だとすると、どこにあったのか?清六氏は、“大トランク”をどこまで運んだのか?…気になったので、当時の「東京社」の広告↑で、住所を調べてみました。

 「東京市京橋区畳町1番地」。「畳町」は、現在の住居表示で中央区京橋2,3丁目にあたります。東京の番地の付け方は、区画の北西角から左回りに付けます。当時も同じだとすれば、「東京社」のあった場所は、東京駅八重洲南口近くの↓ここです。




「東京社」・跡 
京橋2丁目1-1
正面のビルが、旧・京橋区畳町1番地角



 清六氏の下宿から近い神田あたりかと思っていたら、意外に遠い場所でした。重いトランクを提げて、市電を乗り継いで往復したのに、ほんとうに残念なことでした。





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