トキーオ(20)




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 宮沢賢治は、童話の中では東京を「トケイ」「トケウ」「トキーオ」などと呼んでいました。「トキーオ」は、エスペラント語で東京のことです。


 東京での賢治の足跡をたどります。





田園調布と川崎








 前回、宮沢賢治は上高井戸の尾崎喜八宅で、チェロの手ほどきをしてくれる人として、新交響楽団員の大津三郎を紹介してもらったことにふれました。

 賢治は、じっさいに大津三郎からチェロの教授を受けることができたのでしょうか?‥‥








地図
(東京西部)



 尾崎は、前回引用した 1970年の戦後のテレビ番組で、「その時、高村さんの所に寄ったらしいんですよ。」と語っており、また、高村光太郎からの聞き取り(前々回)でも、

「あとで聞いたら、尾崎喜八氏の所にも寄られたさうで、何でも音楽のことで上京されたらしく、新響の誰とかにチェロを習ふ目的だつたやうです。」

 となっていますから、賢治が尾崎宅を訪問し、新交響楽団の大津三郎を紹介された時期が、高村アトリエ訪問と同じ 1926年12月上京のあいだだったのは、まちがえないと思われます。

 この時の賢治の上京目的は、オルガン、タイプライター、エスペラントを習うためでしたが、滞京中にチェロを手に入れたらしく(⇒:みちのくの山野草)、チェロの弾き方を誰かに教えてもらおうとして奔走したようなのです。



∇ 前回記事⇒:トキーオ(19)

∇ 前々回記事⇒:トキーオ(18)






 大津三郎の自宅は、当時の住所で「東京府荏原郡調布村大字嶺」にありました。「調布」といっても、現在の調布市とは別の場所です。

 こちらの「調布」は、現在は「田園調布」という地名に残っています。

 大津宅があった場所は、大田区千鳥と同区久が原の境界付近にあたります。




東急池上線・千鳥町駅 
大田区千鳥1丁目
宮沢賢治がここに通った当時、「慶大グラウンド前」
という駅名で開設されたばかりでした。




大津三郎旧宅・跡 
大田区久が原5丁目
正面の空き地とその周り。
左右に延びる路地(青い歩道標識がある)から手前が千鳥1丁目。






 さて、賢治が、買ったばかり(?)のチェロを抱えて↑大津宅に通ったのは、結論から言えば事実だったと言えますが、その時期などについては、謎が多くて判然としません。



 尾崎喜八は、1970年のテレビ番組では、

「(賢治は大津宅で)2時間ぐらいそそくさと(チェロの手ほどきを)やってもらって帰られたそうです。」

と語っていました。

 たった2時間で、チェロの弾き方の手ほどきができるとは、とうてい考えられませんが、その点はのちほど検討するとして、問題は、そもそも大津による“手ほどき”自体が、あったのかどうかです。


 というのは、尾崎喜八は、賢治死去直後の追悼文では、つぎのように書いているからです:



「彼
〔宮澤賢治―――ギトン注〕は上京中の或る夜東京の某管弦楽団のトロンボーン手をその自宅へ訪問した。海軍軍楽隊出のこの楽手は私の友人で、一方セロも弾き、詩が好きで、とくに宮沢君の詩集『春と修羅』のあの男らしい北欧的な、極地的なリリシズムを愛していた。その時の宮沢君の用件というのが、至急簡単にセロの奏法の手ほどきと作曲法の初歩とを教授してくれと云うのだった。しかしこれはひどくむずかしい註文でついに実現を見ず、やがて一日か二日で宮沢君は郷里へ帰ったのだが、〔…〕
尾崎喜八「雲の中で刈った草」,in:草野心平・編『宮澤賢治追悼』,1934年.⇒:尾崎喜八資料・第7号



 尾崎は、ここでは、大津によるチェロ教授は「ついに実現を見ず、やがて一日か二日で宮沢君は郷里へ帰った」と書いているのです。





 しかし、大津三郎自身が、戦後まもない時期に音楽雑誌に書いた記事によると、3日間・各2時間の“手ほどき”を、宮沢賢治に授けたと言います:



「大正15年[1926年]の秋か、翌昭和2年[1927年]の春浅い頃だつたか、私の記憶ははつきりしない。

 数寄屋橋ビルの塚本氏が現在のビルの位置に木造建物で東京コンサーバトリーを経営していた。
〔…〕新交響楽団を結成した私たちが〔…〕そのコンサーバトリーを練習場に借りていた時のことである。

 ある日帰り際に塚本氏に呼びとめられて、『三日間でセロの手ほどきをしてもらいたいと云う人が来ているが、どの先生もとても出来ない相談だと云つて、とりあつてくれない。岩手県の農学校の先生とかで、とても真面目そうな青年ですがね。無理なことだと云っても中々熱心で、しまいには楽器の持ち方だけでもよいと云うのですよ。何とか三日間だけ見てあげて下さいよ。』と口説かれた。

 
〔…〕私が紹介されたのは三十歳位の五分刈頭で薄茶色の背広の青年で、〔…〕扨、二人の相談で出来上つたレッスンの予定は、毎朝 6時半から 8時半迄の 2時間ずつ計 6時間と云う型破りであつた。

 神田あたりに宿をとつていた彼は、約束通りの時間に荏原郡調布村まで来るのは仲中の努力だつたようだが、三日共遅刻せずにやつて来た。8時半に練習を終つて、私の家の朝食を一緒にたべて、同じ電車で有楽町まで出て別れる……これが三日つずいた。

 第1日には楽器の部分名称、各弦の音名、調子の合せ方、ボーイングと。第2日はボーイングと音階、第3日目にはウエルナー教則本第1巻の易しいもの何曲かを、説明したり奏して聞かせたりして、帰宅してからの自習の目やすにした。
〔…〕

 3日目には、それでも30分早くやめて
〔…〕お別れの茶話会をやつた。その時初めて、どうしてこんな無理なことを思い立つたか、と訊ねたら、

 『エスペラントの詩を書きたいので、朗誦伴奏にと思つてオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロ方がよいように思いますので‥‥』とのことだつた。

 『詩をお書きですか、私も詩は大好きで、こんなものを書いたこともあります』と私が書架から取り出したのは、大正5,6年の『海軍』と云う画報の合本で、それには軍楽隊時代の拙作が毎月1篇ずつ載つていたのである。

 
〔…〕私はこの時詩人としての彼を全く知らなかつたのだ。

 次々に読んで行つた彼は『先生の詩の先生はどなたですか』と云う『別に先生はありません。
〔…〕今では尾崎喜八さんのものが大好きです』と答えると、彼は小首をかしげ乍ら、大正5年頃にこんな書き方をした人は居ないと思っていましたが……〔…〕篇中の――と( )を指して、大正5,6年にはまだ使われて居なかつたように思う、と云うのであつた。

 当時、私の家は両隣りへ 2,3町もある一軒家で割合に広い庭には1本のえにしだと何か2,3本植つて居たのに対して、彼はしきりに花壇の設計を口授してくれた。
〔…〕

 ウエルナー教則本の第一と信時先生編のセロ名曲集一巻を進呈して別れたのだつたが数日して彼から届いた小包には、『注文の多い料理店』と渋い装幀の『春と修羅』第1集が入つて居て、扉には

 献大津三郎先生      宮澤賢治

 と大きな几帳面な字で記してあつた。」

大津散浪(三郎)「私の生徒宮沢賢治――三日間セロを教えた話」,in:『音楽之友』,10巻1号,1952年1月,pp.106-107. [ ] 内はギトン註。

※ 大津三郎「三日でセロを覚えようとした人」(昭和文学全集,角川書店,月報14,1953年6月,pp.5-6.)は、「私の生徒‥」の一部を省略したほか同文です。



 大津三郎(1892-1957)は、海軍軍楽隊員として、東京音楽学校(現・東京芸大音楽学部)で弦楽器を学び、1920年退役後は、日本交響楽協会にトロンボーン奏者として参加、同協会分裂後は、近衛文麿の新交響楽団に加わりました。その傍ら「東洋キネマ」などの活動写真館でトロンボーンやチェロの演奏を担当しています。





池上本門寺から千鳥、久が原方面を望む







 ↑上の大津三郎自身の回想記事によって、賢治が大津宅を訪ねて、チェロの“手ほどき”を受けた事実は、まちがえないと思われます。ただ、その細かい点になると、問題が少なくはないのです。

 大津の回想文は非常に具体的で詳細なので、細部まで正確なものだと思ってしまいがちですが、1926-27年から 25年後に、はたしてこれほど詳しく覚えているものなのかどうか…

 しかも、佐藤泰平氏によれば、周辺資料と突き合わせてみると、いくつもの矛盾点が浮かび上がります。⇒:MLAJ研究セミナー(2003.11.7)《講演「宮沢賢治の音楽」》



 @大津が宮沢賢治に贈ったという信時潔・編『ヴィオロンセロ名曲集』第1巻は、1928年2月の発行なので、1926年12月、あるいは翌27年早春には、まだ存在しなかった。なお、信時潔・平井保三・共編『セロ教本』第1巻が、1927年6月8日に発行されている。

 A賢治にチェロのレッスンをすることになった経緯について、大津は、新交響楽団が2階に練習場を借りていた有楽町『数寄屋橋ビル』の塚本商行社長・塚本嘉次郎(1890-1956)の依頼に応じたと言っており、尾崎家の紹介については触れていないのです。

  弦楽器を弾いたことのない賢治に、“3日間でチェロが弾けるように教える”などという無茶な依頼を、塚本社長がなぜ仲介しなければならないのか、おおいに疑問です。宮沢賢治のような“おのぼりさん”に頼まれて、ほいほい引き受けるようなことがらではありません。よほど親しい人か、有力者にでも捻じ込まれたか?…しかし、塚本社長が誰から頼まれたのかについては、まったく言及がありません。

 B大津は、「8時半に練習を終つて、私の家の朝食を一緒にたべて、同じ電車で有楽町まで出て別れる……これが三日つずいた」、つまり、練習後は宮沢賢治と、練習場のある有楽町まで一緒に行ったと言うのです。

  新交響楽団の練習場は、たしかに 1926年12月には、「塚本商行」の2階にありましたが、翌 1927年6月に荏原区長原に自前の練習場ができて、そちらへ移転しているのです。

  なお、つや子夫人の記憶では、レッスンは 1927年で、練習後は大津三郎は池上線長原の練習場へ出かけたと言います。
(夫人は奥田氏に、26年3月次女が生まれてから「1年ほどたった頃、賢治がたずねてきた」と語っているが、練習場の場所から推定すれば 6月以後)



「大津つや子夫人の記憶では、次女日出子氏(大15・3生まれ)が生まれて、1年ほどたった頃、賢治がたずねてきたそうだ。たしか、次女を背負って応対したので、誕生から推して、昭和2年だったと思うということだ。

 
〔…〕大津夫人によれば、大津三郎が、午前9時か10時には池上線長原の新響練習所に出かけねばならぬので、その前に、〔ギトン注――賢治が〕大津宅まで通ったわけである。」
奥田弘「宮澤賢治の東京における足跡」,in:小沢俊郎・編『賢治地理』,1975,學藝書林,p.158.




  つまり、@とBは矛盾しています。もし、@が正確で、レッスンは 1927年後半ないし 28年以降だとすると、Bの、有楽町まで一緒に行ったというのは記憶違い、Aの塚本社長の仲介も怪しくなってきます。



 ところで、尾崎喜八の“矛盾証言”について、もう一度考えてみたいと思います。

 尾崎は、『宮澤賢治追悼』に寄稿した 1934年の段階では、大津三郎のところでレッスンが実現したことを知らなかったと思われます。紹介はしたけれども、賢治の帰郷の予定が迫っていて、レッスンの実施まで行かなかったと思っていたのです。

 そこで、…ギトンの推測ですが…この 1926年12月の時点では、けっきょくレッスンはできなかったのではないか?…尾崎は、その時点での情報を大津から聞いていて、レッスンは実現しなかったと記憶していた。

 しかし、賢治は、その後も大津と連絡をとるとかしてレッスンを頼み続け、翌年明け(大津の言う「春浅い頃」)か、もっと後で、チェロを持って再度上京し、“3日間のレッスン”を受けたのではないか?…

 その過程で、塚本社長か、あるいはほかの誰かの口添えもあって、大津は“無茶な”レッスンをしてあげる気になったことが考えられます。

 塚本社長の口添えの動機についても、憶測の余地があります。「塚本商行」の1階は楽器売り場でしたが、賢治はここで、チェロだけでなく、『羅須地人協会』で“農民楽団”を編成するための楽器一式を買いそろえたのではないか?……根拠は長くなるので述べられませんが、総額200円、現在の貨幣価値で 100万円は下らないでしょう
(いや‥550円かもしれない!なお1921年、稗貫農学校の賢治の初任給は 80円でした)。これほどの“お得意様”に頼まれたら、社長じきじきにレッスンの仲介もしなければならないでしょう‥‥



 尾崎は、1928年3月に上高井戸を引き払って京橋区新川の実家(造り酒屋)に移り、家督相続しています。その時点で、交友範囲にも大きな変化があったと思われます。大津から、“宮沢賢治レッスン”の続報を聞く機会がないまま、賢治の他界を迎えたのではないでしょうか?

 尾崎の戦後のテレビ番組での発言は、1952年に『音楽之友』に出た大津の記事を読んだか、大津から直接聞く機会があったかして、レッスンが実現していたことを知った後なのでしょう。「2時間ぐらいそそくさとやってもらって」という言い方が、大津の昔語りを引き継いでいます。




数寄屋橋 塚本商行・跡 
銀座4丁目2,3
手前右のスーツカンパニーが、戦後の塚本ビル(現在は塚本素山ビル)。
戦前「塚本商行」のあった番地「4丁目3番」は、路地の奥・突き当り。







 さて、そうすると、“3日間のレッスン”は、大津つや子夫人の言うように、1927年以後だということになりますが、これを補強する証言は、賢治側にもあります:



「確か昭和二年
〔1927年〕十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村〔→根子村下根子の賢治別宅〕に於て農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居られました。其の十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。

 『沢里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞剣だ少なくとも三ヶ月は滞京する俺のこの命懸けの修業が、花を結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる、貴方もバヨリンを勉強してゐてくれ。』

 さうおつしやつてセロを持ち單身上京なさいました。

 其の時花巻駅迄セロをもつてお見送りしたのは、私一人でた。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが先生は

 『風を引くといけないからもう帰つてくれ、俺はもう一人でいゝいのだ。』

 折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此処で見捨てて帰ると云ふ事は私としてはどうしても偲びなかつたし、又、先生と音楽について様々の話をし合ふ事は私としては大変楽しい事でありました。滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。

 最初の中は、ほとんど弓を彈くこと、一本の糸を弾くに、二本の糸にかゝからぬやう、指は直角にもつていく練習、さういふ事にだけ、日々を過ごされたといふ事であります。そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国
〔→帰郷〕なさいました。」
沢里武治・手記〔 〕内はギトン註 ⇒:みちのくの山野草



 花巻農学校卒業生で賢治の教え子、賢治からとくべつに音楽の才を認められていた沢里武治が、1927年11月ころ、チェロを抱えて東京へレッスンをしに行く賢治を見送ったと言うのです。

 沢里の記憶では、この時賢治は3か月近く東京に滞在してチェロの練習に励んだとされます。大津三郎のレッスンは(おそらく最初の)3日間で、そのあとは自分で練習したり、他の人に看てもらったり‥ということだったかもしれません。



 ところで、チェロのレッスンは、1926年12月だったのか、27年11月〜だったのか、……この問題に、これまで何人かの研究家がこだわり
(たとえば、奥田弘氏)、ギトンもこだわっているのは、なにも重箱の隅をつつきたいからではありません。

 宮沢賢治が新品の楽器を買いそろえて
(これじたい、まだ推測ですが)、立ち上げた『羅須地人協会』の“農民楽団”は、1927年1月31日『岩手日報』に紹介記事が載って県下の注目を浴びましたが、あまりに反響がよかったために、かえって思想警察に目を付けられ、不穏活動の疑いで賢治が取調べを受ける事態となりました。

 賢治は、教え子たちに迷惑はかけられない‥ということから、楽団活動も農民劇活動も中止してしまうのです。こんな当たり障りのない文化活動さえ、農村では疑いの目をもって見られ、禁圧されるご時世でした。

 それにしても、宮沢賢治といえば、社会観念には疎くて、権力に対しては草のようになびき、「自己犠牲」とファシズムに向かってまっしぐら――という(誤った)見方があります。

 しかし、その年11月に賢治自身はチェロのレッスンを再開し、「今度は俺も眞剣だ‥‥俺のこの命懸けの修業が、花を結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる」と言い、いつかまた“農民楽団”を再開すべく、自らの技能を磨いていた――それが事実だとすれば、権力になびくどころか、意外にも屈強な“抵抗の人”だったのではないか?‥数多くの欠点と“ゆらぎ”はありながらも、彼なりに時流に掉さしていたのではないか‥?

 言い古された宮沢賢治像を、正しく塗り替えるための根拠が、こうしてまたひとつ増えることになるのです。










 さて、つぎの訪問先は、川崎です。

 佐藤惣之助(1890-1945)は、川崎出身の詩人で、宮沢賢治が詩作・創作をしていた当時、詩壇でもっとも活躍していた詩人のひとりでした。

 賢治死後の 1934年以後は、流行歌の作詞でも有名になり、作曲家の古賀政男と組んでラジオ放送隆盛の波に乗り、一世を風靡しました。

 ↓こんな曲は、21世紀の皆さんでも、ご存知ではないでしょうか?

【参考】⇒:「人生劇場」(youtube)





佐藤惣之助・生家跡 
川崎区砂子2丁目11
佐藤惣之助のレリーフと「青い背広で」詞碑



      青い背広で

 青い背広で
  こゝろも軽く
 街へあの娘と
  行こうじやないか
 紅い椿で
  ひとみも濡れる
 若い僕らの
  いのちの春よ

    ⇒:「青い背広で」(藤山一郎,テイチク・レコード)






 1924年に宮沢賢治が『春と修羅』を自費出版した時、佐藤は、いち早くこの詩集の価値を認めて絶賛しました:



「僕の云ひたいのは、渡辺渡と宮沢賢治である。
〔…〕『天上の砂』と『春と修羅』はあまりに読まれてゐない。〔…〕

 それに『春と修羅』。この詩集はいちばん僕を驚かした。何故なら彼は詩壇に流布されてゐる一個の語葉も所有してゐない。否、かつて文学書に現はれた一聯の語藻をも持ってはゐない。彼は気象学、鉱物学、植物学、地質学で詩を書いた。奇犀、冷徹、その類を見ない。以上の二詩集をもって、僕は十三年の最大収穫とする。」

佐藤惣之助「十三年度の詩集」,in:『日本詩人』,第4巻12号,1924年12月1日発行.






 佐藤惣之助は、東海道・川崎宿砂子の本陣を預かる家柄で、旧東海道をはさんで本陣跡と向い合う生家に住んでいました。




佐藤惣之助・生家跡 
川崎区砂子2丁目4,11
中央の道路が旧東海道。
道路右側が惣之助の生家(現・川崎信用金庫本店)
道路左側に旧本陣・跡がある。






      色と影

 僕はこの四月の村村の谿と濕地をつくる
 いきいきしたものの色と影との反射を
 洗ひたての肉體いつぱいの楯をもつて彩らう
 うつくしい力とほのほとの自然の竈
(かまど)から
 ふきぬけいづる情感と愛戀との
 きよき爽かさにみちわたるこの名づけやうのない深いもの陰を
 霧のやうなあたらしい水の智慧をもつて
 あるひは夜の青みがもてる匂ひと隈をもつて
 僕の中に滴るいのちの思ひの深い濕りとしよう。


佐藤惣之助『季節の馬車』(1922年)より。



 ↑躍動する自然の中にほとばしるエロスと言ったらよいのでしょうか、……賢治とは、表現のしかたが大きく異なるものの、内容的には、共通するものを自然風景から受けとっているように感じられます。





 ところで、宮沢賢治の惣之助宅訪問については、堀尾青史・編の「年譜」に↓つぎの記載があるばかりで、憶測の域を出ません。時期は、やはり 1926年12月の上京の際です。



「12月〔推定〕 12月の滞京中に
〔…〕高村光太郎を訪問したと推定。なおまた、川崎の佐藤惣之助のもとも訪れたか。」
『新校本宮澤賢治全集』「年譜」1926年.



 推定の根拠すら示されていないため、まったく手がかりがないのですが。。。





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