トキーオ(19)




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 宮沢賢治は、童話の中では東京を「トケイ」「トケウ」「トキーオ」などと呼んでいました。「トキーオ」は、エスペラント語で東京のことです。


 東京での賢治の足跡をたどります。





吉祥寺、高井戸








 いまも武蔵野のおもかげが残るこの界隈に、賢治の足跡があることは、わたしたちの興味を惹きます。

 賢治にとって、武蔵野の風情は、故郷を思い出させるなつかしいものであったのか、それとも見馴れた風景の亜流にすぎなかったのかは、わかりませんけれども‥‥







井之頭公園 
井之頭池

吉祥寺駅の南にあります。
池の水は、正面奥から「神田上水」
となって流れ出て行きます。






地図
(東京西部)







 吉祥寺には、『注文の多い料理店』の表紙と挿絵を担当した画家・菊池武雄の住まいがありました。

 菊池武雄(1894-1974)は、岩手県江刺の出身で、宮沢賢治の親友・藤原嘉藤治と岩手県師範学校の同級だったことから、賢治と知り合い、『注文の多い料理店』には、その出版にも関わっています。

 1925年に上京し、東京市内の小学校の図画教師を勤めながら、童話の挿絵などを手がけていきます。当時有力な児童文学雑誌だった『赤い鳥』に挿絵を描いていた友人・深沢省三を通じて、賢治童話の掲載を打診したところ、『赤い鳥』主宰者の鈴木三重吉から、


「俺は国家主義者だ!あんな原稿は、ロシアにでも持っていくんだなあ。」


 と言って断られた話は有名です。




 1931年9月に、「東北砕石工場」の技師として、石灰材料のセールスのために上京した宮沢賢治は、吉祥寺の菊池宅を訪問しています。


 ↓これは、深澤省三の妻・紅子の回想ですが、深沢夫妻も岩手出身の画家で、吉祥寺では、菊池宅の隣りに住んでいました。




「吉祥寺の冨士見通りに菊池さんと隣り合せに家を建てたのは昭和5年で、2月にはそこへ移りました。

 昭和6年の夏ころ、宮沢さんが菊池さんを訪ねてきて留守(夫婦で外出中)だったので、うちへ来られ、菊池さんに渡してほしいと包みをことづかりました。

 宮沢さんに私があったのははじめてですが、噂はしじゅう聞いていましたし、宮沢さんも菊池さんの隣りは深沢だとご承知でした。
〔…〕お上りくださいといってもここで結構ですと玄関に立ったままでした。たいそう暑かったせいか、水をくださいということでコップで水をあげました。夜菊池さんがきて包みをあけましたら浮世絵の和本とレコードでした。」
深澤紅子『追憶の詩人たち』(教育出版センター),pp.124f.



 菊池武雄は、「何で俺にこんなものくれたべなあ」と、お国なまりの独り言を言ったそうです。⇒:みちのくの山野草。「浮世絵の和本」とは春本だったようで、賢治の奇妙な行動のひとつではあります。







菊池武雄宅・跡 
吉祥寺本町4丁目12
木立のある公園が、菊池宅のあったところ、
右隣りの駐車場が、深澤夫妻宅の跡だそうです。
⇒:宮沢賢治と吉祥寺






 ところが、この留守時の訪問から数日もしないうちに、菊池は、賢治の止宿した旅館からの知らせで、病床に倒れた賢治を見舞うことになります:


∇ 参考記事(八幡館)⇒:
【トキーオ(12)】





「旅館から勤務先の四谷区四谷第六小学校へ電話があり『宮澤さんという人が、風邪で熱を出して寝ているのできてください』ということであった。

 菊池は
〔…〕主婦之友社うらの路地の商人宿〔神田駿河台の『八幡館』―――ギトン注〕をさがしだし」急行した。

 賢治は、『八幡館』の客室で熱を出して寝込んでいた。

 
「ひどい熱だということなので『花巻のおうちへしらせよう』というと強い口調で『いやそれは困ります。絶対帰りません。しらせないでください』というので菊池はあっけにとられた。

 『なあに風邪です。すぐよくなります』という。そして『よくなったら、ここから墨染の衣をきて托鉢でもしてまわりますよ』という。
〔…〕

 菊池武雄は賢治のことばを考え、花巻へ帰りたくない、東京で療養し、暮したいのだろうと判断、自分の住む吉祥寺界隈ならば武蔵野の風情も濃く、空気もよし、療養にもってこいと夫婦ともども相談、手ごろな小さな貸家をさがしまわり、その報告をもって再度八幡館を訪れ
〔…〕手ごろな貸家が見つかったとしらせた。

 すると賢治は『菊池さん、そんなにわたしのことを心配してくれなくてけっこうです。第一それほどご厚意をいただくほどあなたと深い関係じゃないのですから』と言った。菊池は一瞬ムッとした。花巻へは絶対帰りません、と聞いたから折角探したのである。」

堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』,圖書新聞社,pp.290f.




 この上京の際には、賢治はしばらく東京に滞在する計画があったようなのです。鈴木東蔵との手紙のやりとりでは、名古屋・関西方面へ石灰建築材料のセールスに行くことも話し合っています。

 賢治は手帳(『兄妹像手帳』)に自分の体温を記録しており、それによると、東京に着いた 9月20日頃は 37.2〜37.3℃付近で、それほどの熱でもありませんでした。数日後には高熱になり、38-39℃をさまようようになります。

 菊池が最初に訪問した時には、まだ、熱が下がったら、しばらく療養名目で東京に滞在しよう(石灰のセールス旅行が困難になったことは、東蔵に知らせています)と考えていて、滞在先を探してほしいと菊池に依頼したのでしょう。

 しかし、菊池が貸家を見つけて報告に来た時には、生命にもかかわる高熱になっていて、滞在どころではなく、医師からも、花巻に帰るように忠告されていたので、一転して断らざるをえなかったのではないでしょうか……






 ところで、この菊池武雄と賢治の“行き違い”の一件を調べていて、ハッと気づいたことがあります。

 宮沢賢治の有名な「雨ニモマケズ」は、帰郷後の闘病のなかで手帳に書きつけられたものですが、その中に、


 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
 東ニ病気ノコドモアレバ
 行ッテ看病シテヤリ
 西ニツカレタ母アレバ
 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
〔…〕


 という一節があります。


 「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ/小サナ萓ブキノ小屋」とは、もしかすると花巻や盛岡ではなくて、武蔵野の一角に菊池夫妻が探しだしてくれた「小さな貸家」を、賢治は、もはや二度と上京することもかなわなくなった病床で、想い浮かべていたのではないでしょうか?。。。


∇ 関連記事はこちら(1931年9月の上京と急病)⇒:
ギトンのあ〜いえばこーゆー記
「キメラ襲う(1)」(2)運命の日








成蹊大学 
旧・成蹊高等学校
吉祥寺北町3丁目

賢治が、吉祥寺の菊池宅を訪ねた当時、成蹊高等学校は、
そこから 500mほどの場所で開学したばかりでした。











 さて、つぎの訪問先は、杉並区高井戸の尾崎喜八旧居跡です。




神田上水
(井之頭用水) 高井戸駅付近
井之頭池から流れています。





 尾崎喜八(1892-1974)は、高村光太郎と白樺派の影響下にあった詩人・翻訳家で、東京市京橋の造り酒屋の跡取り息子として生まれ、商業学校を出ましたが、恋愛のために父に勘当され、以後独学で仏独語を習得し、ロマン・ロラン、ヘッセ、リルケなどの翻訳を世に出しました。

 こんにちでは、田園詩人・山岳詩人としても、高い評価を受けています。

 尾崎喜八は、1924-28年のあいだ、豊多摩郡高井戸村(現在の杉並区上高井戸付近)に畑付きの一軒家を得て、新妻とともに入居し、園芸耕作と著述の生活を送りました。

 宮沢賢治が尾崎宅を訪れたのは、この間 1926年12月のことでした。




 この高井戸の新居について、『尾崎喜八 略年譜』では、つぎのように書いています:



「大正十二年(三十一歳)1923年

 詩作もその発表も、翻訳の仕事もすべて前年と変りなく、実子との親近も深まってついに相愛の間柄になった。
〔…〕

 九月一日正午にいわゆる関東大震災。自宅にも水野氏の家にも多少の被害はあったが、遠く東京の空にそびえ立つ大火災の煙柱を見ると急に矢も楯もたまらなくなり。交通機関のすべてとだえた戦場のような混乱の中を、京橋区新川の、今では親子の縁もない元の我が家へと数里の道を駆けつけた。
〔…〕

 要するに、この事あって以来急転直下、父親と私との間に和解が成り、そのうえ水野実子と結婚したいという希望もすらすらと受けいれられた。
〔…〕

 東京府豊多摩郡高井戸村大字上高井戸の畑地の中に一戸を新築して、そこに新夫婦で別居するがいいという事になった。玉川上水を窓のむこうに、井ノ頭用水を背に、居ながらにして遠く富士や丹沢の山々を見ることのできる洋風二間の家と二反歩の畑地。
〔…〕



大正一三年〜昭和三年(三十二歳〜三十六歳)1924年〜1928年

 十三年三月水野実子(十九歳)と結婚。文学の仕事と畠仕事に専念する高井戸時代の生活がはじまった、畠仕事とは言っても二人とも全くのしろうとだったから、何を作るにしても一々江渡氏の家の人達や近所の農家の指導にまった事は言うまでもない。私たちは怪しげな乎つき腰つきで鍬を動かし、肥料桶を運んだ。一個の桶を二人で担うのだった。そして百姓なみに旱天には雨を祈り、虫害を憂え、雀を追った。輪作に間作に、私たちの作った主なものは麦、大根、甘藷、里芋、白菜、馬鈴薯、胡瓜、葱などだった。それぞれの季節の収穫は、これを粉にしたり、漬物にしたり、乾燥したりして、貯蔵のできる物はすべて貯蔵した。さまざまの花も作った。これは奨められて切り花にして売ってもらった。鶏も白色レグホーンを飼った。その卵は食膳を賑わした。ほとんど収入にもならない詩を書き、幾らかは生活の足しになる散文や翻訳の仕事をしながらの自給自足の生活だったから、毎日同じような物が食卓にならぶ事が多かった。
〔…〕

 多くの、実に多くの友人の来遊があった。高田博厚、片山敏彦、上田秋夫のような連中は荻窪や西荻窪に住んでいて近くもあったので、頻繁に訪ねても来れば訪ねても行った。高村氏も四五回来た。
〔…〕ロマン・ロランの会という小さい親しいグループを作っていて、集まるたびに寄せ書の手紙をロランその人に送っていた。ヴィルドラックは、それ故、言わばロランの友情の使節として私たちには会いに来たのだった。〔…〕

 十五年の五月にはフランスの詩人シャルル・ヴィルドラック夫妻が来日して、この高井戸をも訪れた。私たち
〔…〕昭和三年三月改めて実家に入籍して家督相統。同時に思い出多い高井戸を後にして東京市京橋区新川の実家に移った。」







 当時尾崎喜八の家と畑があった場所は、番地がわからないために正確な特定は困難ですが、「高井戸村大字上高井戸」で、「玉川上水を窓のむこうに、井ノ頭用水を背に」していたという記載から、

 現在の環八道路・中央道交差付近で、高井戸駅側ではないかと思われます。かつての「玉川上水」の暗渠の上に中央道が通っており、「井ノ頭用水」とは、井之頭池から流れ出ている「神田上水」のことと思われます。




杉並区上高井戸3丁目 
広い通りは、環状八号線。









「宮澤賢治生前の唯一の詩集『春と修羅』は、関東大震災の翌年
〔…〕発行されたが、それは奇しくも今連れ添っている妻と私とが結婚して、その頃の東京府豊多摩郡上高井戸の田舎の新居に家庭生活を営み始めた同じ春のことだった。

 或る日幾つかの郵便物にまじって、その畑中の一軒家へ一冊の詩集が届けられた。差出人は遠い岩手県に住んでいる未知の人で、タンポポの模様を散らして染めた薄茶色の粗い布表紙の背に、『詩集 春と修羅 宮澤賢治作』とあった。私もその頃『高層雲の下』の原稿をまとめていたが、今と違って知らない人から自著の寄贈を受けることなど稀だったので、新婚早々のおおらかな気分、世の中との新しい交わりや人の訪れを広々と迎えようとする気持ちも手つだって、この未知の詩人からの贈り物を一つ大いなる祝福のように喜んだ。ときに宮澤賢治二十八歳、私は三十二歳だった」

尾崎喜八「賢治を憶う」,in:『小原流挿花』,1968年1月号.
⇒:尾崎喜八資料・第7号




 ああその古枝をかざる鮮かな銀と薄みどり、
 花梨
(かりん)の木陰に朝の水汲みに
 無量の地下水は由旬
(ゆじゅん)かなたの空よりも青い、
 野天厨房の釜の蓋を
 飯はただならぬ歓喜を押し上げ、
 田園の奥深い春を尋ねさまよう微風
(そよかぜ)
 あけひろげた窓や戸口を吹きめぐって、
〔…〕

 やがて来るのは昼間の静寂、仕事の時、
 杉戸をへだててそれと聴こえるペンの走り、
 絹のおもてを縫いすすむ針のあゆみ、
〔…〕

 けれどもやがて楽しい休息の時が来れば
 私たちの熱した心はときはなたれ、
 やがて太陽は傾き、木々の影の長くなるまで
 のびのびとした村の散歩に出かけるのだ、
 もう仏ノ座が畑の隅を空色にいろどり、
 紫雲英
(れんげそう)が田圃のあぜを赤くしているかと。〔…〕

尾崎喜八第三詩集『曠野の火』(1927年)より「天然の一日」(部分)⇒:尾崎喜八文学館







 宮沢賢治は尾崎に、自費出版の『春と修羅』を寄贈し、尾崎はこれをたいへん喜んで受け取っていたこと、また、高井戸での半農生活を表白した尾崎の詩↑を見れば、このふたりの詩人は、ひじょうに近い道を歩いていたように思われます。

 尾崎の生活ぶりが、賢治の「羅須地人協会」での自耕生活に近いだけでなく、「古枝をかざる鮮かな銀と薄みどり」「無量の地下水は由旬かなたの空よりも青い」といった詩の表現も、『春と修羅』からの影響を感じさせます。同じ時期のほかの詩には、雲のすがたを方解石にたとえて描いたものもあります。

 しかし、賢治が尾崎宅を訪問した時、あいにく喜八は留守でした。




杉並区高井戸東2丁目








「講師 宮沢賢治が先生のお宅に訪ねていらしたことがあったそうですね。

 尾崎 ありましたね。ちょうど私は旅行中で留守だったんです。
〔…〕宮沢さん、そのいらした用の中には、もうひとつ私に会う、私の顔を見ることと、もうひとつは童話を書いていらっしゃって、チェロ弾きゴーシュですか、そのチェロの弾き方ですか、それをまあ、簡単に教えてもらいたいと言って。私はその時分、今ですとNHK交響楽団ですが、その時分近衛秀麿さんがやっていた新交響楽団、そのチェロの人を知っておりましたので、その人に、その、紹介してくれって、してあげたらしいんです。家内が紹介してあげたんですね。そこでもって2時間ぐらいそそくさとやってもらって帰られたそうです。その時、高村さんの所に寄ったらしいんですよ。

 講師 先生のお宅へ行ってからその後で。

 尾崎 はあ。

 講師 そうですか。

 尾崎 高村さんはお会いになったらしいですよ。

 講師 そうですか。

 尾崎 私は、ついに会わない。」

NHK教育テレビ高校講座「現代国語」1970年8月3日放送.
⇒:尾崎喜八資料・第7号


∇ 関連記事(高村アトリエ訪問)⇒:トキーオ(18)






「昔賢治が喜八を訪ねてこられた事があり、生憎喜八は留守で実子だけがお逢いした。その時賢治にチェロを短時間で習いたいのだが誰か先生を紹介して欲しいと頼まれ、当時親しくしていた新交響楽団のトロンボーン奏者でチェロも弾かれる大津三郎氏を紹介した事があった、
〔…〕

 実子は、『喜八の不在中に岩手から賢治氏が訪ねて来られ、頼みに応じて大津氏ならその望みを叶えてあげて下さるだろうと思って住所氏名を教え、尾崎家から聞いてきたとおっしゃるようにと言ってお帰しした。』と覚えているが、その時期は定かでない。しかし、我が家ではこの事柄は私の幼い頃から言い伝えられてきている。」

「尾崎喜八と宮沢賢治」⇒:尾崎喜八資料・第7号







杉並区高井戸東2丁目

周囲はすべて宅地化されて、かつてのおもかげは
ありませんが、この一角だけは都市計画の
「生産緑地地区」として空き地が残っています。


 


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