ギトンの◇ギャるリ★ど☆タブろ◆

トキーオ(18)




ランキングヘ




 宮沢賢治は、童話の中では東京を「トケイ」「トケウ」「トキーオ」などと呼んでいました。「トキーオ」は、エスペラント語で東京のことです。


 東京での賢治の足跡をたどります。





西ヶ原、駒込林町








 東京の賢治の足跡も、たどりつくして残り少なくなりました。あとは、憶測の域を出ない立ち寄り先が少なくないのです。

 このへんで、比較的足跡をたどりやすい有名人宅――有名人だけに、本人や家族の証言が文章として残されています――をめぐってみたいと思います。







“荒川の流れ” 
「北とぴあ」17階から。
手前を蛇行して流れるのが旧・荒川(隅田川)、
遠方の高架と緑の土手が現・荒川(荒川放水路)。



 西ヶ原、大日のもとに眺むれば荒川白く流れ渡るも

保阪嘉内・歌稿ノート『旅の歌 ――関東の旅――』(1917年3-4月)より






 東京市北区西ヶ原にあった農商務省『農事試験場』と『東京高等蚕糸学校』は、高等農林学校の修学旅行で決まって訪れる見学先であったようです。

 宮沢賢治は 1916年3月に、保阪嘉内は 17年3月に、ここに来ています。↑上の短歌は、嘉内が訪れた際のもの。試験場と蚕糸学校の裏の崖ふちからは、荒川、千住方面を広く見渡すことができます。




「東京高等蚕糸学校」跡の碑 
北区西ヶ原



∇ 参考記事⇒:
荒川の碧き流れに(13)
(王子・西ヶ原)








 賢治と嘉内の恩師・関豊太郎博士は、1920年に盛岡高等農林学校を退職し、東京・西ヶ原の国立『農事試験場』に移って土壌学の研究を続けていました。

 賢治は、1921年1-8月の“家出”東京滞在時に、『農事試験場』に関博士を訪ねており、その後、嘉内も誘って3人で花見をしたという推測もあります。



「ご存知でせうが盛岡の関先生が今後学校をおやめになりました 二十日頃出京なさるそうです 暫らく西ヶ原で火山灰の研究をやると云ってゐられました。あなたは軍服を着けて一遍お見舞なさいませんか。

 この間大雨で私の町は内外大分害をうけました。

 来春は間違なくそちらへ出ます 事業だの、そんなことは私にはだめだ 宿直室でもさがしませう。まづい暮し様をするかもしれませんが前の通りつき合って下さい。今度は東京ではあなたの外には往来はしたくないと思ひます。真剣に勉強に出るのだから。

 暑いでせう。御健康を祈ります。
〔…〕

宮沢賢治書簡[168]1920年8月14日付 保阪嘉内宛て




 ↑この手紙の 1920年には、保阪は兵役で東京渋谷の近衛輜重兵大隊にいました。封書が失われているので宛先住所はわかりませんが、輜重兵大隊に宛てたものと思われます。

 「来春は間違なくそちらへ出ます」と書き、翌 1921年早々に東京へ家出することを、親友保阪には予告していたことがわかります。



∇ 関連記事⇒:
荒川の碧き流れに(14)
(王子・尾久)


∇ 関連記事⇒:
荒川の碧き流れに(15)
(江北)









 関博士は、転勤とともに『農事試験場』のすぐそばに自宅を移していました。賢治は、1921年以後、上京の折には何度か関宅を訪問しているようです。

 


関豊太郎宅・跡 
現・北区立飛鳥中学校




関豊太郎宅・跡 
現・北区立飛鳥中学校









 さて、つぎの行き先は、駒込林町の高村光太郎・旧宅です。このあたりは今でも閑静な住宅街ですが、夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、佐藤春夫など当時の“文豪”の旧宅――最近の人では、よしもとばなな――が集まっている界隈と言えます。




文京区駒込林町 
現・千駄木5丁目






 宮沢賢治は、1926年12月に、高村アトリエを訪ねていますが、この訪問については、光太郎、賢治ともに書き残したことがなく、手塚武という詩人仲間の人
(当時、読売新聞記者で、自ら発行する詩誌『氾濫』に光太郎の詩を載せたほか、賢治とともに草野心平主宰の詩誌『銅鑼』の同人だった。)が伝えているだけで、しかもその内容に変遷があるため、この訪問は謎に包まれています。




「僕の東京住ひ中、たつた一度出て来た宮澤君と、余り突然だつたので、僕はその機会を失した。今にして非常に残念に思ふ。高村さんだけが逢つた。後で草野君と高村さんを訪ねた時、いろいろ君の話をきき、その時、今向き合つてゐる高村さんに、君の風貌が大へん似通つてゐるやうに感じた、ことを記憶してゐる。君の持つあの真摯、素撲な生活精神は、その人に対つて、いよいよ信頼を高められたと言ふ。君の高潔無比な人格に接し得なかつたのは誠に遺憾の極みであつた。」

手塚武「宮澤賢治君の霊に」1934年1月 より。



 つまり、手塚氏が、賢治死去の 4ヶ月後に発表した追悼文では、光太郎と賢治の邂逅は、アトリエの玄関で交された立ち話だけだった、自分はその場に居合わせることができず、生前の賢治に一度も会う機会がなかったのが残念だ、と言うのです。

 ところが、同じ手塚氏が、『校本宮澤賢治全集』(『資料篇』を除き 1973-77年発行)を編集中の天沢退二郎氏に寄せた書簡では、じつは宮沢賢治とは、高村光太郎と自分の3人で会った。アトリエで夕方まで話し合っただけでなく、そのあと3人で上野のレストラン『聚楽』まで歩いて行き、鍋をつつきながら一杯やり、そこでまた1時間半にわたって懇談したと証言したのです。

 驚いた同『全集』「年譜」担当の堀尾青史氏が、手塚氏に問い合わせ、「よくよく念を押したところ」、手塚氏は「この記憶に絶対間違いはない。」と断言したので、この話は『校本全集』でも『新校本全集』でも、「年譜」に載ることになりました。
(入沢康夫「賢治の光太郎訪問」, in:ders.『ナーサルパナマの謎』,2010,書肆山田,pp.231-233.)

 しかし、この“3人で聚楽”の話には大きな矛盾があって、たとえば、レストラン『聚楽』が開業したのは 1934年のことでして、しかも第1号店舗は新宿で、賢治生前に『聚楽』という店は存在しなかったようなのです!『聚楽』が上野に店を出したのは 1936年だそうです。

 高村光太郎自身が、宮沢賢治が訪ねて来た時のことを、生前に語っていた聞き書きもあります↓。それによると、やはり玄関での短時間の立ち話だけで、賢治は再訪を約したにもかかわらず、生前二度と会うことがなかったと言って、光太郎も残念がっています。

 

「この時の様子を、筆者は光太郎から直接聞いて手帖に書き止めておいた。それは次の通りである。

 宮沢さんは、写真で見る通りのあの外套を着てゐられたから、冬だつたでせう。夕方暗くなる頃突然訪ねて来られました。僕は何か手をはなせぬ仕事をしかけてゐたし、時刻が悪いものだから、明日の午後明るい中に来ていただくやうにお話したら、次にまた来るとそのまま帰つて行かれました。

 あとで聞いたら、尾崎喜八氏の所にも寄られたさうで、何でも音楽のことで上京されたらしく、新響の誰とかにチェロを習ふ目的だつたやうです。十日間で完成するつもりだと云っておられたさうです。

 あの時、玄関口で一寸お会ひしただけで、あと会えないでしまひました。また来られるといふので、心待ちに待つてゐたのですが……。口数のすくない方でしたが、意外な感がしたほど背が高く、がつしりしてゐて、とても元気でした。」

佐藤勝治「光太郎と賢治――ある冬の会見」, in:『みちのくサロン・創刊号 高村光太郎特集』,みちのく芸術社,1974年9月,pp.41f.


 【参考】⇒『みちのくの山野草』2013.5.21.


 「意外な感がしたほど背が高く、がつしりしてゐ」たという部分を意外に思う読者もいらっしゃるかもしれませんが、これは、1928年に病床の賢治に付き添った住み込み看護婦の証言↓と一致しています。この証言は 2007年に発掘されたもので、証言者はそれ以前に人に語ったことはほとんどないとのことです。



「病気の間、賢治は弱っているようでしたか?

 『そうですね。そんなにやせ細ってというほどではありませんでしたが‥‥骨格が大変良い人なんですよ。
〔…〕背も割合高い方です。お父さんがそうでしたから。弟の清六さんも背が高くて、清六さんの方がもっとお父さんに似て、体格ががっちりしていました。お母さんも背が高い方で、あそこのお宅は皆、背が高かったですね。』」
大八木敦彦『病床の賢治』,2009,舷燈社,p.20.






 これで、「玄関で立ち話」の線でこの件は解決‥‥手塚氏の戦後の話は、高齢になって記憶が混乱したせいだろう‥

 ‥などと思っていると、今度は思わぬほうから、↓こんな証言が飛び出してきました:



「ところで高村さんは生前の賢治と会っていない。賢治が訪問したのは確かだが、その時に高村さんは留守だったというのが事実だ。これは高村さんからきいたことだから間違いないであろう。」

小倉豊文『宮澤賢治聲聞縁覚録』,1980,文泉堂出版,p.129.



 小倉豊文氏は、もともと中国地方史・仏教史を専門とする歴史学者で、宮沢賢治研究は『宮沢賢治の手帳研究』
(1952年)からですから、高村からの聞き取りも戦後のものでしょう。

 それにしても、“まったく会っていなかった”という証言内容は突出しています。ただ、光太郎がそう言ったと言うだけで、――それじゃ今まで、手塚にも草野にも、他の誰彼にも、どうしてウソをついてきたのか?!――その根拠も事情も書かれていないので、判断がつきかねます。

 けっきょくのところ、高村光太郎が、“賢治来訪”の直後から、「玄関で立ち話をした」と、仲間の詩人たちや何人もの他の人たちに語っていたこと自体は、まぎれもない事実です。

 この疑いようのない事実から出発すれば、手塚第二説(3人で『聚楽』に出かけて語り合った)は、手塚氏の記憶の混乱と考えるほかないでしょう。もしそれが真実だとすれば、高村と手塚がぐるになって、40年以上にわたって賢治との語り合いを仲間に隠しつづけていたことになりますが、二人がそんなことをしなければならない理由は見いだしがたいからです。

 問題は小倉説ですが‥‥、その場合は、留守番をしていた智恵子か誰かから、「明日あらためて来る」という賢治の言伝てを聞いた光太郎が、手塚と草野には、「自分もちょっとだけ話したけどね。」などと、つい口を滑らせてしまった。ところが、翌日賢治が来なかったために、盛り過ぎの「ちょっと」が、そのまま“事実”になってしまい、いまさら訂正できなくなって、光太郎は嘘をつき通すことになってしまった‥ ということになるのでしょうか?

 ギトンは、それも考えにくいように思います。その場合には、草野心平らは、光太郎のハッタリを真に受けて信じながら、宮沢賢治を熱っぽく語り合った。それを見た光太郎も、ほっとしてか、にやにやしながらか、自分の嘘がバレないのをいいことに、話に加わり、「聖人宮沢賢治」の虚像制作に一役買った‥ということになるのです。。。

 思うに、高村光太郎を中心とする詩人サークルの中で、宮沢賢治に対する評価がしだいに高まってゆくのは、この 1926年ころを契機としているように見えます。光太郎自身、『春と修羅』をあらためて読みなおし、「永訣の朝」三部作から「智恵子抄」のモチーフを借り入れるほど深い影響を受けるようになったのは、これ以後のことと思われるのです。

 そこには、高村光太郎が、“賢治来訪”によって受けた強い印象を読みとることができると思うのです。光太郎の“宮沢賢治観”に、買いかぶりと(良すぎるほうへの)誤解が多分に見られるのも、ごく短時間の会見から強烈な印象を受け、それがそのまま人物観をつくってしまったためと説明することができます:



「こんなにまことの籠つた、うつくしい詩が又とあるだろうか。
〔…〕

 宮澤賢治といふ詩人は
〔…〕朝から晩までの繁忙の生活の間に彼はいつでも手帳を懐にし、〔…〕青空の下、物置の隅のきらひなく、心象の湧き起るままに其を言葉にした。言葉にしては歌った。其処にまつたく新しい詩の一種族が期せずして生れた。」
高村光太郎「宮澤賢治の詩」,1938年.




 すでに↓ほかのところで論じたように、“忙しいしごとの合間に詩を書きつける生活詩人”という、高村の↑このイメージは、賢治に対する買いかぶりであって、事実ではないと言えます。しかし、そういう先入見を高村が持つことになったのは、“特異な野性人との短時間の会見”によって、強烈な印象を受け、それを土台として作品を読みこんでいったため――ではないかと思われるのです。


∇ 本記事はこちら⇒:〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 6.1.8.








高村光太郎宅・アトリエ・跡 
千駄木5丁目




高村光太郎宅・アトリエ・跡 
千駄木5丁目




 ところで、手塚氏以外に、草野心平も、高村から“宮沢賢治来訪”の話を直後に聞いていて、草野は、つぎのように書き残しているそうです:



「また一方東京の私たちも賢治に就いては雑誌の同人としてまたその作品の読者としての立場から噂していた程度のものであった。

 『草野君も文通だけでまだ会つたことのない宮澤賢治氏のことなど絶えず語り合つた。宮澤賢治氏がある夏に一寸、高村さんを訪問してすぐまた花巻に帰つた話を高村さんから草野君が聞いてすぐ私に話してくれた。私は、牧場と幅の広い肩とごつい手と製図とセロと『春の修羅』をいろんな風に結び合はせた。』
(土方定一「高村光太郎、ヨネ・野口と宮澤賢治氏」, in:草野心平・編『宮沢賢治追悼』,1936)

 その賢治の光太郎訪問も、恰度高村さんが出掛けるときだったので玄関での立話だけだった由で、だから高村さん自身も賢治に就いて知っているのはその作品のみといっていい程度だった。けれどもその作品に就いてなら私たちは、高村さんもひつくるめて、熱情を以て語りあった。」

草野心平「光太郎と賢治」より。


 【参考】⇒:『宮澤賢治の詩の世界』「聚楽の二階」の賢治と光太郎(2)



 “賢治来訪”に先立つ 1926年10月の高村光太郎書簡から、当時、高村と、水野葉舟、黄瀛ら詩人仲間の間で、『注文の多い料理店』を貸し借りしたり、取り寄せを頼んだりしていたことがわかります。 

 草野心平、高村光太郎を中心とする詩人圏では、当時、宮澤賢治とその作品を「熱情を以て語りあ」う雰囲気があったのです。

 『春と修羅』『注文の多い料理店』の2冊を自費出版した 1924-5年ころは、賢治は、作品が世間に受け入れられないことに苦しんでいたのですが、その後まもなくして、今度は、著名な詩人たちのほうが、賢治に背を向けられて残念がるほどになっていました。

 宮沢賢治が、生前まったく無名のまま世を去ることになったのは、ほんとうにわずかな行き違い、すれちがいのためだったのかもしれません‥‥






「お葉書ありがたう存じます。八月十日頃ご来花の由お待ちして居りますから、どうかお立ち寄りねがひます。高村氏草野氏等同人雑誌を作るとの事私例によって逃げました。尚お目にかかっていろいろ。」

宮沢賢治書簡[479][1933年7月]16日付 母木光宛て。



 当時、高村光太郎、草野心平、中原中也らは、有名な詩誌『歴程』の創刊を準備していました。賢治は、参加の誘いを断っていたことがわかります。




 


上野駅不忍口前 


正面の建物の2階に、戦後は、翫レ楽経営の
レストラン「聚楽台」が入っていました。
戦前に「上野の聚楽」があったのは、もっと奥の
上野公園の中だそうです。





∇ 参考記事
(上野公園)⇒:
トキーオ(9)





∇ ひとつ前の記事⇒:トキーオ(17)


∇ 次の記事⇒:トキーオ(19)





.

トピックス

ブログランキング

人気のブログテーマ記事

テーマ:反抗期ってあった?