ギトンの◇ギャるリ★ど☆タブろ◆

青 森(2)




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浅虫温泉、青森





 東北本線
(現・青い森鉄道)で野辺地を過ぎると、列車は陸奥湾の海岸線に沿って走ります。

 宮沢賢治は、生涯に3度、北海道方面への旅行の途次、この鉄路を往復しています。









地図 







「五月十九日

      *

いま汽車は青森県の海岸を走っている。海は針をたくさん並べたように光っているし木のいっぱい生えた三角な島もある。いま見ているこの白い海が太平洋なのだ。その向うにアメリカがほんとうにあるのだ。ぼくは何だか変な気がする。

海が岬で見えなくなった。松林だ。また見える。次は浅虫だ。石を載せた屋根も見える。何て愉快だろう。
〔…〕

宮沢賢治『ある農学生の日誌』より。
(原文は旧仮名遣い) 



 これは、1924年5月の花巻農学校・北海道修学旅行に付き添った宮沢賢治が、5年後の 1929年に、参加した生徒の日記として創作したもので、作品上の日付は 1926年5月になっています。






「この日誌は〔ある農学生の日誌〕と名づけられている。
〔…〕

 二年まえの旅行をふりかえり、かつ、引率教師としてではなく、引率された側の農学生の身にかわってかいた日誌なのである。賢治らしい感覚というか、手のこんだやり方である。

 さて、花巻から、北上・南部平野
〔そして三本木原――ギトン注〕をひた走りに走り続けた汽車は、ようやく海岸にでる。はじめて海が、その姿をみせるのは、野辺地付近であるが、より一層、海らしい展開をみせるのは、なんといっても浅虫海岸である。夏泊半島の山地をよぎり、西平内の駅〔賢治死後の1939年開設―――ギトン注〕を過ぎてまもなく、前方に、海が、待ちかまえていたかのように、その洋々たる姿をくりひろげる。」
宮城一男『宮沢賢治との旅』,pp.26-27.







(ごめ)島 浅虫海岸



 東北本線(現:青い森鉄道)で夏泊半島基部の丘陵地を越えると、ようやく車窓いっぱいに青い海が広がります。

 『ある農学生の日誌』に「木のいっぱい生えた三角な島」と書かれているのは、↑この「鴎島」です。

 鴎島を眺めた後、下り列車は白根崎のある小さな半島を横切って、浅虫海岸に出ます。

 たしかに、海岸の「松林」が見えます。そして、「湯ノ島」が、沖合にぽっかりと浮かんでいます。「湯ノ島」には、島祠の赤い鳥居が見えます↓







白根崎 
浅虫海岸



      島 祠

 さまざまの鮮らしい北種の木々が
 みなさわやかに息づいて
 始原の春の三角島を飾ってゐる

   ……それは地球の気圏の底の
     ひとつの珪化園
(シリカガーデン)である……

 水はもちろん水銀で
 たくさんのかがやかな鉄針は
 水平線に並行にうかび
 ことにも繁く島のまはりに輻輳すれば
 ひとびとの眼もなかば眩んだやうになる

   ……風のねむりと鷗の声

 
(2行不明)

 まっ青な色丹松もあるし
 水際にはあらたな銅で被はれた
 巨きな枯れたとどまつもある

『春と修羅・第2集』#131,1924.5.23.〔つめたい海の水銀が〕〔下書稿(一)〕






 「始原の春の三角島」とは、浅虫の「湯ノ島」のことです。「島祠」の鳥居がはっきり見える島は、ほかにないからです。




湯ノ島 
浅虫海岸






「『硅化花園』という一句が印象的だ。じつは、浅虫の海岸や島をつくる岩石は、その種類は、安山岩であったり、流紋岩であったり、するが、いずれにしても非常にちみつで硬い。ハンマーでたたくと、『ピーン』とはねかえる位だ。これは、『珪化作用』といって、これらの岩石が、まだ地下にあったとき、珪酸分(石英分)に富む高温の熔液がしみこむ作用を受けたためだ。

 窓外に展開する浅虫の岩石に、『珪化作用』をよみとる賢治の地質学的鑑識眼はさすがである。そして、そんな岩石に囲まれて、多種の植物に色どられる浅虫の島々を、賢治は、『硅化花園』と名づけたのである。」

宮城一男『宮沢賢治との旅』,p.30.



 「硅化花園」「硅化園」「シリカガーデン」―――これらは今日では“ケミカル・ガーデン”と呼ばれる化学実験を指しています。水ガラスの水溶液中に重金属塩の水和結晶を入れると、結晶から“芽”が出て、まるで植物のように生長して行きます。“植物”は、塩の種類によって硫酸銅(濃緑)、塩化第一鉄(淡緑)、塩化第二鉄(褐色)、塩化コバルト(桃白色)などの色を呈します。、

 デパートなどでキットを売っており、劇薬も使わないので、家庭でもかんたんにできる化学実験です。


 ⇒:ケミカル・ガーデン(動画)

 ⇒:ケミカル・ガーデン(動画)







浅虫海岸と湯ノ島 
青函フェリー航路から。









「     *

青森の町は盛岡ぐらいだった。停車場の前にはバナナだの苹果だの売る人がたくさんいた。待合室は大きくてたくさんの人が顔を洗ったり物を食べたりしている。待合室で白い服を着た車掌みたいな人が蕎麦も売っているのはおかしい。
 
 
〔…〕

宮沢賢治『ある農学生の日誌』より。
(原文は旧仮名遣い) 




青森駅前広場 







「当時の青森駅前には、あまり建物はなく、いわゆる原っぱで、りんごや手土産品の街頭売りがさかんだったという。その時代のなごりとでもいおうか。いまでも、青森駅前の市場は、素朴そのもの。りんご売りのオバさんが、威勢のよい声をかける。」

宮城一男『宮沢賢治との旅』,p.31.



 宮城氏が 1978年に↑こう書いた駅前広場の青空市場も、今は絶滅してしまいました。

 ずうたいばかりでかくて薄汚れたホテルや、見栄えを気にしない観光施設の陰気なビル群が、ぎっしりと立ち並んでいます。





∇ 関連記事(青森挽歌)⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 7.1.88



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