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八戸、種市




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八戸
(はちのへ)、種市(たねいち)





 八戸は三陸北端の港町ですが、明治時代に鉄道ができる前、海上交通が主流だった時代には、内陸部よりも賑わっていました。賢治の時代にも、岩手内陸の人々にとっては、八戸は仙台より近い"外界への窓"でした。













八戸港 
鮫から望む。






     八戸

 さやかなる夏の衣して
 ひとびとは汽車を待てども
 疾みはてしわれはさびしく
 琥珀もて客を待つめり

 この駅はきりぎしにして
 玻璃の窓海景を盛り
 幾条の遥けき青や
 岬にはあがる白波

 南なるかの野の町に
 歌ひめとなるならはしの
 かゞやける唇や頬
 われとても昨日はありにき

 かのひとになべてを捧げ
 かゞやかに四年を経しに
 わが胸はにわかに重く
 病葉と髪は散りにき

 モートルの爆音高く
 窓過ぐる黒き船あり
 ひらめきて鴎はとび交ひ
 岩波はまたしもあがる

 そのかみもうなゐなりし日
 こゝにして琥珀うりしを
 あゝいまはうなゐとなりて
 かのひとに行かんすべなし

宮沢賢治『文語詩未定稿』より「八戸」




 詩のタイトルは「八戸」ですが、「この駅はきりぎしにして」とありますから、この駅は海や港から遠い東北本線の八戸駅ではなく、八戸線「鮫
(さめ)」駅です。↓下に引用した宮城一男さんの解説によれば、当時鮫駅は、海岸の断崖のへりにありました。

 賢治の『文語詩ノート』に、


 「八戸海岸 鮫駅 海光ノ中ニテ物思ヘル女」


 と、詩作のためのメモが記されています。1926年に訪れた際、鮫駅で海を眺めている女性の姿が印象に残ったのでしょう。

 「うなゐ」は、髪を首のあたりに垂らして切りそろえた子供の髪型。少女の年齢で裕福なパトロンの若妾にされ、いまは棄てられて琥珀を売って生計を立てている女の独白詩として創作しています。モデルとなる人物がいたかどうか分かりませんが、当時は珍しくない話だったでしょう。

 琥珀は、マツなどの樹液が化石化した準宝石。この近くでは、久慈産のものが有名です。



∇ 参考画像(琥珀)⇒:
【真空溶媒(2)】






「いまなお、鮫駅は、昔の面影を、そこかしこにとどめている。ただ、当時とまったく異なる点は、賢治一行がたたずんだ鮫駅は、のちにその詩句に『この駅はきりぎしにして』と歌われたごとく、海にのぞむ断崖のふちにあったことである。埋め立てによって拡張された、いまの駅一帯の敷地からは、その海さえみえない。」

宮城一男『宮沢賢治との旅』,1978,津軽書房,p.63.










(かぶ)島 八戸市鮫
神社のある丘が蕪島。賢治の時代までは、
水面に囲まれた島だった。現在では、
防波堤と砂洲によって、陸地と繋がれている。



「むかしの蕪島は、その名のとおり"島"だった。だから、賢治一行は、漁船をやとって島めぐりをしたという。賢治一行――といったのは、もとより、宮沢賢治と赤ちゃんを背にした妹のシゲさんと、そして、当時女学生だったクニさんの計三人半である。

 それは、大正15年
〔1926年。3月に農学校を退職した年―――ギトン注〕夏のこと。蕪島のまわりには、海女が数人いて、あわびとりの作業をしていたともいう。もっとも、この地方では、"あま"とはいわず、"かずき(海士)"といっている。

     
〔…〕

 大正15年頃の蕪島は、のどかだった。対岸の浜には、砂がいっぱいあった。賢治一行は、ハダシで、その砂浜を走りまわった。ときおり白いカモメが海辺に舞い下りてくる。青い水面には、ヒョコッ、ヒョコッと海女の頭がでる。

     
〔…〕

 
〔ギトン注―――蕪島の〕裏側は、岩礁地帯である。有名なウミネコのふるさとにふさわしく、表面の大半が、そのフンで灰色に変色している。しかし、割ってみると、濃い緑色で、角れきがたくさん含まれた岩石であることがわかる。じつは、この岩石は、古生代の末期か、中生代という時代に、海底の火山活動で噴出した火山灰や火山れきがあつまってできたものである。〔…〕八戸海岸は、北上山地の古生代中生代層の延長部(北の末端部)にあたる。」
宮城一男『宮沢賢治との旅』,pp.55-58.



 なお、八戸では、この年に労農党支部が結成されており、翌年は花巻でも支部結成、宮沢賢治がそれを支援した(じつは影の「首領」だったという説も)のは有名な話です。この八戸旅行の隠れた目的は、労農党員の機密連絡・組織活動だったのかもしれません。宮城氏も、そういう推測を述べています。










種市駅 




 妹たちと八戸を訪れた前の年 1925年の正月に、賢治は単独で八戸から三陸海岸沿いに釜石まで旅行しています。久慈線(現・八戸線)が種市まで開通したばかりでした。

  賢治は、1月5日夜か6日未明の列車で種市に到着し、徒歩で南へ向かったと思われます(↓下に引用した詩「暁穹への嫉妬」参照)。



∇ 関連記事(三陸海岸の旅)⇒:
【仙人峠と釜石(2)】










腕木式シグナル 
八戸線種市駅




 種市駅に、現在は使われなくなった腕木式信号機が、記念物として残されていました。賢治の時代には、この腕木式が、鉄道シグナルの主流(すべて?)でした。



「この腕木式信号機は、大正13年の八戸線種市駅開業当時から平成16年10月まで種市駅で使用されていたものです。

 腕木式信号機は、路線脇の支柱の頂上付近に取り付けられた羽子板のような腕木を動かすことにより、列車の進行や停止を運転士に合図する装置で、鉄道創設期から全国で広く使われていました。腕木が水平なら『停止』を、45度下がった状態で『進行』を示すもので、ホームの駅員がレバーで操作していました。

 列車運行システムの近代化が進むにつれて、徐々に姿を消し、全国のJRの中で最後まで利用されていたのが八戸線の腕木式信号機でした。

 寄贈:JR東日本盛岡支社  設置:洋野町(平成19年3月)」

現地案内板より。




 入合の町のうしろを巨なるなめくじの銀の足が這ひ行く


 うろこぐも月光を吸ひ露置きてぱたと下れるシグナルの青

宮沢賢治『歌稿A』#221,222.



      ※

 白樺に
 かなしみは湧きうつり行く
 つめたき風のシグナルばしら。
 
      ※

『歌稿B』#623.





〔…〕

 軽便鉄道の東からの一番列車が少しあわてたように、こう歌いながらやって来てとまりました。機関車の下からは、力のない湯げが逃げ出して行き、ほそ長いおかしな形の煙突からは青いけむりが、ほんの少うし立ちました。

 そこで軽便鉄道づきの電信柱どもは、やっと安心したように、ぶんぶんとうなり、シグナルの柱はかたんと白い腕木を上げました。このまっすぐなシグナルの柱は、シグナレスでした。

 シグナレスはほっと小さなため息をついて空を見上げました。空にはうすい雲が縞になっていっぱいに充ち、それはつめたい白光
(しろびかり)を凍った地面に降らせながら、しずかに東に流れていたのです。

 シグナレスはじっとその雲の行く方をながめました。それからやさしい腕木を思い切りそっちの方へ延ばしながら、ほんのかすかに、ひとりごとを言いました。

 『今朝は伯母さんたちもきっとこっちの方を見ていらっしゃるわ』

 シグナレスはいつまでもいつまでも、そっちに気をとられておりました。

 『カタン』

 うしろの方のしずかな空で、いきなり音がしましたのでシグナレスは急いでそっちをふり向きました。ずうっと積まれた黒い枕木の向こうに、あの立派な本線のシグナル柱が、今はるかの南から、かがやく白けむりをあげてやって来る列車を迎えるために、その上の硬い腕を下げたところでした。

 『お早う今朝は暖かですね」本線のシグナル柱は、キチンと兵隊のように立ちながら、いやにまじめくさってあいさつしました。
〔…〕

宮沢賢治『シグナルとシグナレス』より。
(原文は旧仮名遣い) 



 ↑賢治童話『シグナルとシグナレス』の冒頭に近い部分ですが、岩手軽便鉄道・花巻駅と、そのすぐ隣の官営鉄道東北本線・花巻駅のそれぞれの腕木式シグナルをヒロインとヒーローにした話。「本線」は、東北本線のこと。「伯母さんたち」は、軽便鉄道各駅の腕木式シグナルと思われます。



∇ 関連記事(岩手軽便鉄道・花巻駅・跡)⇒:
【ハームキヤ(9)】



 この界隈には、鉄道の古い設備が残っているのを、旅してみて初めて知りました。腕木式シグナル以外の収穫も、いつかお目にかけたいと思います(^^)。










窓岩 
種市海岸、岩手県九戸郡洋野町



 薔薇輝石や雪のエッセンスを集めて、
 ひかりけだかくかゞやきながら
 その清麗なサファイア風の惑星を
 溶かさうとするあけがたのそら
 さっきはみちは渚をつたひ
 波もねむたくゆれてゐたとき
 星はあやしく澄みわたり
 過冷な天の水そこで
 青い合図
(wink)をいくたびいくつも投げてゐた
 それなのにいま
 (ところがあいつはまん円なもんで
 リングもあれば月も七っつもってゐる
 第一あんなもの生きてもゐないし
 まあ行って見ろごそごそだぞ)と
 草刈が云ったとしても
 ぼくがあいつを恋するために
 このうつくしいあけぞらを
 変な顔して 見てゐることは変らない
 変らないどこかそんなことなど云はれると
 いよいよぼくはどうしていゝかわからなくなる

 ……雪をかぶったはひびゃくしんと
   百の岬がいま明ける
   万葉風の青海原よ……

 滅びる鳥の種族のやうに
 星はもいちどひるがへる

『春と修羅・第2集』#343,1925.1.6.「暁穹への嫉妬」〔下書稿手入れ〕



 ↑1925年1月の三陸旅行の際のスケッチ。種市駅から未明(または夜間?)に海岸伝いに歩き出し、途中で夜が明けます。星々が「暁穹」の薔薇色に呑まれて消えてゆく空を眺めたのは、どのあたりなのでしょうか?

 「百の岬がいま明ける」――入江と岬が交互に並んでゆく三陸海岸の特徴を表しています。

 「万葉風の青海原」とは、万葉集のどんな歌を想起すればよいのか、ずっと気になっているのですが、今回訪ねてみて思いついたのは、↓こんな歌でした:

 

 海
(わた)の底 沖つ白波 竜田山 いつか越えなむ 妹があたり見む (万葉集 巻1・83)


 風吹けば沖つ白波たつた山夜半
(よは)にや君がひとり越ゆらむ (古今集 雑下)






種市海岸 
岩手県九戸郡洋野町種市






 「薔薇輝石」は、マンガン鉱石の一種で、バラ色に輝く宝石ですが、この三陸北部には、薔薇輝石を産出する鉱山が多く(野田玉川鉱山など)、宮沢賢治も注目していたようで、久慈の「琥珀」とともに「大槌の薔薇輝石」に言及した手紙があります
(書簡[137]宮沢政次郎宛て)

 この詩の「嫉妬」の意味ですが、作者が心を寄せた男性(少年?)が、薔薇輝石のような輝かしい女性と結婚してしまう悲しみを表しているのではないか?‥‥同性愛者であった賢治のならではの思いではないか?‥‥そのへんは、↓下の「夜明けの星(5)」で論じました。



∇ 参考記事(文語詩への改作)⇒:
【敗れし少年の歌へる――賢治の詩(2)】


∇ 参考画像(地図、薔薇輝石)⇒:
【夜明けの星】


∇ 本記事はこちら⇒:【夜明けの星(1)】
過去日記倉庫 2012/01/18

∇ 本記事はこちら⇒:【夜明けの星(2)】
過去日記倉庫 2012/01/19

∇ 本記事はこちら⇒:【夜明けの星(5)】
過去日記倉庫 2012/01/22







賢治が歩いた“暁の路”? 
洋野町玉川




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