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モリーオ(8)




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盛岡市内の宮沢賢治関係箇所



 宮沢賢治は童話の中では、盛岡をエスペラント化して「モリーオ」「マリオ」などと呼んでいました。






材木町と夕顔瀬橋











 盛岡市材木町には、童話集『注文の多い料理店』の出版元であった「光原社」を中心に、宮沢賢治童話にちなんだモニュメントが立ち並んでいます。




材木町 
『セロ弾きのゴーシュ』のモニュメント




材木町 
宮沢賢治像




光原社 
盛岡市材木町






 しかし、これら材木町のモニュメント群は、みなごく最近に観光目的で建てられたもので、宮沢賢治の当時からの関連があるわけではありません。

 賢治作品に材木町が登場するのは、小説『紫紺染について』の冒頭の部分↓。また、賢治“ゆかり”の場所としては、この町の一角にある『鎌田屋』下宿跡があるのみです。




「盛岡の産物のなかに、紫紺染
(しこんぞめ)というものがあります。

 これは、紫紺という桔梗
(ききょう)によく似た草の根を、灰で煮出して染めるのです。

 南部の紫紺染は、昔は大へん名高いものだったそうですが、明治になってからは、西洋からやすいアニリン色素がどんどんはいって来ましたので、一向はやらなくなってしまいました。それが、ごくちかごろ、またさわぎ出されました。けれどもなにぶん、しばらくすたれていたものですから、製法も染方
(そめかた)も一向わかりませんでした。

     
〔…〕

 工芸学校の先生は、まず昔の古い記録に眼をつけたのでした。そして図書館の二階で、毎日黄いろに古びた写本をしらべているうちに、遂にこういういいことを見附けました。

 『一、山男紫紺を売りて酒を買い候事
(そうろうこと)

 山男、西根山
(にしねやま)にて紫紺の根を掘り取り、夕景に至りて、ひそかに御城下(盛岡)へ立ち出で候上、材木町生薬(きぐすり)商人近江屋源八に一俵二十五文にて売り候。それより山男、酒屋半之助方へ参り、五合入(ごごういり)程の瓢箪を差出し、この中に清酒一斗お入れなされたくと申し候。半之助方小僧、身ぶるえしつつ、酒一斗はとても入り兼ね候と返答致し候処、山男、まずは入れなさるべく候と押して申し候。半之助も顔色青ざめ委細承知と早口に申し候。扨(さて)、小僧ますをとりて酒を入れ候に、酒は事もなく入り、遂に正味一斗と相成り候。山男大(おおい)に笑いて二十五文を置き、瓢箪をさげて立ち去り候趣、材木町総代より御届け有之(これあり)候。』

 これを読んだとき、工芸学校の先生は、机を叩いて斯
(こ)うひとりごとを言いました。

 『なるほど、紫紺の職人はみな死んでしまった。生薬屋のおやじも死んだと。そうしてみるとさしあたり、紫紺についての先輩は、今では山男だけというわけだ。よしよし、一つ山男を呼び出して、聞いてみよう。』
〔…〕

宮沢賢治『紫紺染について』より。
(原文は旧字・旧仮名遣い)



 “紫紺染め”に関する江戸時代の記録のなかに、山男が山で“紫紺”の根を掘り取って、材木町の薬種商に売りに来たというものがあった―――というわけです。









 しかし、材木町で特筆すべきものは、高等農林学生だった賢治たちが⦅アザリア会⦆の活動の中心にしていた↓「鎌田屋」下宿の旧跡でしょう。





「鎌田屋」下宿・跡 




「宮沢賢治と材木町 アザリア発祥の地

 賢治は高等農林時代、文学仲間とこの地にあった鎌田屋という下宿屋に集まって討議を重ね同人誌『アザリア』を刊行しました。親友の保阪嘉内らと雫石の春木場まで夜を徹して歩いた『馬鹿旅行』の出発点もここです」

現地の案内プレートより。



 同人誌『アザリア』は、
「大正6年の晩春 農場教室の南面、苗圃の一隅にアザリア〔セイヨウツツジ―――ギトン注〕が今を盛りと咲き誇っていた頃、材木町の北上河畔の鎌田屋の下宿で結成された事、賢治がこのグループの中核であつたという事は今でもはつきり記憶している。当時、この下宿には、河本緑石、村上超然、上山泰然と私がいた。ここはミーテイングの出来る部室もあり、格好の集り場所だつた。」
潮田豊「アザリア誌と賢治」, in:川原仁左エ門・編『宮澤賢治とその周辺』より。



「7月7日夜皆集る、丁度栗の花がまっ白く咲いていゝ香がして来る時だった、
〔…〕終夜語り暮した、ほんとに、あの高くそびゆる岩手山の清らかさの様に

 会者10名、
〔…〕作品の互選、テーブルスピーチ2,3あり、河本、潮田、小菅3氏のもの高点に入る、会[閉]会後、雫石に旅行する馬鹿者もあった、」
『アザリア』第2輯より。



「『あざりあ 第1号』が刊行されて間もなく、第1回目の『アザリア集会」(洋躑躅会 小集第1回)が開催され、その会終了後、感情が高揚した賢治、保阪嘉内、小菅健吉、河本義行の4名は盛岡から雫石・春木場まで徒歩での夜間旅行を行っている。
〔…〕本誌『アザリア 第2輯』には4人がそれぞれに、その時の思い出を詠んだ短歌や俳句を載せている。」
宮沢賢治記念館⦅文芸同人誌『アザリア』100周年記念展⦆の展示パネルより。



∇ 関連記事(雫石へのナイトハイク)⇒:
【雫石(1)】






 『鎌田屋』は、材木町の北上河畔、夕顔瀬橋に近い端にありました。『アザリア』同人も中では、保阪嘉内、河本義行、村上亀治、潮田豊が、ここに下宿していました。また、下宿生のためのミーティングルームがあったり、↓下で見るように、高等農林学校の正門から近い位置にあったため、学生たちの放課後のたまり場になっていたようです。





夕顔瀬橋
から上流を望む。
夕顔瀬橋は、南部藩時代の 1765年、北上川の中央に
人工中洲を築いて掛けた橋で、その後何度も架け替え
られています。賢治の時代にあったのは、1940年まで
使われていた明治以後のいわゆる“初代”トラス橋
だったと思われます。

ここからは、すぐ上流にある旧・東北本線の
北上川橋梁がよく見えます。高等農林の学生
たちも、東京方面、北海道方面へ向かう
蒸気機関車の通り過ぎる風景を
眺めたのではないでしょうか。






 影ひたす蛍二つよ黒き流れに

 層雲
 真紅に焼けて
 空の緑明るし

 山の峰はなるゝ雲に音もせぬ空。

 夜を働く馬にて寒き星ぞら

―――潮田 豊  
『アザリア』第2,3,4号より。



 流星の後追ひし後のさみしさ

 心ぬちに人の事ども世の事が表れ出でて淋しいかなや

 心から
  何を求めて何故に生きてぞ行くや
    恐ろしいかな。

―――小菅 健吉  
『アザリア』第4,5号より。










材木町
の裏側(河岸)
夕顔瀬橋から望む。

『鎌田屋』の裏には、北上川の河岸に
下りる階段もありました。



「材木町裏の北上川に面した石組は、江戸時代から明治にかけて、それぞれのお店の負担により建造されました。この石組には、水面を利用するための階段が14箇所設けられています。
〔…〕北上川の舟運の荷積み荷卸しなどのための石段も取り付けられており、住民の生活に深く結びついたものでした。」
現地案内板より。





 手水凍れる
  朝雪にて雀飢えたり、

―――村上 亀治  
『アザリア』第5号より。



     M君に

 私達があの北上の流れを見下ろした
 裏二階に住むでゐた頃から
 お前の胸は恋を感じてゐた
 お前の心臓に火が点んぜられたのは
 あの寂れきつた盛岡の冬の景物の
 中だつた

     
〔…〕

 けれど、お前はいまは兵舎に起居する身だ
 そしてこの秋雨の頃を
 寂寞の曠野に廠営してゐるそうな
 恋と忍苦と、野の寂寞と
 ゆううつと あこがれとの
 うるはしくも なやましい感情の束を
 お前はどうしてゐる
 夜になれば
 廠舎の闇のかたすみで
 こうろぎも鳴くだらう、

河本緑石[義行]『詩集』(1921年)より「M君に」



 ↑これは、同人の河本義行が卒業後に書いた詩ですが、「M君」は、同人の村上亀治ではないかと言われています。河本と村上は『鎌田屋』に同宿しており、卒業後も文芸の交流があったようです。

 この河本の詩も、村上は読んでいたと思われます。

 『アザリア』には、“賢治と嘉内”以外にも同性愛の“カップル”がいたことがわかります。


∇ 参考記事⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 0.8.3







梨木町交差点
より北を望む。
正面に見える森が、盛岡高等農林学校(現・岩手大学キャンパス)

材木町から、盛岡高等農林は、すぐ近くなのです。
この写真は、材木町の隣りの梨木町交差点から
撮したものですが、この道路をまっすぐ行った先に、
高等農林時代の正門が残っています。

 




∇ 本記事はこちら⇒:
ギトンのあ〜いえばこーゆー記
【宮沢賢治イーハトーブ館】のアザリア展



∇ 本記事はこちら⇒:
ギトンのあ〜いえばこーゆー記
【宮沢賢治記念館】のアザリア展





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