ギトンの◇ギャるリ★ど☆タブろ◆

土沢と毘沙門堂




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土沢と成島
(なるしま)毘沙門堂





 土沢と成島は、数度の市町村合併で花巻市域に編入されましたが、もとは花巻近郊のそれぞれ独立した村落です。

 土沢の歳の市と、成島の「毘沙門堂」が、賢治作品に登場します。













JR釜石線・土沢駅 

岩手軽便鉄道時代からの駅です。






 そらにはちりのやうに小鳥がとび
 かげらふや青いギリシヤ文字は
 せはしく野はらの雪に燃えます
 パツセン大街道のひのきからは
 凍つたしづくが燦々と降り
 銀河ステーシヨンの遠方シグナルも
 けさはまつ赤に澱んでゐます
 川はどんどん氷
(ザエ)を流してゐるのに
 みんなは生
(なま)ゴムの長靴をはき
 狐や犬の毛皮を着て
 陶器の露店をひやかしたり
 ぶらさがつた章魚
(たこ)を品さだめしたりする
 あのにぎやかな土沢の冬の市日
(いちび)です

     
〔…〕

 あゝ Josef Pasternack の指揮する
 この冬の銀河軽便鉄道は
 幾重のあえかな氷をくぐり

     
〔…〕

 パツセン大街道のひのきから
 しづくは燃えていちめんに降り
 はねあがる青い枝や
 紅玉やトパースまたいろいろのスペクトルや
 もうまるで市場のやうな盛んな取引です


『春と修羅・第1集』「冬と銀河ステーション」より。



 この詩を読むたびに、「銀河ステーション」とは、どこの駅なのか?‥ということが、どうしても気になります。

 のちに書かれる童話『銀河鉄道の夜』で、「天気輪の丘」にいたジョバンニは、


 「銀河ステーション!銀河ステーション!」


 というアナウンスの声とともに、とつぜん自分が「銀河鉄道」の列車に乗っていることに気づくのです。

 とすれば、「銀河ステーション」は、ジョバンニがカムパネルラとの旅を開始した駅でもあることになります。


 土沢の人は、宮沢賢治の「銀河ステーション」は、土沢駅のことだと思っているようです。しかも、駅の案内板によると、“銀河ステーション土沢”こそは「銀河鉄道」の始発駅なのだ!、と……!?

 まぁ、そう思えるふしがないわけではありません。↑上の詩「冬と銀河ステーション」には、「土沢の冬の市日」が描かれています。

 誰でも自分の地元が賢治作品の重要な場所だと思いたくなるのは人情ですが‥‥‥ だからといって、いつも思いどおりになるとは限りませんw

 そもそも、「土沢」が出てくるのは詩のほうだけで、『銀河鉄道の夜』に「土沢」は出てきません。「土沢」を連想させるようなものさえ、いっさい無いのです。



 「銀河軽便鉄道」とは岩手軽便鉄道
(現・JR釜石線)のこと、「パッセン大街道」は、釜石街道のことだと言われています。それらは問題がないでしょう。土沢の町の真ん中を通っている道路が、当時は釜石街道でした。(現在は、バイパスが釜石街道〔国道〕になっています。)

 しかし、「けさはまつ赤に澱んでゐ」る「遠方シグナル」とは、駅に進入しようとする列車に、ストップ(進入不可)の合図を予告するシグナルです
(↓下の“本記事”参照)。発車の合図をするシグナルではないのです。したがって、列車は駅よりも相当手前にいると思わなくてはなりません。つまり、土沢駅が「銀河ステーション」だとしたら、それは始発駅ではないことになります!

 加えて、土沢の市街地の近くには、「どんどんザエを流してゐる」ような大きな川はありません。猿ヶ石川が軽便の線路と並んで流れるのは、土沢の少し東(上流)までです。土沢からは、鉄道や旧街道とは離れてしまいます。

 また、釜石街道沿いには、ヒノキ並木のようなものはありません。

 それに、「あのにぎやかな土沢の冬の市日です」という言い方が、車窓から眼の前の風景を指して言う言い方にしては、すこし変です。写真やフィルムを見せて説明しているような言い方、あるいは夢の中の情景ならばしっくりする言い方でしょう。



 この詩に限らず、宮沢賢治の《心象スケッチ》は、“見たまま”の写生ではないのです。そこにはたいてい、作者による風景の“編集”が介在しています。現実の風景そのままだと思うのは、無理があります。あちこちから風景を切りとってきて“組合せた創作”だと見たほうが、自然に読めます。

 この詩は、土沢駅付近
(すこし東寄り)から花巻方面へ向かう列車の風景を、“もとにしている”。―――そのくらいに考えておくのがよいと思うのです。






土沢商店街 
花巻市東和町支所から
正面の通りは、旧・釜石街道。土沢の定期市は、
このあたりの街道沿いで開かれていたそうです。
たしかに、軽便鉄道(現・釜石線)の車窓からも
見える位置です。

街道沿いに並木はありませんが、背景の丘には
針葉樹がぎっしりと繁っています。端正な形の
樹林ですが、残念ながらヒノキではなく、現在
見られるのは杉ばかりです。







賢治詩碑 
花巻市東和町支所



 土沢は、北上山地を縫って流れてきた猿ヶ石川の谷が、北上盆地に向かって開いた扇頂部に位置しており、市日には、谷あいの村々からのおおぜいの人出で賑わったと言います。






∇ 本記事はこちら⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 8.14.4


 







成島毘沙門堂 
花巻市東和町北成島

土沢駅から直線距離 3.7km の丘陵地にあります。
ここには、高さ4.73mの兜跋
(とばつ)毘沙門天立像があり、
これは、毘沙門天像としては日本一の大きさです。
ケヤキの一本彫りで、平安時代中期(10世紀末〜11世紀初頭)の作。




 木の芽が油緑や喪神青にほころび
 あちこち四角な山畑には
 桐が睡たく咲きだせば
 こどもをせをったかみさんたちが
 毘沙門天にたてまつる
 赤や黄いろの幡をもち
 きみかげさうの空谷や
 だゞれたやうに鳥のなく
 いくつもの緩い峠を越える

『春と修羅・第2集』#139,1924.5.23.「峡流の夏」〔下書稿(二)手入れ〕



 毘沙門天(多聞天)は、「四天王」の一尊ですが、インドでは財福の神であったのが、中国に伝わってから武神として信仰され、甲冑をつけた武人の姿で表わされるようになります。

 「兜跋毘沙門天」は、毘沙門天の像容のひとつで、「兜跋」は地名。西域のトルファン
(敦煌とウルムチの間にある海面下の盆地)と推定されています。

 毘沙門天は、ふつう、邪鬼を踏みつけて立つ形で表されるのですが、「兜跋毘沙門天」は、「地天女」に両手で支えられる形で表されます。邪鬼は、毘沙門天の足の下ではなく、両脇に2鬼が従っています。毘沙門天がトルファンに現れた時に、この姿で現れたという伝説に基づいているそうです。

 Wikipedia によると、毘沙門天は、


「古代インドの世界観で地球上にあるとされた4つの大陸のうち、北倶盧洲を守護するとされる。また、夜叉や羅刹といった鬼神を配下とする。」


 ということです。宮沢賢治は、仏教に言う「4つの大陸」のうち、「北倶盧洲」にはとくべつな関心を持っていましたから、毘沙門天への関心も、そこにかかわっているかもしれません。


 残念なことに、成島の毘沙門天は撮影禁止でしたので、こちらの公式サイトでごらんください⇒:花巻観光協会公式サイト



 成島の毘沙門天は、“日本一”と言うだけあって、その大きさと迫力には圧倒される思いでした。“西域風の仏像”と解説されることが多いようですが、ギトンは、その堂々たる垂直性の体躯から、北朝・雲崗の摩崖仏を想起しました。平安中期の作にしては、まるで新品のようにきれいな木像ですが、最近磨いて修復したのでしょう。ぜひ実物を見ていただきたいと思います。

 ただ、土沢駅から歩くのはたいへんですし、路線バスは月・木曜にしか走っていません(花巻市営バス「中内線」で「毘沙門」下車)。盛岡の「岩手県立博物館」には実物大のレプリカがありますが、ここも盛岡駅からは、かなり遠いです。








成島毘沙門堂 
兜跋毘沙門天 脚部レプリカ

もともと成島毘沙門堂では、参拝者がご利益を得るために、
毘沙門天像の脚に味噌を塗る習慣がありました。
現在は、国の重要文化財に指定された本体を味噌で汚す
わけにはいかないのでw、こちらに脚部だけのレプリカを
置いて、味噌塗りに対応しています。




 木の芽が油緑や喪神青にほころび
 あちこち四角な山畑に
 桐が睡たく咲き出せば
 この峡流の母たちは
 めいめい赤い幡をたづさへ
 きみかげさうの空谷や
 だゞれたやうに鳥のなく
 いくつものゆるい峠を越え
 お堂にやってまゐります
 毘沙門像のおすねには
 だいじな味噌をなんども塗り
 黄金の眼だまをきょとんとして
 ふみつけられた天の邪鬼は
 頭をいくどか叩きつけて
〔中断〕
『春と修羅・第2集』#139,1924.5.23.「峡流の夏」〔下書稿(二)裏面〕






 現在はレプリカに味噌を塗っていますが、賢治の時代にはほんとうに本体の毘沙門像に味噌を塗ったのだろうか……、と疑問に思っていましたが、やはりほんとうに塗っていたようです。

 本体は、脚も修復されてきれいになっていますが、足の裏の部分をよく見ると、味噌を塗った黒い痕が残っていました。



 もうひとつ気になるのは、宮沢賢治の作品では、成島の毘沙門天は、もっぱら幼児の病気を治す神様として描かれています。現在では、参拝も味噌塗りも、“家内安全、無病息災、商売繁盛、交通安全”がご利益で、ふつうの神社と変りません。赤ん坊のための治癒神として信仰されているわけではないようです。しかし、賢治の時代には、乳幼児の平癒がメインだったのでしょうか?

 おそらく、そうだったのだと思うのです。

 というのは、現在でも、この毘沙門堂のある熊野神社では、毎年9月に「泣き相撲」という神事を行なっています。土俵の上で2人の幼児を向かい合わせ、先に泣き出した方が負け。江戸時代から続いている行事で、無形民俗文化財だそうですが、その目的は、幼児の成長と豊作を祈願することにあるそうです。




成島毘沙門堂・熊野神社

「泣き相撲」土俵・幼児成長祈願斎場

賢治サンはネグってますが、ここには
おっきなおちんちんがたくさん‥




 つまり、ここでは、幼児の健康を願う行事が当時から現在までつづいているわけで、昔、乳幼児死亡率が高かった時代には、子どもの病気を治してもらうことが、なんといっても信仰の中心だったと考えてよいと思うのです。

 宮沢賢治の時代には、健康保険などはありませんから、一般の農民家庭では、子どもが病気にかかっても、病院へ行くことはできなかったのではないでしょうか?‥病院へ連れてゆく代りに、毘沙門天に背負って行って、早く治るように拝んだのだと思います。

 まして、当時は飢饉や農業恐慌のたびに、捨て子や“まびき”が、ざらに行われていた時代です。賢治の詩にも、川っぷちに捨てられた赤ん坊の泣き声を描いているものがあります。それでも母親としては、どうしても自分の子を死なせたくはない。その苦痛にも似た激しい情を、賢治は深く感じとって描いたのだと思います。




 ところで、上の詩には、「ふみつけられた天の邪鬼」と書かれています。成島の毘沙門天を描いた賢治詩は、みな、「邪鬼」を踏みつける通常の型の毘沙門天像を描いているのです。しかし、成島の毘沙門天は「兜跋毘沙門天」であり、「地天女」に両手で支えられる型であって、「邪鬼」を踏みつけている形ではないのです。
 
 賢治は、毘沙門天像をよく見ていなかったのでしょうか?‥そんなことはないと思います。むしろ、これも、賢治特有の“組合せ創作”だと考えるべきです。

 成島の毘沙門天は“兜跋”型ですが、北上市にある「立花毘沙門堂」の毘沙門天像は、通常の“邪鬼踏み付け”型です。奥州市(江刺)にある「藤里毘沙門堂」には、“兜跋”型と“邪鬼踏み付け”型が一体ずつあります。賢治は、これらも見ていたと思うのです。

 そして、“邪鬼踏み付け”型のほうが、幼児の「おこり」(熱病)を押さえる治癒神の形姿として論理的なので、幼児信仰の中心であった成島毘沙門天の像容を、“邪鬼踏み付け”型に創作したのだと思います。

 ⇒:立花毘沙門堂 ⇒:藤里毘沙門堂








成島毘沙門堂 
石段からの俯瞰。




      祭 日


 アナロナビクナビ 木の芽はほころびて
 柳の絮は ひかり飛ぶ
 をちこち 山の畑には
 睡たく 桐の花咲けり

 ナビクナビアリナリ 児らをせなに負ひ
 赤とうこんの 幡もちて
 草の峠や 水無し谷
 越えぞわづらふ 母の群
  
 ナリトナリアナロ 御堂のうすあかり
 毘沙門像のおんすねに
 味噌塗りまつりおん手形
 いたゞきさすりおろがみぬ

 アナロナビクナビ 踏まるゝ天の邪鬼
 黄金の目玉をやるせなみ
 堂を出づれば 風ぬるみ
 つゝどり四方に 鳴けりけり

『文語詩未定稿』「祭日(二)」〔下書稿(二)〕



 「祭日(二)」は、上の口語詩「峡流の夏」を改作した文語詩。

 カタカナで書かれた「アナロナビクナビ‥‥」等の呪文は、『法華経・陀羅尼品』にある毘沙門天の陀羅尼です。



「その時、毗沙門天王護世者は、仏に白して言わく

 『世尊よ、われも亦、衆生を愍念
(あわれ)み、この法師を掩護(まも)らんがための故に、この陀羅尼を説かん』と。

 即ち、呪を説きて曰く

 『阿犂那犂兎*那犂
(ありなりとなり)阿那盧那履拘那履(あなろなびくなび)

  世尊よ、この神呪を以て法師を掩護
(まも)らん。』」
『法華経(下)』,岩波文庫,p.278.

 * 「兎」の上に「小」。

 ↑「陀羅尼品」は、薬王菩薩はじめ、さまざまな菩薩や天が、シャカの前で、仏法の護持者を保護するための呪文を披露する場面。毘沙門天が唱える「阿犂那犂‥‥」以下の呪文は、サンスクリット語原文では「アッテー、タッテー、ナッテー、‥‥」であり、岩波文庫の註によると、これはパーリー語仏典「アーターナーティヤ経」(シャカが、毘沙門天の依頼で、「アーターナーターの護経」を唱える話)の題名に基づいている。したがって、通常のコトバとしての意味はない単なる音列と考えてよい。




 ↓こちらの碑に刻まれているのは、上の「祭日(二)」〔下書稿(二)〕を推敲して簡潔にした最終稿(下書稿(二)手入れ)です。




賢治詩碑 
成島毘沙門堂











 おこりあるみどり児を負ひ
 そらしろく桜はうつり
 川水はすべりてくらし

 うら青き草火のなかに
 毘沙門の像は年経て
 梨白くはな咲きちりぬ

 夜ごと来てみどり児を圧す
 あまの邪鬼押へたまへと
 いくそたび母はぬかづく

 中ぞらにうかべる雲の
 蓋
(ガイ)やまた椀〔まり〕のさまして
 みどりごのはてをうらなふ

『文語詩稿五十篇』〔毘沙門の堂は古びて〕〔下書稿(二)〕



 暗く滑るように流れる「川水」、「うら青き草火」、病気の子の運命を予告するような中天の雲……、そんな救われようのない風景のなかで、一心に祈る母親を、まっしろく舞い散る梨の花だけが、やさしく見つめています。







成島毘沙門堂・熊野神社 
登り口






∇ 関連記事(《心象スケッチ》と創作意識)⇒:
宮沢賢治の《いきいきとした現在》【第5章】




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