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ハームキヤ(10)




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花巻市内の『春と修羅』関係箇所



「ハームキヤ」とは、賢治語wで、花巻のことです。









ミヤケンの"ぐるめぐり"




 前回グルメ・スポットが少かったので、↑見出しを変えました←










ひやっこ坂

「花城小学校」跡から豊沢町の宮沢賢治実家へ行くには、
この狭い坂道を降りるのが近道です。この坂は、賢治と
弟、妹たちが小学校へ通った通学路だったと思われるのです。



 

 案内板によると、「ひゃっこ坂」の地名由来は、藩政時代に坂の下にあった泉で冷やした「ひゃっこい」蕎麦を、この坂から花巻城に献上したからとか、鬱蒼たる樹林の中にあって夏でも涼しい(ひゃっこい)坂だからとか‥、あるいは、「びゃっこ坂」(小さい坂)が訛ったとか言われています。

 「びゃっこ」「ぴゃこ」は、小さい、少ないという意味の方言らしいです。賢治短歌に、↓こういうのがあります。



      ※

 ほんのぴゃこ
 夜明げがゞった雲のいろ
 ちゃんがちゃがうまこ 橋渡て来る。

『歌稿B』#538.












地図(旧・花巻川口町)






“南斜花壇” 
旧・橋本家別邸

「ひゃっこ坂」の途中に、宮沢賢治が晩年に設計したと
伝える花壇があります。



「旧橋本家(大津屋)別邸は、3代目喜助氏が病弱な夫人トシの為に昭和3年に建てられました。

     
〔…〕

 賢治は花が好きだった又従兄弟にあたる、3代目喜助の夫人トシへのお見舞いに花壇の設計をしたと言われております。

 この南斜花壇は、時期的に賢治の最後に手掛けた造園とおもわれ、当時の素材のまま残る唯一の花壇と言われております。」

現地案内板より。



 昭和3年(1928年)といえば、「羅須地人協会」からも手を引いて病床生活に入った年ですから、それ以後の造園とすれば、たしかに賢治最後の花壇設計です。旧・花巻農学校、旧・花巻病院、花巻温泉地などの賢治花壇は、みな当時の形では残っていないことを考えると、ここは貴重な“賢治遺跡”と言えます。










精養軒・跡 
花巻市上町



 ↑「ひゃっこ坂」を降りきったところに、賢治の生きていた当時、花巻で唯一の西洋料理店だったという「精養軒」のあった場所があります。

 しかし、どういうわけか、この店は賢治作品に全く顔を出しませんし、賢治が誰かと、花巻の西洋料理店に行ったという話も残されていないのです。賢治作品に顔を出す西洋料理店、あるいは賢治が立ち寄った西洋料理店は、盛岡市にある店ばかりなのです。

 実家のすぐそばにあるのに、賢治はこの店には立ち寄ったことがないのでしょうか?

 憶測になりますが、花巻のような田舎町の西洋料理の味は、賢治さんの口に合わなかったのではないでしょうか?‥グルメ賢治は、意外に舌が肥えていたのかもしれません。











 「精養軒」跡から、さらに豊沢川に向って坂を下ってゆくと、豊沢町通り(旧奥州街道)になり、宮沢家(賢治実家)はすぐです:




豊沢町通り



 今では道路が拡幅されて、見違えるような瀟洒な通りになってしまいましたが、賢治の時代には、街道筋とは思えないような狭い泥んこ道で、街灯も、↑こんなハイカラなものではなく、殺風景な木の電柱に裸電球が付いているだけだったようです:





 このとき凍りし泥のでこぼこも寂まりて
 街燈たちならぶ菩薩たちと見えたり

      ※

 弓のごとく
 鳥のごとく
 昧爽
(まだき)の風の中より
 家に帰り来れり。

 ―――――――――――――

 にはかにも立ち止まり
 二つの耳に二つの手をあて
 電線のうなりを聞きすます。


『冬のスケッチ』15:1-2, 16:1.




 青じろい骸骨星座のよあけがた
 凍えた泥の乱反射をわたり
 店さきにひとつ置かれた
 提婆のかめをぬすんだもの
 にはかにもその長く黒い脚をやめ
 二つの耳に二つの手をあて
 電線のオルゴールを聴く


『春と修羅』「ぬすびと」より。









 宮沢家を通り過ぎてさらに下ると、豊沢橋の手前に「大内納豆店」があります↓




花巻納豆・大内商店 
花巻市豊沢町



 この店は、賢治の時代から豆腐と納豆の製造販売をしていました。当時の市街図に出ています。現在は納豆専業になっているようです。つまり、100年近く、あるいはそれ以上、同じ業種で続いているわけで、蕎麦の「やぶ屋」もそうですが、ものすごいことだと思います。


 ここは、じつはグルメではなくて、宮沢賢治が『春と修羅』の印刷費用を借りた所なのですw 当時の教員は、農学校教諭でも、田舎町のふつうの若者にはありえないほどの高給取りでしたが、まとまった資金は持っていなかったのでしょう。しかも、賢治サンは金が入ればすぐに使ってしまうたちです。そこで、借り入れをして印刷所に支払い、毎月の給料から少しずつ返して行ったわけです。

 しかし、宮沢家はお金持ちなのに、どういうわけでまた、近所の豆腐屋さんなんかにお金を借りたのでしょうか?

 おそらく、賢治としては、作家としての“門出”にあたって、どうしても親の世話にはなりたくなかったのでしょう。同じ理由から、銀行などで借りることもできなかったのでしょう。花巻にある銀行も、他の金融機関も、宮沢家の息がかかっていないものはないからです。

 金持ちには、金持ちなりの苦労があるものなのですねw




 ところで、借金はともかく、豆腐や納豆には、賢治は関心が無かったでしょうか?もし、賢治の“菜食主義”がウソや見せかけでないとしたら、植物性たんぱく源としての大豆製品に、注目しないはずはないと思うのですが‥

 賢治作品を見ると、畑に生えている大豆や、肥料の豆粕は、頻繁に出てきますけれども、納豆は、全集索引を見る限り用例がありません。味噌の用例は、「雨ニモマケズ」の有名な箇所をはじめとしてかなりありますが、豆腐は↓つぎの2例だけです。



 部落中一日大さわぎして
 つめたい西風のぴーぴー吹くなかに
 立てなくてもいゝ電柱
(はしら)を立てて
 点けなくてもいゝ電燈
(あかり)をつけて
 それからこんどは呑むといふ
 工夫も呼んで林のなかで呑むといふ

     
〔…〕

 酒は二丁に豆腐が五丁
 幹部ばかりで呑むといふ
 おれも幹部のうちだといふ
 何が幹部だ
〔…〕

『口語詩稿』〔もう二三べん〕〔下書稿(一)〕より。



 部落の賦役工事の“慰労宴”で、酒のツマミが豆腐なのですが、日本酒2升
(本文の「二丁」は賢治の誤記でしょう)に豆腐5丁とは、ずいぶんみすぼらしいツマミです。当時の部落の酒宴は、そんなものだったのでしょうけれど‥、ともかくグルメ感はありません。





「そして東京へ遁げました。

 東京へ来たらお金が六銭残りました。斉藤平太はその六銭で二度ほど豆腐を食べました。

 それから仕事をさがしました。けれども語
(ことば)がはっきりしないのでどこの家でも工場でも頭ごなしに追ひました。」



 ↑工学校を卒業して村の建物の設計をしたところ、廊下や階段のない建物を造ってしまって、村に居られなくなった平太が、東京へ逃げてゆく話です。豆腐だけ食べて飢えをしのいでいます。この場合も、味わうどころではありません。

 いずれも、豆腐を味わって食べているようには見えませんねw


 豆乳の用例は、やや注目に値します↓



「ばけもの世界裁判長になったペンネンネンネンネン・ネネムは、次の朝六時に起きて、すぐ部下の検事を一人呼びました。

     
〔…〕

 『さうか。よろしい。それでは今朝は八時から世界長に挨拶に出やう。それからすぐ巡視だ。みんなその支度をしろ。』

 『かしこまりました。』

 そこでペンネンネンネンネン・ネネムは、燕麦を一把と、豆汁を二リットルで軽く朝飯をすまして、それから三十人の部下をつれて世界長の官邸に行きました。」




 「燕麦
〔オート〕を一把と、豆汁〔まめじる〕を二リットル」の朝食は、かならずしも単なる粗食ではないと思います。

 前回引用した『マリヴロンと少女』の冒頭部分で、城跡のある町の秋のようすを:


「城あとのおほばこの実は結び、赤つめ草の花は枯れて焦茶色になって、畑の粟は刈りとられ、
〔…〕

 崖やほりには、まばゆい銀のすすきの穂が、いちめん風に波立ってゐる。」



 と書いていました。ここでは、秋に刈入れがあるのは稲ではなく粟なのです。それが、賢治の美意識が表現したエキゾチックな世界なのだと思います。

 『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』の“エンバクと豆汁の朝食”も同様で、賢治流の美意識で選ばれた一種理想世界の食事なのだと思います。ここで、ネネムは「世界裁判長」に任命されて権勢の頂点にいます。節約した貧困な食事として描かれているわけではないのです。










安浄寺 
花巻市鍛冶町

浄土真宗。宮沢家は、このお寺の檀家総代であり、
第2次大戦後に父・政次郎氏が改宗するまで、賢治の
遺骨も、ここの宮沢家代々の墓に納められていました。







∇ 関連記事(身照寺:現在の賢治墓所)⇒:
【ハームキヤ(6)】


∇ 関連記事(日蓮宗と宮沢家:身照寺縁起)⇒:
《あ〜いえばこーゆー記》キメラ襲う(2)





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