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仙人峠と釜石(4)




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宮澤磯吉と釜石





 昭和はじめまで、岩手県内陸部から太平洋岸・釜石へ、鉄道や自動車で行くことはできませんでした。遠野と釜石の間には 仙人峠という難所があり、ここは徒歩で越えるほかはなかったのです。

 花巻に住む宮沢賢治も、その生涯の間に2回だけ、 仙人峠越えの旅をしています。 









釜石湾 
航空写真
釜石市郷土資料館






     
〔…〕
 雪と露岩のけはしい二色の起伏のはてで
 二十世紀の太平洋が、
 青くなまめきけむってゐる
 黒い岬のこっちには
 釜石湾の一つぶ華奢なエメラルド

    ……そこでは叔父のこどもらが
      みなすくすくと育ってゐた……

 あたらしい風が翔ければ
 白樺の木は鋼のやうにりんりん鳴らす

『春と修羅・第2集』#358,1925.1.9.「峠」〔下書稿手入れ〕より。



 ↑これは、1925年1月の仙人峠越えの詩。




 釜石に住んでいる「叔父」とは、賢治の母方の祖父・宮澤善治の三男・磯吉です。

 宮澤善治は、花巻・鍛治町で雑貨商「宮澤商店」を営んでいましたが、花巻銀行の専務取締役などを勤める資産家であり、また大地主でした。賢治の『国柱会』の同信者で歌人の関徳也によれば、善治は、困窮した農民に金を貸し付けては、担保として農地を容赦なく取り上げていたと言います。賢治の近在農民に対する奉仕活動は、この祖父が行なった収奪の罪滅ぼしだったと推測する研究家も多いほどです。

 善治の長男・直治は、進学を断念して家業に務め、次男・恒治は、慶應義塾・理財科を卒業して、家業の経営近代化、資産投資、銀行経営などに貢献しました。ところが、三男の磯吉だけは、花巻の新興地主・実業家として発展の一路をたどる宮澤善治家に背を向けるようにして、当時は岩手県内陸部との行き来も容易でなかった釜石へ単身赴いて薬店を開き、独立したのでした。





宮澤商店 
旧・宮澤善治宅
花巻市鍛治町







「三男磯吉は慶應普通部、二高
〔旧制「第二高等学校」。東北大学の前身―――ギトン注〕に学んだが、三男坊のせいか磊落な人柄で酒豪であった。釜石で煙草専売店、のち薬店を開き、気さくなために損もしたが、ほどほどにもうかることもあって無事店を経営した。賢治はたびたび釜石の家を訪ね、倉からヴァイオリンをもちだして弾いたりレコードを届けたりした。互いに気楽な親しい感情を持っていたのである。金に執着のないところも似通っていた。」
『新校本宮澤賢治全集』第16巻(下)「年譜篇」,pp.13-14.



 レコード観賞や、楽器いじりなど、音楽の趣味が共通していて、「釜石の叔父さん」は、宮沢賢治とは気が合ったようですね。

 ↑年譜には「たびたび釜石の家を訪ね」ていたとありますから、賢治作品からわかる2回のほかにも、賢治はしばしば釜石へ行っていたことになります…






「宮沢善治二男の恒治は、その頃
〔明治39(1906)年―――ギトン注〕、青春の悩みにとらわれていたらしい。かつては北米行を口にしたこともあり、家を離れて新しい世界に道を開きたい希望を抱きつつも、具体的に確たる方針を定められない苦しみがあったようで、〔…〕折にふれ暁烏のもとへ便りし、また訪れもしていた。

 
〔…〕談話の具体的内容は想像する外はないが、『評伝 清沢満之』〔脇本平也,1982,法蔵館―――ギトン注〕に、『「精神界」の発刊以来、道を求めて浩々洞を訪れるものも多くなった。やはり学生が主であった。浩々洞に行けば煩悶は解決される、とさえ噂された。』と記されているような役割が求められていたのかもしれない。〔…〕

 明治40年
〔1907年〕に入ると、恒治の弟磯吉が〔ギトン注―――暁烏敏の〕『日記』に登場する。〔…〕この頃は慶應普通部時代と思われる〔…〕

 明治43年
〔1910年〕〔…〕磯吉の訪問は7月4日の日記に見える。『帰れば花巻の青年宮沢磯吉君あり。信を求めて本日東上せりといふ。他力〔親鸞の「他力本願」の教え―――ギトン注〕を理屈的に解して苦しみ居る也。自己省察を語る。夕方去る。』とあり、17日にもたずねている。」
栗原敦『宮沢賢治 透明な軌道の上から』,新宿書房,1992,pp.40-43.



 “浩々洞”は、浄土真宗・改革派の清沢満之、暁烏敏らが東京に開いた私塾で、機関紙『精神界』は、親鸞、『歎異鈔』のみならず、西欧近代思想、イプセン、ハウプトマンから社会主義思潮にいたるまで、幅広く扱い、近代精神に開かれた仏教をめざしていました。真宗で“禁断の書”とされていた『歎異鈔』を公開し、その思想をはじめて論じたのも、この人々でした。

 賢治の父・宮澤政次郎は、早くから暁烏に私淑し、花巻に改革派の人々を招いて夏季仏教講話会を行うなどしていましたが、そこには、同世代の宮澤一族:直治、恒治、磯吉らも集まっていました。

 とくに、恒治と磯吉は、生き方の悩みを相談する場として“浩々洞”を訪れていたようで、磯吉は、1907〜11年には年3回程度の来訪が記録されています。↑上の 1910年の訪問の翌8月には、磯吉は、石川県松任に帰郷していた暁烏を訪ねて、その住職の寺・明達寺へ赴き、宿泊しています。

 二男・恒治の場合は、“宮沢閥”からの独立を希望しながらも、けっきょくは花巻に戻って、慶應義塾で学んだ近代的経営を実地に適用して家業を発展させるのですが、

 磯吉の場合には、“宮沢閥”のホーム・テリトリーから離れて、貧しくとも自立する道を選んだと言えます。


 【参考】⇒:『宮澤賢治の詩の世界』「釜石の叔父さん」






 ところで、宮澤磯吉が釜石に開業した薬局ですが、↑上のサイトの解説によれば、磯吉のご子息は薬剤師の資格もとられ、釜石市の中心部、市役所の近くで、つい最近まで営業しておられたそうです。

 しかし、2011年の震災と津波は、港にも近いこの地域に甚大な被害をもたらしたようです‥‥










釜石市只越町3丁目7番1号 
宮澤薬局(宮澤磯吉宅)跡

津波の被害を受けた「宮澤薬局」のビルは取り壊され、
別の企業の仮設倉庫が建てられていました。




釜石市只越町3丁目7番1号 
宮澤薬局(宮澤磯吉宅)跡
裏(北側)から撮影。




釜石市役所 
宮澤薬局(宮澤磯吉宅)跡から望む。

青い横線が、津波による浸水の高さ。市役所の
建物に、標示板が設置されていました。




釜石市只越町3丁目7番1号 
宮澤薬局(宮澤磯吉宅)跡
市役所の裏山から俯瞰。




 

 磯吉氏の子孫のご無事を心からお祈りするとともに、三陸の一日も早い復興を願わずにはいられませんでした。

 “文学散歩”の気分で釜石を訪れたギトンにとって、町の光景は、少なからずショックでした。これらの写真を掲載してよいものかどうか、しばらく思案したのですが、多くの人が衝撃を共有してこそ、被災された方の思いにも近づけるのではないかと思い、掲載に踏み切った次第です。






釜石港




釜石港付近

津波ですっかりやられてしまいました。
復興工事が進められています。






   釜石よりの帰り


 かぎりなく鳥はすだけど
 こゝろこそいとそゞろなれ
   
 竹行り小きをになひ
 雲しろき飯場を出でぬ
   
 みちのべにしやが花さけば
 かうもりの柄こそわびしき
   
 かすかなる霧雨ふりて
 丘はたゞいちめんの青
 谷あひの細き棚田に
 積まれつゝ廐肥もぬれたり

『文語詩未定稿』より。〔下書稿(四)手入れ〕



 この文語詩↑は晩年のものですが、1914年(中学卒業年)の短歌をもとにしています。当時は岩手軽便鉄道も、まだ花巻〜岩根橋と遠野〜仙人峠で、ばらばらに開通した状態でしたが、賢治は釜石の叔父の家に徒歩で行ってきたようです。






∇ ひとつ前の記事⇒:仙人峠と釜石(3)




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