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仙人峠と釜石(3)




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釜石鉱山と製鉄所





 昭和はじめまで、岩手県内陸部から太平洋岸・釜石へ、鉄道や自動車で行くことはできませんでした。遠野と釜石の間には 仙人峠という難所があり、ここは徒歩で越えるほかはなかったのです。

 花巻に住む宮沢賢治も、その生涯の間に2回だけ、 仙人峠越えの旅をしています。 









陸中大橋 
賢治詩碑「峠」

東麓の「陸中大橋」駅に下りてきました。
釜石鉱山鉄道の「大橋」駅があった場所は、
ここから約 400m北です。





陸中大橋 
鉄鉱石

詩碑の傍らに鉄鉱石が展示されていました。
磁鉄鉱のようです。






 あんまり眩ゆく山がまはりをうねるので
 ここらはまるで何か光機の焦点のやう
 蒼穹
(あをぞら)ばかり、
 いよいよ暗く陥ち込んでゐる、

   (鉄鉱床のダイナマイトだ
    いまのあやしい呟きは!)

 冷たい風が、
 せはしく西から襲ふので
 白樺はみな、
 ねぢれた枝を東のそらの海の光へ伸ばし
〔…〕
『春と修羅・第2集』#358,1925.1.9.「峠」〔下書稿手入れ〕より。



 ↑これは、1925年1月の仙人峠越えの時の詩ですが、

 宮沢賢治は、1917年7月には、花巻から釜石へ仙人峠を越えています。これは「東海岸実業視察団」の一員としての旅でした。

 この「視察団」は、花巻の上流家庭の子弟らが計画したもので、宮澤一族の主だった面々が加わっていましたから、賢治も断れなかったのでしょう。一行は釜石で捕鯨会社を見学(製鉄所は見学を受け入れていなかったのか?)、宮古に移動して製糸工場、水産学校などを見学しています。

 とは言っても、「視察団」は、行く先々で宴会と飲酒(たぶん女遊びも)に明け暮れており、賢治は、“酒と女”だけが目当ての面々に、ほとほと愛想をつかしたようです。「酒の旅」に辟易したと短歌に詠み、宮古からは一行と別れて別行動をとっていますw


 鉱山の見学はしなかったようですが、通りがかりの大橋にある「釜石鉱山」を素通りしたとも思えません。当時、第1次大戦による好況で「釜石製鉄所」は“田中時代”の最盛期を迎えており、大橋の「釜石鉱山」は、専属の採鉱場として、鉱山と坑道をつぎつぎに拡げていました。







陸中大橋


正面奥に釜石鉱山があります。




釜石鉱山
(跡)
正面斜面のコンクリート遺構は、選鉱場の跡。
各鉱山(坑道)は両方の谷の数 km 奥にあった。
大正期以後は「西列」(向って左の谷)が中心だった。

現在は、鉱石の採掘はすべて廃止。坑道の地下水を利用した
ミネラルウォーターの製造などを行なっています。




釜石鉱山 
三井時代(1924-34年頃)
(上)インクラインと選鉱場
(左の建物)
(下)新山坑・坑内の採鉱場(切りは)

「新山坑」は、「西列」の鉱山の一つ。採取した鉱石は
貨車に載せ、坑内軌道で坑外に運び出す。
そのまま坑口から、運鉱線で、上の写真のインクラインの
頂上まで運び、選鉱場に落としこんで選鉱作業を行なう。







 釜石鉱山の歴史は古く、江戸中期の 1727年、盛岡藩の本草家・阿部友之進が仙人峠で「慈石」(磁石、磁鉄鉱)を発見したのが、最初の記録になります。磁石は、東アジアの三大発明のひとつで(ほか2つは、紙と火薬)、日本でも知られていましたが、阿部は、磁石の治療効果に着目して探索していたのでした。

 その後、大橋にも磁鉄鉱の露頭があるのが注目され、盛岡藩の御山奉行一行が調査して、『大橋磁石岩絵図』(1813年)を作製しています。

 幕末の 1849年(ペリー来航以前!)には、大橋の磁鉄鉱から鉄を精錬し、水戸藩の那珂湊反射炉に供給したことが推定されます。精錬は失敗した、鉄はできなかったと記録されていますが、「もりおか歴史文化館」には、この銑鉄で 1855年に鋳造した模型の大砲が所蔵されています。盛岡藩は磁石岩の採掘を禁止していたので、成功の事実を公にできなかったのかもしれません。

 本格的な鉄鉱石の採掘と精錬は、1858年、盛岡藩士・大島総左衛門(高任)によって開始されます。水戸の那珂湊反射炉建設にかかわった大島は、日本在来の「たたら」製鉄による銑鉄で鋳造した大砲は壊れやすいことから、鉄鉱石を原料とする西洋式鎔鉱炉による製鉄を志し、盛岡藩に支援を断られるなか、私力で大橋に高炉(鎔鉱炉)を建設し、出銑に成功します。

 これは、日本最初の西洋式高炉による製鉄で、世界遺産の「橋野高炉」は、「大橋高炉」の成功を見た盛岡藩が追随して設けたものです。まもなく、「安政の大獄」による尊王攘夷派の粛清によって、那珂湊反射炉も取り壊され、国産製鉄による大砲築造は行われなくなってしまいますが、釜石周辺には続々と高炉が建設され、製造された銑鉄は、主に鉄銭の鋳造に使われました。1867年大政奉還により発足した明治政府は、貨幣の私鋳造を禁止しますが、釜石周辺では、禁令を破って鉄銭の鋳造が続けられました。

 1880年、釜石市鈴子町に「官営釜石製鉄所」が竣工、操業開始しますが、1882年には廃業となります。高炉は故障続きで、3年間の稼働日数は、わずか 293日でした。

 「官営製鉄所」の失敗原因については、原料木炭の不足、鉄鉱石の予備焼成不充分、外国技術と職工技能の乖離、政府財政の破綻など、さまざまな説がありますが、いずれにせよ、巨額の投資により、在来の原料・労働力の特性を無視して、いきなり巨大高炉を建設し、外国技術による運転を強行したことに、おおもとの原因があることは明らかでしょう。

 なお、大島高任は、「官営製鉄所」の計画段階で、小規模高炉の建築・操業から始めて徐々に規模を拡大してゆく方法を進言していたのですが、採用されませんでした。そのため、大島は、これ以後は釜石の採鉱・製鉄から、すっかり手を引いてしまいました。










釜石製鉄所 
釜石市鈴子町
(上,中)道路からの全景。(下)玄関。

現在は、新日鉄住金の経営。銑鉄生産はやめています。





釜石製鉄所 
釜石市鈴子町
「田中製鐵所」時代。

(上)1910-15年頃。(下)1917年。
わずか数年の間に、工場設備も生産量も
爆発的に拡大した。


 「官営」の失敗により廃墟と化した「釜石製鉄所」を引き受けて再興させたのは、政商・田中長兵衛でした。

 田中は、はじめは製鉄所に残されている製品銑鉄や鉄鉱石、木炭を売払って、製鉄所を解体する目的だったのですが、輸送費用がかかりすぎて挫折。経営を一任されて現地に赴いた横山久太郎や、官営製鉄所の元・技術者・職工ら地元の人々の熱意にほだされて、製鉄所として再興することを決意します。横山らは先ず、大島高任の高炉とほぼ同型の小高炉で試行し、48回の失敗ののち 49回目に連続出銑操業に成功(1886年)、その後、官営製鉄所時代の大型高炉2基も、改良を施して操業可能にしました。そして、木炭に替って、コークスによる精錬を開始しました。

 有名な官営八幡製鉄所は、この釜石の成功にもとづき、釜石から技師と熟練職工を派遣し、大島高任の長男・道太郎を技監として発足したものです(1901年操業開始)。

 第1次大戦による鉄需要の飛躍的増加で(日本は鉄の輸入国から輸出国に変りました)、田中経営の釜石製鉄所は最盛期を迎えます。1917年には、個人経営から会社組織に編成替えし、「田中鉱山(株)釜石製鉄所」と改称するとともに、工場設備を大幅に拡張しました。

 賢治らの「東海岸視察団」が釜石を訪れたのは、まさにこの“絶頂期”のさなかだったことになります。

 翌 1918年には、ヨーロッパで大戦が終結するとともに、日本は戦後恐慌にみまわれ、釜石製鉄所は、設備の大拡張がたたって、経営破綻に陥ることとなります。

 1924年、田中長兵衛らは、釜石鉱山と製鉄所の経営を三井財閥に譲り渡し、こうして“田中時代”は幕を閉じることとなりました。


参考文献

釜石市教育委員会・編/発行『大橋高炉跡・釜石鉱山・旧釜石鉱山事務所解説パンフレット』,2016.
釜石市立鉄の歴史館・編『釜石市立 鉄の歴史館』,2016,釜石市.    
釜石市世界遺産登録記念誌編集委員会・編『鉄都釜石――日本近代製鉄の夜明け。』,2016,釜石市.






 ◦ 釜石の夜のそら高み熾熱の鉱炉にふるふ鉄液のうた。

 ◦ この群(東海岸実業視察団)と釜石山田いまはまた宮古と酒の旅をつゞけぬ。

宮沢賢治書簡[35] 1917年7月29日消印 保阪嘉内宛て より。
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 釜石の夜のそらふかみもえ熾る鉄の□□りにわれも泣かまし

『歌稿A』#555〔第一形態〕



 房たれしかんざしなどをおもひ行けば夜ぞらをふかみ熔鉱炉もえ

『歌稿A』#555〔最終形態〕





「溶鉱炉」
菅野幸夫
釜石市教育センター






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