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ハームキヤ(7)




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花巻市内の『春と修羅』関係箇所


「ハームキヤ」とは、賢治語wで、花巻のことです。





花巻農学校と「四本杉」「五本杉」












地図(花巻西郊)
 現地案内板に加筆。





 1923年4月に、賢治の勤務していた郡立・稗貫農学校は、県立に昇格して「花巻農学校」と改称し、花巻西郊の新築校舎に移転しました。現在、花巻市文化会館がある場所です。

 同時に、農業実習のための水田も、新校舎の北側に移転しましたが、稗貫農学校の実習田が瀬川畔の水の便の良いところにあったのと違って、新校舎の周辺は、豊沢川岸より 20m高い高台であり、用水を得にくいのが悩みでした。


∇ 画像はこちら(花巻農学校,実習田・跡)⇒:
花巻農学校跡

∇ 参考画像(稗貫農学校の実習田)⇒:ハームキヤ(3)




 今日のひるすぎなら
 けはしく光る雲のしたで
 まつたくおれたちはあの重い赤いポムプを
 ばかのやうに引つぱつたりついたりした
 おれはその黄いろな服を着た隊長だ
 だから睡いのはしかたない

『春と修羅・第1集』1923.8.1.「青森挽歌」より。


 ↑有名な作品のこの一節も、新しく始めたばかりの実習水田で、水を水路から汲み上げるのに苦労しているようすを描いています。「黄いろな服」は、賢治が学校で着ていた実習服。この服装で小岩井農場などへも出かけていました。







田日土井
(たにちどい) 付近の大堰川




田日土井・跡 
「渇水と座禅」詩碑





「土井とは、水路に設けた盛り土の分水口です。田日土井は、花巻農学校で賢治が担当した水田へ大堰
〔大堰川―――ギトン注〕から水を引くための分水口でした。大正13年(1924)、岩手県は大干ばつとなり、花巻農学校の水田もひどい状態でした。賢治は、農家が水引きの相談を重ねる殺気立った場に分水のお願いをしに行ったり、水引きのために生徒たちと一緒に不寝番に立ったりしました。」

現地案内板より。






258

     渇水と座禅

1925.6.12.

 にごって泡だつ苗代の水に
 一ぴきのぶりき色した鷺の影が
 ぼんやりとして移行しながら
 夜どほしの蛙の声のまゝ
 ねむくわびしい朝間になった
 さうして今日も雨はふらず
 みんなはあっちにもこっちにも
 植えたばかりの田のくろを
 じっとうごかず座ってゐて
 めいめい同じ公案を
 これで二昼夜商量する……
 栗の木の下の青いくらがり
 ころころ鳴らす樋
(ドヒ)の上に
 出羽三山の碑をしょって
 水下ひと目に見渡しながら
 遅れた稲の活着の日数
 分蘖の日数出穂の時期を
 二たび三たび計算すれば
 石はつめたく
 わづかな雲の縞が冴えて
 西の岩鐘一列くもる

『春と修羅・第2集』#258,1925.6.12.「渇水と座禅」〔定稿〕



 なぜ、夜通し田んぼのあぜにすわって見張りをしているのかというと、夜中に水路を塞いで自分の田に水を引き入れる人がいるからです
(これを我田引水と言いますw)

 時間で取り決めをして、交代で用水を使うのでしょうけれども、ひでりの年は、それだけでは水が足りないのです。苗代が干からびる寸前の状態で濁っています。

 農学校の田は、水路のいちばん下のほうですから、夜通し見張りをしていないと、途中の田の持主に水を取られてしまいます。みな、生活がかかっているので、きれいごとを言ってはいられません。

 この詩で、「座禅」「公案」と言っているのは、“このままひでりが続くと、今年の稲作はどうなるのか?どうしたらいいのか?”という、いくら考えても解決しようのないことを、みなが一心に考え続けている絶望的な状況を表現しているのでしょう。

 「公案」とは、禅宗で、修行者が悟りを開くための課題として与えられる問題のことで、多くは祖師の言行録から採られています。有名な公案の例としては、「両手をポンと打って、その片手の音を聞け」「『無』とは何か?」など。無理難題の典型みたいなものですが、禅寺へ参禅に行くと、こういう問題を出されて、一心に考えさせられます。

 「樋
(ドヒ)」は、土井。田日土井のことです。「ころころ」は水音。「出羽三山の碑」は、「羽黒山/湯殿山/月山」と彫られた山岳信仰の石碑で、今でも田日土井・跡に立っています。

 「西の岩鐘」は、江釣子山、草井山など、花巻西郊に並ぶ尖った形の山々でしょう。






「新校舎になってからの実習地は、水田が6反歩ありました。
〔…〕宮沢さんも、水田の水引きには困ったようでした。何しろ学校の水田は、高台で下の方では、いつも水が足りなくてカンバツ気味のところなのです。夜なかにこっそり水ひきにゆくのです。昼は水番人がいて誰が水ひきにきたかよく見えるので、夜なかに上の方まで行って水をひくのです。夜出歩くのですから、よく堰のようすなどがみえないために『せっかく引いた水が途中でとまっていた』などといって、宮沢さんも苦労しておりました。〔…〕

 何しろ農家なら、深夜眠らないで水引きしても、それを口実に翌日の昼ゆっくり寝ておられるからで何もないのですが、わたしたちは、そうはゆきません。昼は昼で授業をしなければならないのですから、とても辛いもんでした。

 6反歩から10石ぐらいは収穫があるのですが、試食会に食べるぐらいで、売った金は県の収入になるのでした。」

「ある対話 その三」から堀籠文之進(花巻農学校で賢治の同僚教諭)の発言, in:森荘已池『宮沢賢治の肖像』,1974,津軽書房,p.95.



     
〔…〕
 草のいきれとひのきのにほひ
 鳥はまた一さうひどくさわぎだす
 どうしてそんなにさわぐのか
 田に水を引く人たちが
 抜き足をして林のへりをあるいても
 南のそらで星がたびたび流れても
 べつにあぶないことはない
 しづかに睡ってかまはないのだ

『春と修羅・第2集』,#156,1924.7.5.〔この森を通りぬければ〕〔定稿〕












「雲の信号」詩碑 
市立花巻中学校

花巻中学校・通用門の中に、賢治詩碑
(矢印)があります。
上段に口語詩「雲の信号」を刻み、下段に
「四本杉ゆかりの地」とあります。



       雲の信号

 あゝいゝな、せいせいするな
 風が吹くし
 農具はぴかぴか光つてゐるし
 山はぼんやり
 岩頸
(がんけい)だつて岩鐘(がんしやう)だつて
 みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ

   そのとき雲の信号
   もう青白い春の
   禁慾のそら高く掲
(かゝ)げられてゐた

 山はぼんやり
 きつと四本杉には
 今夜は雁もおりてくる

『春と修羅・第1集』1922.5.10.「雲の信号」




“四本杉”跡 
現・市立花巻中学校・裏

“四本杉”が立っていたのは、現在の中学校敷地
の裏(北西角)、画面左の草の生えた空き地のあたり。



「この地にあった『四本杉』は、樹齢 300年を超える巨木で、広大な高原のシンボルとなっていました。落雷などで損傷したため、昭和52年(1977)に伐採されました。」

現地案内板より。



 「雲の信号」の作品日付は 1922年ですから、その舞台は花巻農学校の新しい実習田ではなく、花巻駅の北東にあった稗貫農学校当時の実習田であったはずです。詩のさいごの「きつと四本杉には/今夜は雁もおりてくる」は、眼の前の風景ではなく、未来のことを予想しているのですから、詩の“舞台”から「四本杉」が見えている必要はありません。

 しかし、1923年に移転した花巻農学校の新しい実習田からは、「四本杉」はすぐ近くですから、ひじょうによく見えたはずです。新しい水田で実習指導を始めた賢治が、「四本杉」に眼を惹かれなかったとは思えません。

 残念ながら、「雲の信号」の原稿は、印刷直前の【印刷用原稿】しか残っていないので、最後の2行が、稗貫農学校時代からあったものか、それとも花巻農学校に移ってから推敲のさいに書き加えたのか、たしかめるすべはないのですが。。。












延命寺地蔵堂 
入口(鳥居)
左に見える杉の高い木立ちが、“5本杉”の一部(らしい)。

神社としか思えない門構えですが、
明治から昭和戦前までは天台宗寺門派、
戦後・現在は修験宗の寺院です。

いちおう、“5本杉”ということになっていますが、
ここの杉は何本なのか、ほんとうはよくわかりません。
↓下で賢治の詩を見たあとで、くわしく述べます。





延命寺地蔵堂





延命寺地蔵堂 
神杉の切株
“5本杉”のうち巨樹だった1本は、1979年大風で倒れ
たため伐採され、その切株が神木として残されている。


 こちらで、倒れる前の巨杉の写真を見ることができます⇒:『宮澤賢治の詩の世界』〜石碑の部屋〜。主幹の途中から小さい幹が枝分かれしているので「子持ち巨杉」と呼ばれ、東北各地から安産祈願の参拝者が集まったそうです。






 地蔵堂の五本の巨杉
(すぎ)
 まばゆい春の空気の海に
 もくもくもくもく盛りあがるのは
 古い怪
(け)性の青唐獅子の一族が
 ここで誰かの呪文を食って
 仏法守護を命ぜられたといふかたち

    ……地獄のまっ黒けの花椰菜め!
      そらをひっかく鉄の箒め!……

 地蔵堂のこっちに続き
 さくらもしだれの柳も匝
(めぐ)
 風にひなびた天台寺
(でら)
 悧発で純な三年生の寛の家
 寛がいまより小さなとき
 鉛いろした障子だの
 鐘のかたちの飾り窓
 そこらあたりで遊んでゐて
 あの青ぐろい巨きなものを
 はっきり樹だとおもったらうか

    ……樹は中ぞらの巻雲を
      二本ならんで航行する……

     
〔…〕

     ……樹は天頂の巻雲を
       悠々として通行する……

 いまやまさしく地蔵堂の正面なので
 二本の幹の間には
 きうくつさうな九級ばかりの石段と
 褪せた鳥居がきちんと嵌まり
 樹にはいっぱい雀の声

     ……青唐獅子のばけものどもは
       緑いろした気海の島と身を観じ
       そのたくさんの港湾を
       雀の発動機船に借して
       ひたすら出離をねがふとすれば
       お地蔵さまはお堂のなかで
       半眼ふかく座ってゐる……

 お堂の前の広場には
 梢の影がつめたく落ちて
 あちこちなまめく日射しの奥に
 粘板岩の石碑もくらく
 鷺もすだけば
 こどものボールもひかってとぶ

『春と修羅・第2集』,#520,1925.4.18.〔地蔵堂の五本の巨杉が〕〔定稿〕




 寺の説明板によると、「巨杉
(おおすぎ)」は3本あったそうです。3本の神木として、天平元年(729年)からの縁起が伝わっています。

 現在は、切株の「巨杉」のほかに、4〜5本の杉の高木がかたまって聳え立っていますが、いずれも径は「巨杉」ほどでなく、大風で倒れた以外の2本がどうなったのか、よくわかりません。

 また、賢治が「五本の巨杉」と言っているのは、切株の「巨杉」と、いま残っているうちの4本なのか?‥‥どうもそうではないようです。「地蔵堂の正面なので/二本の幹の間には」石段と鳥居が「嵌まり」という位置関係から考えると、賢治の当時には、地蔵堂の正面左右に「巨杉」があったようです。つまり、現在は切株も残っていない「巨杉」が、少なくともあと1本あったことになります。

 当時の「巨杉」の数については、賢治の詩も曖昧です。↑上の作品、〔定稿〕では「五本の巨杉」ですが、〔下書稿(一)〕では「巨杉」は「四っつ」と書かれています。

 けっきょく、「巨杉」は5本なのか、4本なのか、3本なのか?‥‥よくわかりませんでした。よくわからないところがミステリアスで、よいのかもしれませんw

 詩に登場する「悧発で純な三年生の寛」は、延命寺住職の子・桜羽場寛氏、1924年3月に花巻農学校を卒業しています。

 賢治が「粘板岩の石碑」と言っているのは、延命寺の起源を記した『正保の碑文』(1645年建立)のこと。「三本の神杉」の起源についても記しています。現在は、地蔵堂の隣りに建てられた鞘堂の中に安置されています。






∇ 本記事はこちら⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜【14】雲の信号



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