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五輪峠(4)




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人 首
(ひとかべ)







  五輪
(ごりん)は、岩手県遠野市と水沢・江刺方面(奥州市)をつなぐ街道が北上山地を越える分水界にあたります。五輪峠越えの道は、江戸時代以前から明治中期まで、江刺と遠野を結ぶ唯一の交通路であり、つどつどの戦乱で古戦場となった伝説があります。

 1924年3月24日、花巻で農学校教師をしていた宮沢賢治は、五輪峠を越えて江刺側、上大内沢の実家に寄宿生を送り届けた後、麓の人首町に宿泊しています。 






人首川と人首小学校 
荒町橋から。




人首町付近(地図)


賢治と生徒の二人は、24日に五輪峠を越えて
上大内沢に下り、賢治は、人首町(現・奥州市
江刺区米里)までおりて泊まり、翌日は乗合
自動車(バス)で水沢へ向かったと推定されます。



 「人首町」「人首川」という地名は、なにか凄惨な歴史を想像させますが、現在まで伝わっている伝説では、坂上田村麻呂を主将とする朝廷軍に追い詰められたエゾの少年“人首丸”
(エゾの首領アテルイないし“悪路王”の子)が、この川の上流で朝廷軍に激しく抵抗したすえ最期を遂げたとされています。

 しかし、“人首丸”という人名自体が伝説の域を出ません。エゾ軍と朝廷軍の衝突、あるいはエゾ住民に対する朝廷軍の虐殺、‥そういった事件の犠牲者の首が、川を埋め尽くして流れたことから“人首川”と呼ばれるようになった……そんな発祥譚を考えてみたくなりますが、それもまったく空想でしかありません。

 下って豊臣秀吉の時代、人首町は仙台・伊達藩領北辺の重要な警護拠点とされ、「人首城」には江戸時代を通じて伊達親族の沼辺氏が授封されていました。山城形式の城跡のほか、かつては沼辺家臣団の武家屋敷が並んでいた「城内」と呼ばれる小路が残っています。

 厳しい警備と圧政を受け続けてきたこの地域の歴史がしのばれます。

 人首は、今でこそ山沿いの農村にすぎませんが、近世を通じて要害都市ないし城下町として、また、近代においては交通の要衝として栄えた町だったのです。






    人首町


 丘のはざまのいっぽん町にあさひがふり
 雪や□□□あさましいほど光ってゐる

   ……丘には杉の杜もあれば
     赤い小さな鳥居もある……

 まっしろに埋む五輪峠のいたゞきで
 鉛の雲が湧きまた翔け
 また南の種山ヶ原のなだらには
 畏怖やひかりの霧でいっぱいだ

   ……嗚呼朝の紺外套のかなしさ……

 こんなつめたい風の合間から
 ひばりのうつくしい声も聞えてくるし
 やどり木の毬には艸いろのもあって
 その梢から落ちるやうに飛ぶ鳥もある
「人首町」,#18,1924.3.25.〔下書稿(一)〕:
『春と修羅・第2集』より。





人首
(米里) 壇ヶ岡・久須師神社

「丘」の上の「赤い小さな鳥居」。




人首
(米里) 五輪峠方面を望む。

壇ヶ岡から。右手の人首城址には「杉の杜」も見えます。




種山ヶ原の稜線 
荒町橋付近から。
遠景中央のピークが物見山。








    人首町


 丘のはざまのいっぽん町にあさひがふり
 雪や雑木があさましいまで光ってゐる

   ……丘には杉の林もあれば
     黝い小さな鳥居もある……

 広田湾から十八里
 水沢へ七里の道が
 けさうつくしく凍ってゐて
 藻類の行商人や
 税務署の濁密係り
 みな藍靛の影を引いて
 つぎつぎ町を出てくれば
 遠い馬橇の鈴もふるえる
    
〔…〕
「人首町」,#18,1924.3.24.〔下書稿(二)〕:
『春と修羅・第2集』より。




人首
(米里) 菊慶旅館




人首
(米里) 
菊慶旅館から荒町方面を望む。

人首町は、江刺と大船渡を結ぶ盛
(さかり)街道に沿って
発達した集落で、その南端にある菊慶旅館の2階からは、
街道筋と両側の商店、役所、教会など、さらに正面遠方
には、ちょうど五輪峠付近の山々を望むことができました。

詩のはじめにある「いっぽん町」とは、一本道の真直ぐな
街道の両側に家がならぶ人首町の印象を表しているのだと
思います。





「菊慶旅館は4代続いた老舗旅館で、明治後期から昭和初期にかけて最も繁盛しました。

 宮沢賢治は大正6年と大正13年の2度、この旅館に投宿したことが推定されます。
〔…〕

 賢治の大正13年3月25日付の詩『人首町』は、この旅館からまっすぐ五輪峠方向を眺望し、その印象を表したものです。
賢治街道を歩く会」  
現地案内板



 ↑上の〔下書稿(二)〕には、「広田湾から十八里…の道」すなわち盛街道が、氷結して朝日に光っているようす、遠くから響く「馬橇の鈴」の音、また「藻類の行商人」や「税務署の濁密係り」
(密造酒を摘発する査察官)の姿が見られる早朝の人首町の風景が描かれています。

 おそらく、菊慶旅館の2階から起きぬけに眺めた町のようすを回想して書いているのでしょう。



 なお、↑上の説明文にある「大正6年」の来訪とは、盛岡高農3年次だった 1917年8月、江刺地方地質調査の途上で人首町に宿泊しています。そして、そのあと原体村などで稚児剣舞に遭遇して名詩「原体剣舞連」の構想を得た、あの地質調査にほかなりません:


∇ 関連記事⇒:剣舞のさと(1)







宮沢賢治「人首町」詩碑 
久須師神社

遠方の山は焼石岳。








∇ 本記事はこちら⇒:
【過去日記倉庫】2012年7月8日




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