ギトンの◇ギャるリ★ど☆タブろ◆

五輪(ごりん)峠(3)




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峠から上大内沢まで







  五輪峠は、岩手県遠野市と水沢・江刺方面(奥州市)をつなぐ街道が北上山地を越える分水界にあたります。五輪峠越えの道は、江戸時代以前から明治中期まで、江刺と遠野を結ぶ唯一の交通路であり、つどつどの戦乱で古戦場となった伝説があります。

 1924年3月24日、花巻で農学校教師をしていた宮沢賢治は、五輪峠を越えて向う側・江刺方面に帰省する寄宿生に同伴して、この峠路を踏んでいます。 




五輪峠 
県道遠野江刺線
標高556m




五輪峠・
北新地・上大内沢(地図)
現地案内板に加筆。

賢治と生徒の二人は、五輪峠を越えて
江刺側・大内沢に下ったと推定されます。






       五輪峠に
       雪がつみ
       五つの峠に雪がつみ
       その五の峯の松の下
       地輪水輪火風輪、
       空輪五輪の塔がたち
       一の地輪を転ずれば
       菩提のこころしりぞかず
       四の風輪を転ずれば
       菩薩こゝろに障碍なく
       五の空輪を転ずれば
       常楽我浄の影うつす
       みちのくの
       五輪峠に雪がつみ
       五つの峠に…… 雪がつみ……

 「あ何だあいつは」
 「ああ野原だなあ」

 いま前に展く暗いものは
 まさしく早春の北上の平野である

       二の水輪を転ずればだめ
       三の火輪を転ずればだめ
       みんな転ずればおかしいな
       大でたらめだ

 薄墨の雲につらなり
 酵母の雪に朧ろにされて
 海と湛える藍と銀との平野である

 「向かふの雲まで野原のやうだ
 あすこらへんが水沢か
 どの辺だ君のところは
 どの辺だって云ったって
 こゝから見て
 見当のつかないことは
 やっぱりおれとおんなじだらう」

    
〔…〕
「五輪峠」,#16,1924.3.24.〔下書稿(一)手入れ〕:
『春と修羅・第2集』より。




五輪峠 

峠から江刺・水沢方面を望む。



∇ 参考記事⇒:
『宮沢賢治の《いきいきとした現在》へ』第5章(ii)









    五輪峠


 宇部何だって?……
 宇部五右エ門か……
 ずゐぶん古い名前だな……そいつが君の部落の主か
 みんなでそれを退治したいと云ふんだな
    
〔…〕
「五輪峠」,#16,1924.3.24.〔下書稿(二)〕:
『春と修羅・第2集』より。



    
〔…〕
 地主ったって
 君の部落のうちだけだらう
 野原の方ももってるのか

    ……それは部落のうちだけです……

 それでは山林でもあるんだな

    ……十町歩もあるさうです……

 それで毎日糸織を着て
 ゐろりのヘりできせるを叩いて
 政治家きどりでゐるんだな
 それは間もなく没落さ
 いまだってもうマイナスだらう
    
〔…〕

 向ふの雲まで野原のやうだ
 あすこらへんが水沢か
 君のところはどの辺だらう
 そこらの丘のかげにあたってゐるのかな
 そこにさっきの宇部五右エ門が
 やはりきせるを叩いてゐる

      雪がもうここにもどしどし降ってくる
      塵のやうに灰のやうに降ってくる
      つつじやこならの灌木も
      まっくろな温石いしも
      みんないっしょにまだらになる
「五輪峠」,#16,1924.3.24.〔下書稿(二)手入れ〕:
『春と修羅・第2集』より。



 賢治は同行の生徒に、

「君のところはどの辺だらう
 そこらの丘のかげにあたってゐるのかな」

 と言っていますが、この生徒の実家がある「君の部落」は、五輪峠の西麓、おそらく上大内沢と思われます。





五輪峠 
旧道
江刺側下り口。かつて宮沢賢治が歩いたこの山道は、
2014年までは通れましたが、現在は倒木に阻まれて

(通常の登山装備では通過できない状態です)
通行できません。









    
〔…〕
 所感となっては
 気相は風
 液相は水
 固相は核の塵とする
 そして運動のエネルギーと
 熱と電気は火に入れる
 それからわたくしもそれだ
 この楢の木を引き裂けるといってゐる
 村のこども
もそれで
 わたくしであり彼であり
 雲であり岩であるのは
 たゞ因縁であるといふ
 そこで畢竟世界はたゞ
 因縁があるだけといふ
    
〔…〕

 さう考えると
 なんだか心がぼうとなる
「五輪峠」,#16,1924.3.24.〔下書稿(一)手入れ〕:
『春と修羅・第2集』より。



 ↑「この楢の木を引き裂けるといってゐる/村のこども」が何を指すのかよくわかりませんが、失われた作品番号 #15 の草稿に書いてあったのかもしれません。

 「この楢の木」が、“ニセ峠”にあった五輪牧野の「楢の柵」
(現在は有刺鉄線)で、「村のこども」が同行の生徒だとすると、生徒と賢治の間で話題になっている村の地主は、五輪牧野も持っていたのかもしれません。戦後農地解放が行われるまで、林野も牧野も独占的に所有していたとすれば、この地主の権勢は大きかったと思われます。

 しかし、「みんなでそれを退治したい」という生徒の不満を聞きながら、賢治は、そうした一人の人間の権勢などは、生々流転する森羅万象の中では一瞬のことでしかない‥というようなことを考えています。

 そして、生徒のためにはもっと別の生活改善策を提案するのです。それが、↓次の #17 の作品に書かれます。




北新地 
上大内沢方面を望む。

ここから麓のほうを眺めると、ゆるやかな丘陵状の
地形が目立ちます。↓下の詩の「丘陵地」とは、この
あたりの風景かもしれません。









    丘陵地


 きみのところはこの丘陵地のつづきだらう
 やつぱりこんな安山集塊岩だらう
 そすると松やこならの生え方なぞもこの式で
 田などもやつぱり段になつたりしてるだらう
 いつころ行けばいゝかなあ
 ぼくの都合は
 まあ
 四月の十日ころまでだ
 木を植える場処や何かも決めるから
 ドイツ唐檜とバンクス松とやまならし

  やまならしにもすてきにひかるやつがある

 白樺は林のへりと憩みの草地に植えるとして
 あとは杏の蒼白い花を咲かせたり
 さう云ふふうにしてきれいにこさえとかないと
 なかなかいいお嫁さんになど行かないよ
 雪が降り出したもんだから
 きみはストウブのやうに赤くなつてるねえ

   ……水がごろごろ鳴つてゐる……

    
〔…〕
「丘陵地を過ぎる」,#17,1924.3.24.〔雑誌発表形〕:
『春と修羅・第2集』より。






上大内沢 





馬洗淵
(まりやぶち) 上大内沢



「馬洗淵の呼び名は、五輪越えを終えた馬喰達が休息を兼ね馬を洗ったのが由来といわれます。また近くには、藩制時代の上大内沢番所跡がありますが、正式には『御境番所』といい、仙台領から南部領に抜けるところに設置され、藩境の警備と共に、監視や通行人の取り締りが主な任務となっていました。

 また、周辺には屋号が『さかや(酒屋)』『おとや(うどん屋)』と称される民家があり、街道を通る旅人を対象として、商いを営んでいたことが伺われます。

 賢治の詩『丘陵を過ぎる』は、
〔…〕北新田から上大内沢の道筋が舞台と思われます。詩中からは道路沿いの風景や、住民の暮らしぶりが想像されますが、特に『水がごろごろ鳴っている/さあ犬が吠えだしたぞ』の箇所からは、馬洗淵周辺の情景が浮かんできます。春先なので、雪解けで水かさが増し、それで『ごろごろ』と、いつもより高く鳴り響いたのではないかと思います。

 今でもその場所に立つと、それと同じようにせせらぎが響いてきます。
賢治街道を歩く会」  
現地案内板



 「賢治街道を歩く会」の方が、水音の大きさと季節の関係に注目されたのはさすがと敬服しましたが、

 ‥ところで、読者の皆さんの体験として、夜の戸外とかで抱擁してキスなどした時に、急にせせらぎの音や虫の声が大きく聞こえたことはありませんか?

 ギトンはそんなことを想像してしまうのです……







    
〔…〕
 さあ犬が吠え出したぞ
 さう云っちゃ失敬だが
 まづ犬の中のカルゾーだな
 喇叭のやうないゝ声だ

   ひばがきのなかの
   あっちのうちからもこっちのうちからも
   こどもらが叫びだしたのは
   けしかけてゐるつもりだらうか
   それともおれたちを気の毒がって
   とめやうとしてゐるのだらうか

 ははあきみは日本犬ですね

   生藁の上にねそべってゐる
   顔には茶いろな縞もある

 どうしてぼくはこの犬を
 こんなにばかにするのだらう
 やっぱりしゃうが合はないのだな

   どうだ雲が地平線にすれすれで

 そこに一すじ白金環さへつくってゐる
「丘陵地を過ぎる」,#17,1924.3.24.〔定稿〕:
『春と修羅・第2集』より。




ヒバ垣の家 
北新地







∇ 本記事はこちら⇒:
【過去日記倉庫】2012年7月7日




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