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雫 石(2)




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化物丁場
(ばけものちょうば)









旧・橋場線
(現・田沢湖線) 春木場〜赤渕 間
「化物丁場」の位置(白矢印)



 田沢湖線は、盛岡と秋田県・大曲をつないでいますが、宮沢賢治の時代には、まだ延伸工事が進行している状態でした。

 雫石〜橋場間は 1922年7月に開通しましたが、宮沢賢治の散文『化物丁場』は、その鉄道敷設工事での難所に関するエピソードを、工事関係者から聞いて記録したものです。

 (橋場駅は、現在の田沢湖線にはありません。戦前のルートは秋田街道に沿って国見峠付近で奥羽山脈を越える計画でしたが、難工事のために放棄され、戦後は赤渕駅から別ルートでトンネルを掘削して田沢湖に達しました。)


 「丁場」とは工区のこと。それが「ばけもの」と呼ばれたのは、何度工事をやり直しても、雨が降ると崩れてしまうからです。







春木場の河原 
西を望む。
矢印の下が「化物丁場」の推定位置。




「化物丁場」
推定位置
西側から望む。
鉄道と道路が左カーブしている付近。




「五六日続いた雨の、やっとあがった朝でした。黄金
(きん)の日光が、青い木や稲を、照してはゐましたが、空には、方角の決まらない雲がふらふら飛び、山脈も非常に近く見えて、なんだかまだほんたうに霽(は)れたといふやうな気がしませんでした。

   
〔…〕

 車室の中は、割合空
(す)いて居りました。それでもやっぱり二十人ぐらゐはあったでせう。がやがや話して居りました。私のあとから入って来た人もありました。

 話はここでも、本線の方と同じやうに、昨日までの雨と洪水の噂でした。
〔…〕

 ところが私のうしろの席で、突然太い強い声がしました。

『雫石、橋場間、まるで滅茶苦茶だ。レールが四間も突き出されてゐる。枕木も何もでこぼこだ。十日や十五日でぁ、一寸
(ちょっと)六ヶ敷(むつかし)ぃな。』

 ははあ、あの化物丁場だな、私は思ひながら、急いでそっちを振り向きました。その人は線路工夫の半纒を着て、鍔の広い麦藁帽を、上の棚に載せながら、誰に云ふとなく大きな声でさう言ってゐたのです。

 『あゝ、あの化物丁場ですか、壊れたのは。』私は頭を半分そっちへ向けて、笑ひながら尋ねました。鉄道工夫の人はちらっと私を見てすぐ笑ひました。

 『さうです。どうして知ってゐますか。』少し改った兵隊口調で尋ねました。

   
〔…〕

 『どうしてさう度々壊れたでせう。』

 『なあに、私ぁ行ってから二度崩れましたが雨降るど崩れるんだ。さうだがらって水の為でもないんだ、全くをかしいです。』

 『あなたも行って働いてゐたのですか。』

 『私の行ったのは十一月でしたが、丁度砂利を盛って、そいつが崩れたばかりの処でした。全体、あれは請負の岩間組の技師が少し急いだんです。ああ云ふ場所だがら思ひ切って下の岩からコンクリー使へば善かったんです。それでもやっぱり崩れたかも知れませんが。』

 『大した谷川も無かったやうでしたがね。』

 『いゝえ、水は、いくらか、下の岩からも、横の山の崖からも、湧くんです。土も黒くてしめってゐたのです。その土の上に、すぐ砂利を盛りましたから、一層いけなかったのです。』

   
〔…〕

 『でその崩れた砂利を、あなたも積み直したのですか。』

 『さうです。』その人は笑ひました。たしかにこの人は化物丁場の話をするのが厭ぢゃないのだと私は思ひました。」
宮沢賢治『化物丁場』より



 このエッセイは大部分が実話と思われます。賢治が、横黒線(現・北上線)の車中で出会った人からこの話を聞いたのは、1922年4-6月ころ。聞いた体験談は、前の年11-12月のことです。

 当時、現場の橋場線は、雫石〜橋場間の延伸工事が行われていました。

 工事関係者らしく、落盤の原因についても、現場は地下水が滲み出ていて崩れやすいことなどを挙げており、現場を訪れた鉄道検査官は、「山の岩の層が釣合がとれない為に起る」と言っています。おそらく断層破砕帯ではないかと思います。

 しかし、「私」(宮沢賢治)が訊き出したいと思っているのは、そうした土木工学的なことよりも、当時の人々が深く信じていた―――工事人夫のような人ならなおさら―――迷信的なこと、‥‥工事の邪魔をする“山のばけもの”の話だったにちがいありません。







「化物丁場」
推定位置
架線の下に線路のバラストが見える。

『定本・宮澤賢治語彙辞典』によると、
「化物丁場」工区の位置は春木場駅から
西へ約 2km とあります。線路に沿って
2km 測ると、このあたりになります。現在は、
沿道にコンクリートの擁壁が築かれています。




「『それが、又、崩れたのですか。』私は尋ねました。

 『崩れたのです。それも百人からの人夫で、八日かゝってやったやつです。積み直しといっても大部分は雫石の河原から、トロで運んだんです。前に崩れた分もそっくり使って。だからずうっと脚がひろがっていかにも丈夫さうになったんです。』

 『中々容易ぢゃなかったんでせう。』

 『えゝ、とても。鉄道院から進行検査があるので請負の方の技師のあせり様ったらありませんや、従って監督は厳しく急ぎますしね、毎日天気でカラッとして却かへって風は冷たいし、朝などは霜が雪のやうでした。そこを砂利を、掘っては、掘っては、積んでは、トロを押したもんです。』

 私は、あのすきとほった、つめたい十一月の空気の底で、栗の木や樺の木もすっかり黄いろになり、四方の山にはまっ白に雪が光り、雫石しづくいし川がまるで青ガラスのやうに流れてゐる、そのまっ白な広い河原を小さなトロがせはしく往いったり来たりし、みんなが鶴嘴を振り上げたり、シャベルをうごかしたりする景色を思ひうかべました。それからその人たちが赤い毛布でこさへたシャツを着たり、水で凍えないために、茶色の粗羅紗
(そらしゃ)で厚く足を包んだりしてゐる様子を眼の前に思ひ浮べました。

 『なあに、さうやって、やっと積み上ったんです。
〔…〕その晩は実は、春木場で一杯やったんです。それから小舎に帰って寝ましたがね、いゝ晩なんです、すっかり晴れて庚申さんなども実にはっきり見えてるんです。あしたは霜がひどいぞ、砂利も悪くすると凍るぞって云ひながら、寝たんです。すると夜中になって、さう、二時過ぎですな、ゴーッと云ふやうな音が、夢の中で遠くに聞えたんです。眼をさましたのが私たちの小屋に三四人ありました。ぼんやりした黄いろのランプの下へ頭をあげたまゝ誰も何とも云はないんです。だまってその音のした方へ半分からだを起してほかのものの顔ばかり見てゐたんです。すると俄かに監督が戸をガタッとあけて走って入って来ました。

 『起きろ、みんな起きろ、今日のとこ崩れたぞ。早く起きろ、みんな行って呉れ。』って云ふんです。誰も不承不承起きました。まだ眼をさまさないものは監督が起して歩いたんです。なんだ、崩れた、崩れた処へ夜中に行ったって何
(な)ぢょするんだ、なんて睡くて腹立ちまぎれに云ふものもありましたが、大抵はみな顔色を変へて、うす暗いランプのあかりで仕度をしたのです。間もなく、私たちは、アセチレンを十ばかりつけて出かけました。水をかけられたやうに寒かったんです。天の川がすっかりまはってしまってゐました。野原や木はまっくろで、山ばかりぼんやり白かったんです。場処へ着いて見ますと、もうすっかり崩れてゐるらしいんです。そのアセチレンの青の光の中をみんなの見てゐる前でまだ石がコロコロ崩れてころがって行くんです。気味の悪いったら。』その人は一寸話を切りました。

 私もその盛られた砂利をみんなが来てもまだいたづらに押してゐるすきとほった手のやうなものを考へて、何だか気味が悪く思ひました。
〔…〕
宮沢賢治『化物丁場』より




「化物丁場」
推定位置付近
とくべつに地盤の崩れやすい場所なのでしょう。
現在も、治山工事が行われています。









「『今度の積み直しも又八日もかゝつたんですか。』私は尋ねました。

 『いゝえ、その時は前の半分もかゝらなかったのです。砂利を運ぶ手数がなかったものですから。その代り乱杭
(らんぐひ)を二三十本打ちこみましたがね、昼になってその崩れた工合を見ましたらまるでまん中から裂けたやうなあんばいだったのです。県からも人が来てしきりに見てゐましたがね、どうもその理由がよくわからなかったやうでした。それでも四日でとにかくもとの通り出来あがったんです。

  その出来あがった晩は、私たちは十六人、たき火を三つ焚いて番をしてゐました。尤も番をするったって何をめあてって云ふこともなし、変なもんでしたが、酒を呑んで騒いでゐましたから、大して淋しいことはありませんでした。それに五日の月もありましたしね。たゞ寒いのには閉口しましたよ。それでも夜中になって月も沈み話がとぎれるとしいんとなるんですね、遠くで川がざあと流れる音ばかり、俄に気味が悪くなることもありました。

  それでもたうとう朝までなんにも起らなかったんです。次の晩も外の組が十五人ばかり番しましたがやっぱり何もありませんでした。
〔…〕

  ところが、十二月の十日でしたが、まるで春降るやうなポシャポシャ雨が、半日ばかり降ったんです。なあに河の水が出るでもなし、ほんの土をしめらしただけですよ。それでゐて、その夕方に又あの丁場がざあっと来たもんです。折角入れた乱杭もあっちへ向いたりこっちへまがったりです。もうこの時はみんなすっかり気落ちしました。


  それでも云ひつけられた通り私たちはみんな、さう、みんなで五十人も居たでせうか、あちこちの丁場から集めたんです。崩れた処を掘り起す、それからトロで河原へも行きましたが次の日などは砂利が凍ってもう鶴嘴が立たないんです。いくら賃銀は貰ったって、こんなあてのない仕事は厭だ、今年はもうだめなんだ、来年神官でも呼んで、よくお祭をしてから、コンクリーで底からやり直せと、まあ私たちは大丈夫のやうなことを云ひながら働いたもんです。

  それでもたうとう、十二月中には、雪の中で何とかかんとか、もとのやうな形になったんです。おまけに安心なことはその上に雪がすっかり被さったんです。堅まって二尺以上もあったでせう。』

 『あゝさうです。その頃です。私の行ったのは。』私は急いで云ひました。」
宮沢賢治『化物丁場』より




雫石川と「化物丁場」 
上流から望む。
鉄塔の下に見える杉の叢林が「化物丁場」推定位置。
現場の線路は、雫石川の河岸から
高く土盛りした上に載っています。






      ※

 雪融
〔ゆきげ〕の山のゆきぞらに
 一点白くひかるもの
 そは恐らくは日輪なりなんと
 赤き毛布
〔けっと〕のシャツ着たる
 ひとびとあふぎはたらけり。
      ※

『冬のスケッチ』,10(5)-11(1)〔下書稿手入れ〕



 『冬のスケッチ』が書かれたのは、散文『化物丁場』と同じころです。

 “白い太陽”と「赤き毛布
〔けっと〕のシャツ」の対照は、やはり同じ時期に書かれた『春と修羅』収録詩「日輪と太市」にも見られます。厚い雲の向うに隠れた暖かい太陽の恵みを慕う北国の人々の気持ちをよく表現しています。(「赤き毛布のシャツ」は、『冬のスケッチ』草稿に後から書き加えられていますが、草稿を書き下ろした 1922年ころのモチーフを想起して書いていると言えます)

 青年時代の賢治にとっては、太陽に代表されるような自然の恵み、それを受けて利用する希望にあふれた科学の営みが、人間に害をもたらす「ばけもの」としての自然のおぞましさを畏れる信仰と、適度に釣り合っていたのでした。



∇ 関連記事⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 第1章【3】







雫石川 
上流から望む。




        化物丁場

 すなどりびとのかたちして
 はだれの雪に鶴嘴
(ハシ)ふるふ
 峡はけむりのあしたかな

 成りてはやがて崩るてふ
 化物丁場しみじみと
 水冽
〔きよ〕くして春ちかし

 山はにまろく白きもの、
 恐らくかれぞ日ならんと
 ひとびと仰ぎはたらけり

『文語詩稿一百篇』より〔下書稿(三)〕



 ↑これは、散文『化物丁場』と『冬のスケッチ』の断片をもとにして、1931年以後に文語詩にまとめた際の逐次形態の一つです。もとの草稿にあった「赤き毛布」は消去され、視覚的にも気分的にもモノクローム一色の冬の世界です。

 そのなかで、“春は近い”と信じて喘ぎながら働いている人々は、1920年代・青年期の賢治よりもずっと重いものを背負っています。

 1931年満州事変を契機に、出口の見えない暗い時代に突入したことを、身心の総体をもって深く受け止めていた賢治の姿が、ここにあります。



∇ 関連記事⇒:
《あ〜いえばこーゆー記》【キメラ襲う(1)(2)(3)】







秋田駒ヶ岳 
七つ森・生森から。
雫石川の水源。岩手・秋田県境。




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