ギトンの◇ギャるリ★ど☆タブろ◆

トキーオ(17)




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 宮沢賢治は、童話の中では東京を「トケイ」「トケウ」「トキーオ」などと呼んでいました。「トキーオ」は、エスペラント語で東京のことです。


 東京での賢治の足跡をたどります。





渋谷、品川







明治神宮 
北参道
現在では暖帯系の広葉樹が鬱蒼と茂っていますが、
1915年の設定時には森のない荒地でした。



「上野に着いてすぐに国柱会へ行きました。『私は昨年御入会を許されました岩手県の宮澤と申すものでございますが今度家の帰正を願ふ為に俄かにこちらに参りました。どうか下足番でもビラ張りでも何でも致しますからこちらでお使ひ下さいますまいか。』やがて私の知らない先生が出ておいでになりましたからその通り申しました。

 『
〔…〕会員なことはわかりましたが何分突然の事ですしこちらでも今は別段人を募集も致しません。よくある事です。全体父母といふものは仲々改宗出来ないものです。遂には感情の衝突で家を出るといふ事も多いのです。まづどこかへ落ちついてからあなたの信仰や事情やよく承った上で御相談致しませう。』

 
〔…〕こんな事が何万遍あったって私の国柱会への感情は微塵もゆるぎはいたしません。けれども最早金は三四円しかないしこんな形であんまり人にも会ひたくない。まあ後は略します。

 第二日には仕事はとにかく明治神宮に参拝しました。その夕方今の処に問借りしました。はじめの晩は実に仕方なく小林様に御厄介になりました。家を出ながらさうあるべきではないのですが本当に父母の心配や無理な野宿も仕兼ねたのです。その内ある予約の本をやめて二十九円十銭受け取りました。窮すれぱ色々です。」

宮沢賢治書簡 1921年1月29·30日付 関徳弥宛て



〔…〕この一週間は色々の事がありました。上野に着いたらお金が四円ばかりしか無くあてにして来た国柱会には断はられ実に散々の体でした。御本尊と御書と洋傘一本袴もなく帽子もなく筒袖の着物きのみきのまゝ明治神宮に詣ったり次から次と仕事をたづねたりしました。」

宮沢賢治書簡 1921年1月30日付 保阪嘉内宛て



 賢治が、妹のトシ、従弟の関徳弥とともに日蓮主義団体『国柱会』に入信し、花巻でささやかな日蓮宗同信者の集まりを持ったのは 1920年秋のことでしたが、翌年1月23日頃には、東京の『国柱会』本部に身を投じると称して、突然出奔してしまいます。

 しかし、『国柱会』本部では厄介な家出人として扱われ、悪いことは言わないからおうちに帰りなさい、今夜は東京の親戚か知り合いの家にでも泊めてもらいなさいなどとテイ良く諭されて、日本橋の小林六太郎方(中屋薬局)の世話になります。

 翌日、賢治が明治神宮へ詣でたのは、小林家の勧めによるものでしょう。↑上の手紙にも、そんなことをしている場合ではないのに‥という感じが現れています。そのあいだに、六太郎氏は賢治のために下宿探しをしていたものと思われます。


∇ 参考記事(小林六太郎宅)⇒:
トキーオ(15)

∇ 参考記事
(賢治の下宿)⇒:
トキーオ(3)






明治神宮・表参道 
1911年「鎮座祭」のための奉祝門

ごらんのように、創建当時は樹木のない荒地であり、
厳めしい巨大な奉祝門だけが目立っていました。
賢治は、こちらではなく代々木側の北参道から
入ったものと思われます。



 おりから、明治神宮は、前年11月に鎮座祭を挙行して開場されたばかりでした。鎮座祭と言っても、明治天皇の遺骨の一部なりとも移されたわけではありません。

 1912年に死んだ明治天皇は、京都の南に「伏見桃山稜」を造営して葬られていました。明治神宮は、いわばそれに対抗して東京に神宮を建てようという東京市長阪谷男爵を中心とする国粋主義的運動によるものでした。

 そのため、当時は、明治神宮建設に反対する意見も多かったのです。急進的自由主義、「小日本主義」を旗印とする東洋経済新報社の石橋湛山は、↓つぎのように書いています。


「多くの人は、明治時代の最大特色を以てその帝国主義発展であるというかも知れない。
〔…〕皮相に明治年代を考うれば、どこから見ても、ミリタリズム全盛の時代であった、インペリアリズム一点張りの時代であった。

 しかし僕は明治年代をこう見たくない。而してその最大事業は、政治、経済、社会の万般の制度および思想に、デモクラチックの改革を行ったことにあると考えたい。
〔…〕

 先帝陛下
〔明治天皇―――ギトン注〕を記念したいというならば、僕は一地に固定してしまうようなけち臭い一木造石造の神社などというものを建てずと、『明治賞金』を作れと奨めたい。ダイナマイトの発明者アルフレッド・ノーベルがもしその遺産を彼の記念碑や何かに費やしてしまったとしたならばどうであろう。彼は疾くの昔に世人から忘れられてしまったに違いない。しかし彼はその資産を世界文明のために賞金として遺した。而して彼は眇たる一介の科学者でありながら、永遠に世界の人心に記念せらるべき人となった。〔…〕

 繰り返して言う、東京のどこかに一地を相して明治神宮を建つるなどということは実に愚な極みである。こんなことは、断じて先帝陛下の御意志にもかなったことでないのみならず、また決して永遠に、先帝陛下を記念しまつる所以でもない。真に、先帝陛下を記念しまつらんと欲すれば、まず何よりも吾人は先帝の残された事業を完成するということ
〔湛山によれば、国会開設をはじめとする「デモクラシーの大主義」を発展させて普通選挙などを実現すること―――ギトン注〕を考えねばならぬ。而してもし何らか形に現われた記念物を作らんと欲するならば、『明治賞金』の設定に越して適当のものはない。」

『石橋湛山評論集』,pp.29-32; 初出:『東洋時論』1912年9月号.











渋谷駅から駒場へ向かう道


 1916年3月、盛岡高等農林・関西方面修学旅行の往路で、宮沢賢治らは東京の駒場農学校(1890年に東京帝国大学に編入され、「農科大学」と改称)を見学しています。

 当時は渋谷駅周辺にも今ほど建物がなく、明治以来たくさんあった水車小屋がしだいに姿を消し、木造家屋が立ち並びはじめていました。






農科大学・正門跡 

駒場農学校以来の敷地は、現在の東大駒場キャンパスよりも広く、
このあたりに、渋谷駅方面
(手前方向)に向って正門がありました。

正面奥は、東大駒場キャンパス・炊事門。




駒場農学校・実習田跡 
「ケルネル田んぼ」
現在は、「駒場野公園」の一部となり、筑波大学付属駒場中・高校
の生徒によって耕作が続けられている。




駒場農学校・実習田跡 
「水田の碑」


「この水田は 明治11年 ここ駒場野に開校した農学校の農場の一部でわが国最初の試験田 実習田として近代日本の発展を支える淵源の一をなした

 農学校は いくたびか 学制の変更により 名称を変えて その歴史を継ぐ学校が この地で発展した
〔…〕

 本校は 東京農業教育専門学校附属中学校として 昭和22年 開校以来右の歴史の流れを継いで この水田を教育の場に活用する栄光に恵まれ 耕作を続けて 本年創立40周年を迎えた
〔…〕

 昭和62年10月 筑波大学付属駒場中・高等学校」

「水田の碑」説明文より。








 1912年4月はじめ、東京に出奔中の宮沢賢治は、訪ねてきた父・政次郎の誘いを受けて関西旅行に同行することにし、翌日雨との予報を聞きながら、東京駅で東海道線下り夜行列車に乗車します。



    ※ 旅中草稿

 父とふたりいそぎて伊勢に詣るなり、雨と呼ばれしその前のよる。

    ※

 赭ら顔、黒装束のそのわかものいそぎて席に帰り来しかな。

    ※

 コロイドの光の上に張り亘る夜の穹窿をあかず見入るも。

    ※

 品川をすぎてその若ものひそやかに写真などをとりいだしたるかも。

『歌稿B』#801-804



 2首目から4首目は、車中で見かけた若い乗客を観察しています。東京駅で発車の合図を聞いて、あわてて席に戻ってきたが、沿線の街の上に垂れ込める曇り空を、放心したようにじっと眺めるばかり。品川を過ぎたころに、ようやく我に返ると、ふところから誰やらの写真を取り出してじっと眺め入っています。

 おそらく、プラットホームで、恋人なのか肉親なのか、親しい人と別れてきたのでしょう。そのようすに、賢治は強く印象づけられています。


 この「赭ら顔、黒装束」の若者については、この関西旅行の最後の日程で訪れた奈良・興福寺の《阿修羅像》から受けた強烈な印象を重ねて見ているという、原子朗氏の重要な指摘があります。たしかに、「赤ら顔」や、恋慕の情に我を忘れたありさまなどは、興福寺の《阿修羅像》に通ずるものです。

 ただ、もとになった作者の体験自体は、これらの歌を見ても、また↓下の文語詩を見ても、帰り途ではなく往路の車中のできごとであったようです。


∇ 参考記事はこちら⇒:奈良(1)





      隼 人


 笛うち鳴りて汽車はゆれ
 あかりつぎつぎ飛び行けば
 赭ら顔黒装束のその若者
 こゝろもそらに席に帰れり

 町うち覆ふ膠質の
 光や上に張り亘す
 夜の大ぞらを見入りつゝ
 若者なみだうちながしたり

 品川をすぎてその若者ひそやかに
  写真をいだし見まもりにけり

 げに一夜
 写真をながめ泪ながし
 駅々の灯を迎へ送りぬ

 山山に白雲かゝり夜は明けて
 汽車天竜をすぐるころ
 若者やゝに面をあげ
 あたりはじめてうちまもり
 隣れる老いし商人の
 こと問ふまゝに息まきて
 田原の坂の地形を説けり

 赭ら顔黒装束のその隼人
 歯磨などをかけそめにけり

『文語詩未定稿』より〔下書稿〕




品川駅付近の地図 
1916年
1万分の1地形図「品川」「三田」「新橋」

当時の地図を見ると、新橋〜品川間の線路の海側には、
まだ埋め立て地はほとんどなく、列車は海岸に面して
走っていました。

「若者」が眺める車窓にも、街の灯のすぐ向うに
暗い夜の海が広がっていたことでしょう。




JR 品川〜田町間 
京浜東北線から
↑上の地図の青星印の付近です。
この線路の向うは、ぜんぶ海でした。当時東京湾が
広がっていた風景も、今は高いビルに遮られて
何も見えません。





∇ ひとつ前の記事⇒:トキーオ(16)




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