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一本木野(2)




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厨川、茨島野






 盛岡駅からIGRいわて銀河鉄道線
(旧・東北本線)で2駅めの「厨川(くりやがわ)」。このあたりは、かつては原野で、「茨島野(ばらしまの)」と呼ばれていました。

 ここは、「一本木野」の南の端にあたります。





茨島野(地図)







厨川駅

厨川駅は 1918年、賢治が盛岡高等農林を卒業した年に
開設されました。ですから、盛岡在学時代に利用する機会は
なかったと思われます。
↓下の習作詩がどんな機縁で書かれたかは不明ですが、たまたま
通りかかったさいのインスピレーションなのかもしれません。




    厨川停車場
(1922.6.2.)


 (もうすっかり夕方ですね。)

 けむりはビール瓶のかけらなのに、
 そらは苹果酒
(サイダー)でいっぱいだ。

 (ぢゃ、さよなら。)

 砂利は北上山地製、

 (あ、僕、車の中ヘマント忘れた。
  すっかりはなしこんでゐて。)

   
 (あれは有名な社会主義者だよ。
  何回か東京で引っぱられた。)

 髪はきれいに分け、
 まだはたち前なのに、
 三十にも見えるあの老けやうとネクタイの鼠縞。

 
 (えゝと、済みませんがね、
  ほろぼろの朱子
〔しゅす〕のマント、
  あの汽車へ忘れたんですが。)
 (何ばん目の車です。)……
  (二等の前の車だけぁな。)


 Larix, Larix, Larix,
 青い短い針を噴き、
 夕陽はいまは空いっぱいのビール、
 かくこうは あっちでもこっちでも、
 ぼろぼろになり 紐になって啼いてゐる。

『春と修羅・補遺』より

※「Larix」:ラリックス。カラマツの学名。 




厨川駅



∇ 本記事はこちら⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 4.1.1










      ※ 茨島野

 山の藍
 そらのひゞわれ
 草の穂と
 数へきたらば泣かざらめやは。

『歌稿B』,#343.




茨島跨線橋

国道4号線(陸羽街道)が、旧・東北本線と東北新幹線をまたいでいます。

「ばらしま」の地名は、現在では、この陸橋と
近くにある「茨嶋神社」に、わずかに残るのみ。



「私が茨海
(ばらうみ)の野原に行ったのは、火山弾の手頃な標本を採るためと、それから、あそこに野生の浜茄(はまなす)が生へてゐるといふ噂を、確めるためとでした。浜茄はご承知のとほり、海岸に生へる植物です。それが、あんな、海から三十里もある山脈を隔てた野原などに生へるのは、おかしいとみんな云ふのです。ある人は、新聞に三つの理由をあげて、あの茨海の野原は、すぐ先頃(せんころ)まで海だったといふことを論じました。それは第一に、その茨海といふ名前、第二に浜茄の生へてゐること、第三にあすこの土を嘗めてみると、たしかに少し鹹(しおから)いやうな気がすること、とかう云ふのですけれども、私はそんなことはどれも証拠にならないと思ひます。

 ところが私は、浜茄をたうとう見附けませんでした。尤も私が見附けなかったからと云って、浜茄があすこにないといふわけには行きません。もし反対に一本でも私に見当ったら、それはあるといふことの証拠にはなりませう。ですからやっぱりわからないのです。」

宮沢賢治『茨海小学校』より。



 「茨島」は、どうして「島」と言うのか、よくわかりませんw

 宮沢賢治は、この奇妙な地名から「茨海の野原」を思いついたのではないでしょうか。

 ハマナスは、「浜薔薇」とも呼ばれます。詩「オホーツク挽歌」では「はまばらの花」と書いています。『茨海小学校』の「野生の浜茄」は、“薔薇海”→ はま薔薇 の連想でしょう。







 臥してありし
 丘にちらばる白き花
 黎明のそらのひかりに見出でし。


 鉄砲が
 つめたくなりて
 みなみぞら
 あまりにしげく
 星 流れたり


 鉄砲を
 胸にいだきて
 もそもそと
 菓子を食へるは
 吉野なるらん


 ひがしぞら
 かゞやきませど丘はなほ
 うめばちさうの夢をたもちつ。

『歌稿B』,#5,5a6,5b6,6.



 1911年9月、宮沢賢治は盛岡中学3年次、『年譜』には「一本木野附近で発火演習。同地に野営。」とあります。「発火演習」は野外軍事教練。銃剣をかかえ、原野に伏せて夜を明かす訓練でした。




ウメバチソウ 
加賀白山,別山













家畜改良センター・岩手牧場(旧・岩手種馬所,岩手種馬育成所)




岩手県農業研究センター畜産研究所(旧・岩手県種畜場)





 1931年6月4日、宮沢賢治は、滝沢駅近くの岩手県種畜場(現・岩手県農業研究センター畜産研究所)
〔盛岡大学の隣り〕、および厨川の岩手種馬所・岩手種馬育成所〔これらは官営〕を訪れて、「東北砕石工場」の石灰岩抹を売り込みましたが、いずれも空振りでした。

 ↓下の詩の「種畜場」は、滝沢の岩手県種畜場です。




 雲影滑れる山のこなた
 樺の林のなかにして
 黒きはんかち頸に巻きし
 種畜場の事務員と
 エプロンつけしその妻と
 楊の花のとべるがなかに
 まぶしげに立ちてありしを
 赤靴などはき
 赤き鞄など持ち
 また炭酸紙にて記したる
 価格表などたづさえて
 わが訪ひしこそはづかしけれ
 今年はすでに予算なければ
 来年などと云ひしこと、
 山にては雲かげ次々すべり
 楊に囲まれし
 谷の水屋絶えずこぼこぼと鳴れるは
 げにわがいかなるこゝろにて
 訪はゞ心も明るかりけん。

『補遺詩篇U(孔雀印手帳)』より。




 ↑黒いハンカチを「頸に巻」いた「種畜場の事務員」とありますが、このスタイルは、当時、盛岡に駐屯地のあった陸軍騎兵隊員が好んでしていた格好なのだそうです。騎兵隊員は、除隊後もこの周辺で畜産関係の仕事に就く者が多かったといいます。黒い布切れを首に巻いた元・騎兵隊員は、『税務署長の冒険』『谷』などの賢治童話にも登場します。


∇ 参考記事(『税務署長の冒険』)⇒:
過去日記倉庫 2013.5.29.〜 6.7.

∇ 参考記事(童話『谷』)⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 1.12.3







 宮沢賢治の生きた時代は、小学校3年の年に日露戦争が終り、35歳の時に満洲事変が起きるまで、本格的な総力戦にはみまわれないですんだ比較的平穏な“谷間の時期”だったと言えます。

 しかし、それでも中学校では軍事教練や「発火演習」があり、高等農林学校には軍事教練導入の動きがありました。保阪嘉内の強制退学は、この軍事教練に反対する運動をしたのが原因だったという説があります。また、陸軍騎兵隊、工兵隊などの兵営が各所にあり、軍馬補充部など軍需のための施設も多かったのです。種畜場などによる畜産の奨励も、軍馬の供給確保を目的とする政策でした。

 このように、戦争の影をいつも身近に感じながらも、賢治は、「はまばら」や「うめばちさう」の「夢をたもち」つづけていたことがわかります。




岩手牧場





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