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モリーオ(5)




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盛岡市内の宮沢賢治関係箇所



「モリーオ」とは、賢治語wで、盛岡のことです。






 中津川 河藻に白き花さきて
 はてしも知らず 千鳥は遡る。

    ※

 中津川 水涸れなんに夜をこめて
 のぼる千鳥の 声きこゆなり。

宮沢賢治『歌稿B』#507,508 




中津川

下ノ橋から上流を望む。



 中津川は盛岡城(不来方城)跡の東へりを流れて北上川に注ぎます。
 「上ノ橋」「中ノ橋」「下ノ橋」という3つの橋が架かっており、藩主、武家屋敷の領域と城下町との境目になっていました。明治以後も、県庁をはじめとする役所や官立学校は、すべて川の西側(盛岡城側)に建てられていました。




下ノ橋と下ノ橋教会




 夜明げには
 まだ間あるのに
 下のはし
 ちゃんがちゃがうまこ見さ出はたひと。

    ※

 ほんのぴゃこ
 夜明げがゞった雲のいろ
 ちゃんがちゃがうまこ 橋渡て来る。

    ※

 いしょけめに
 ちゃがちゃがうまこはせでげば
 夜明げの為が
 泣くだぁぃよな気もす。

    ※

 下のはし
 ちゃがちゃがうまこ見さ出はた
 みんなのながさ
 おどともまざり。

宮沢賢治『歌稿B』#537-540 



 賢治は 1917年には高等農林の寄宿舎を出て、下ノ橋ぎわ(下ノ橋教会の対面)に下宿しました。その年盛岡中学に入学した「おどと(弟)」清六氏と同居しています。↑これは、6月恒例の行事“ちゃぐちゃぐうまこ”(⇒:Wiki)を詠んだものです。






岩手公園 賢治詩碑と“アーク灯”



 盛岡城跡(岩手公園)には、文語詩「岩手公園」の碑が立っています。
 傍らにアーク灯もありますが、こちらは模型です。



  弧光燈
(アークライト)にめくるめき、  羽虫の群のあつまりつ、

  川と銀行木のみどり、       まちはしづかにたそがるゝ。

宮沢賢治『文語詩稿一百篇』「岩手公園」より。 



「私が兄からはじめて手紙をもらったのは、中学校に入ったばかりの大正6年の4月であったと思う。

 
〔…〕    

 手紙はこんな文章ではじまっていた。

  君が下ノ橋の近くで、私と一しょに下宿することになつて、そこから中学校に通学出来るといふことは実にいいことだ。

〔…〕下の橋のそばの玉井郷方という人の家に、私が兄より一足先きに着いたときに、農林学校がまだ休暇中で、まだ花巻にいた兄が書いてよこしたものであった。

     
〔…〕

  玉井さんの家から下の橋の方に歩いて見給へ。

  そこの教会に向つて左に曲がつて少し行けば、『作人館』である。その学校の裏の広場に出れば、君はそこで岩手公園の美しい石垣を見るだらう。

     
〔…〕

 そして手紙は次のようなことばで終っていた。

  若しも君が、夕方岩手公園のグランドの上の、高い石垣の上に立つて、アークライトの光の下で、青く暮れて行く山々や、河藻でかざられた中津川の方をながめたなら、ほんとうの盛岡の美しい早春がわかるだらう。」

宮沢清六「最初の手紙」, in:ders.『兄のトランク』ちくま文庫,1991,pp.33-38.






旧・盛岡銀行本店と中ノ橋

1911(明治44)年に盛岡銀行本店行舎として落成
した赤煉瓦建築で、現在は『岩手銀行赤レンガ
館』として一般開放されています。

賢治の詩「岩手公園」にある「川と銀行」
は、中津川と、その畔に建った真新しい盛
岡銀行の赤レンガを指していると思われます。






旧・第九十銀行本店 
現『もりおか 啄木・賢治 青春館』
こちらは、明治43(1910)年に落成しています。
宮沢賢治が、盛岡中学校・盛岡高等農林学校に在学して
盛岡に滞在した 1909〜1918年は、同市に洋式建築物が続々
と新築されていた時期でした。






石川啄木像 
盛岡市大通り2丁目
現在は商店街のど真ん中ですが、ここはもと「菜園」という
地名で、田んぼのあぜ道だったそうです。啄木は、田んぼや
田園風景のなかを歩くのをたいへん好んだそうで、路のない
野原や山林へさまよいこむのを好んだ賢治とよく似ています。

像の啄木の顔は、まっすぐに盛岡中学(旧地)を向いて
います。台座には、↓下の啄木短歌が刻まれていました。



 新しき明日の来るを信ずといふ
 自分の言葉に
 嘘はなけれど

石川啄木  


   北風に立つ少年啄木像

 昔この辺りは、不来方城菜園の跡地である。
 中学生の頃の啄木にとって、この畔道と、
 城址は詩情の泉であった。
 与謝野鉄幹、晶子夫妻の魅力にひかれ、
 希望に胸ふくらませて、
 はげしい北風に立向う彼の姿である。

啄木像台座の説明文(本田侶作) 






盛岡中学校
(古写真)と盛岡市の模型
もりおか啄木賢治青春館展示
当時、白い建物の校舎は「白亜城」と呼ばれたそうですが、たしかに、
こんなひろびろとした石造建築が鬱蒼とした木々の間に威容を見せて
いたら、まさにお城でしょう。古めかしい教授ガウンを着た教諭たち
の教育は厳格で、啄木も賢治も、厳しい枠からはみだそうとするかの
ようにもがいていた姿が想像されます。
模型を見ると、当時、中津川の西側(左側)は、広壮な官製建築ばか
りで町家は無く、民家、商家、銀行などは、川の東の旧城下町に固ま
っていたことがわかります。

それにしても、啄木や賢治の時代の盛岡は、まさに
“森の都”だったことを知って驚きました。





∇ 本記事はこちら⇒:文語詩「岩手公園」⇒:
【吉本隆明】の宮沢賢治論――文語詩の発見(2)
〜ギトンのあ〜いえばこーゆー記〜


∇ 次の記事⇒:モリーオ(6)




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