荒川の碧き流れに(47)




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荒川は、秩父山地の奥、埼玉・山梨・長野3県境に源を発して関東平野を縦断し、東京湾に注いでいます。下流では“隅田川”と呼ばれるこの河が、賢治と浅からぬゆかりで繋がれていることは、意外に知られていません。。。





荒川沿いの此処彼処、宮沢賢治の足跡をたどって行きます。





秩父町から長瀞へ




 1916年9月2日から8日まで、関豊太郎教授らに引率された盛岡高等農林学校第2学年の学生たちは、秩父地方の荒川沿いで地質調査見学を行いました。

 巡検5日目。帰路へと向かう宮沢賢治ら高等農林一行を追いかけます。









秩父駅
 戦前
旧・秩父駅舎内の展示写真



 秩父鉄道は、1914年に秩父郡大宮町(1916年秩父町と改称)まで延伸し、秩父神社にほど近い町の中心部に『秩父駅』を設けました。

 木造吹き抜け建築の洋風駅舎は、当時は関東平野から隔絶された山中の集落だった大宮町に、新時代の息吹きをもたらしたと言います。


 この駅舎から帰りの列車に乗車した
(推定)宮澤賢治にも、この瀟洒な建築は深く印象に残ったでしょう。というのは、この建物の構造・外観は、彼ら農林学徒が敬愛してやまない・あの『小岩井農場』の「農場本部」の建物と、たいへんよく似ているからです。




旧・秩父駅舎
 1914年創建
秩父市・聖地公園に保存されています。




∇関連記事(小岩井農場本部)⇒:
農場への道(3):写真(o)


∇ 本記事はこちら⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜 3.5.1





 秩父町の「角屋旅館」に宿泊した一行のその後の経路については、記録が無いのですが、

 賢治の秩父での最後の短歌が、本野上駅(現・野上駅)で詠まれていることからすると、


 巡検5日目の 9月7日は、秩父駅で秩父鉄道に乗車して宝登山駅(現・長瀞駅)あたりで下車し、往路には十分に見る余裕のなかった長瀞〜野上駅周辺の露頭を調査したものと思われます。






秩父鉄道・荒川橋梁
(1914年開通)を通過するSL
上長瀞-親鼻間。2016.8.28.撮影。




      「ジヤズ」夏のはなしです



 ぎざぎざの斑糲岩の岨
〔そば〕づたひ

 膠質のつめたい波をながす

 イーハトヴ第七支流の岸を

 せはしく顫へたびたびひどくはねあがり

 まつしぐらに西の野原に奔けおりる

 銀河軽便鉄道の今日の最終列車である

    
〔…〕

 どしやどしや汽車は走つて行く

 おほまちよひぐさの群落や

 イリスの青い火のなかを

 狂気のやうに踊りながら

    
〔…〕

 シグナルもタブレツトもあつたもんでなく

 とび乗りのできないやつは乗せないし

 とび降りなんぞやれないやつは

 もうどこまででも載せて行つて

 北極あたりで売りとばしたり

 銀河の発電所や西のちぢれた鉛の雲の鉱山あたり

 監獄部屋へ押し込んだり

 葛のにほひも石炭からもごつちやごちや

 接吻
(キス)をしやうが詐欺をやらうが

 繭のはなしも鹿爪らしい見識も

 どんどんうしろへ飛ばしてしまつて

 おほよそ世間の無常はかくのごとくに迅速である模型を示し

 梨をたべてもすこしもうまいことはない

 何せ匂ひがみんなうしろに残るのだ

    
〔…〕

 馬鹿のやうに踊りながらはねあがりながら

 もう積雲の焦げたトンネルを通り抜けて

 野原の方へおりて行く

 尊敬すべきわが熊谷機関手の運転する

 銀河軽便鉄道の最終の下り列車である

宮澤賢治「心象スケツチ二篇」, in:
草野心平・編『銅鑼』第7号(1926.8.1.発行)



 「『ジヤズ』夏のはなしです」は、岩手軽便鉄道(現・JR釜石線)をモデルとした口語詩で、農学校退職後の 1926年に発表されています。


 しかし、詩の最後にある機関士の名前「熊谷」…… じっさいに、そういう名前の人が岩手軽便鉄道にいたのかもしれませんが、

 もしかしたら、秩父鉄道のターミナル駅「熊谷」から採っているのではないでしょうか?


 1916年の秩父鉄道での汽車旅の印象が、賢治の思い出に残っていたのかもしれません。そう思って読んでみると:



「もう積雲の焦げたトンネルを通り抜けて

 野原の方へおりて行く」


という詩句から、帰りの上り列車で、波久礼〜寄居の谷間から関東平野に下り立った桜沢、小前田あたりの風景が目に浮かびます。

 厳しかった5日間の強行軍を終えて、級友たちは解放的な気分に浸っていたことでしょう。


「接吻をしやうが詐欺をやらうが」


 これなど↑、男子学生たちの悪ふざけのありさまだとすれば、よくわかります。
 罰ゲームにキスをさせたり、友達を担いで笑い者にしたり‥、さわがしい車内のようすが想像されます。


「繭のはなしも鹿爪らしい見識も」


 そう言えば、寄居は養蚕の中心地でした。関・神野の2教授は、帰路の車中でも「鹿爪らしい見識」を披瀝するのに余念がなかったかもしれません。


「梨をたべてもすこしもうまいことはない」


 梨を食べるというのは、「夏のはなし」というより、9月の風情ではないでしょうか?‥


∇関連記事⇒:日本ジャズ史と宮澤賢治









宝登山神社
 奥宮 
長瀞・荒川左岸の宝登山頂上(標高 497m)にあります。
この神社も、奥宮の鳥居の前にいるのは“御いぬ”(ヤマイヌ,狼)です。




宝登山神社
 奥宮 
左の“御いぬ”



「路の右手に大なる鳥居立ちて一條の路ほがらかに開けたるあり。里の嫗
(おうな)に如何なる神ぞと問へば、寶登神社といふ。〔…〕

 大路を横に折れて、蝉の聲〻かしましき中を山の方へと進み入るに、少時して石の階
(きざはし)數十級の上に宮居見えさせ玉ふ。〔…〕こゝの御社〔みやしろ〕の御前の狛犬は全く狼の相(すがた)をなせり。八幡の鳩、春日の鹿などの如く、狼をこゝの御社の御使ひなりとすればなるべし。〔狼をこの神社のお使いだと信じているから、狼の姿の狛犬を宮前に置いているのだろう―――ギトン訳〕。」
幸田露伴「知〻夫紀行」(1899年初出), in:幸田文・編『露伴全集』,第14巻「紀行」,1951,岩波書店,pp.355-356.


 ↑これを見ると、露伴がここに来た 1899年頃には、山麓の本社の前にも狼の両“こまいぬ”がいたことがわかります。おそらくそれらは、宮沢賢治の来た時にもあったと思われます。








“金石の渡し”跡
 
金ヶ崎(現・皆野町金崎)の親鼻橋から下流には、当時は
荒川には橋がありませんでした。(寄居の玉淀橋もまだ建設中でした)
藤谷淵(現・長瀞駅)周辺で調査した賢治たちが、対岸へ渡るには、
舟に乗るほかはありませんでした。
藤谷淵と本野上(現・野上駅)の中間の“金石”(現・金石水道橋)には、
常設の“渡し舟”がありました。





地図
(野上・長瀞付近)







 山峽
〔やまかひ〕の、町の土蔵の、うす\/と、夕もやに暮れ、われらもだせり。
『校友会会報』第32号

※ もだす:黙る。




夕闇に沈む荒川
 高砂橋下流





∇関連記事(往路の長瀞)⇒:
荒川の碧き流れに(8)




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