風の谷(4)




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 フォッサ・マグナ(大地溝)の峡谷を、八ヶ岳颪しが吹き抜ける───北甲斐の地は、賢治の親友・保阪嘉内のふるさとです。




盛岡で宮澤賢治に出会うまで‥‥‥‥

故郷での嘉内の生い立ちをたどります。






清 里





 本州を南北に横断する大地溝帯《フォッサ・マグナ》。

 保阪嘉内が20歳までを過ごしたのは、この大地溝帯のほぼ中央、‥八ヶ岳、南アルプス、富士・御坂、金峰・瑞牆に4面を囲まれた釜無川の流域でした。







八ヶ岳
(やつがたけ)
北杜市高根町西原から望む。
左から、編笠山、権現岳、キレット(低いところ)、赤岳、横岳。




 その昔は吹く大風に打乗りて果なき国に往かんと思ひしが、

保阪嘉内・歌稿ノート『ふるふ大地と山々の雪と』(1917年1-6月)より






「嘉内が八ヶ岳に初めて登ったのは明治44年
〔1911年〕、中学2年の夏であった。その後、嘉内は毎年のように八ヶ岳に登っているが、八ヶ岳だけでなく駒ヶ岳、茅ヶ岳、富士山など、生家からも見える甲州の山々を嘉内は踏破した。今も残る中学時代の嘉内のスケッチ帳には、踏破した山々が描かれている。

 こうした山々の中でも、嘉内は特に八ヶ岳を好んだらしく、短歌の中にも八ヶ岳はたびたび登場する。嘉内の生家からは八ヶ岳がよく見え、冬には八ヶ岳颪
(おろし)と呼ばれる強風が八ヶ岳の方向から吹いて来る。

 そんな八ヶ岳には、風の神が住んでいるという信仰が古くからある。その風の神の名は三郎、“風の三郎”である。

 江戸時代の地誌『甲斐国志』には「風ノ三郎カ岳」の名が見え、また八ヶ岳の麓の北杜市高根町清里の「風きりの里」と呼ばれる地域には、昔から風の三郎社と呼ばれる小さな祠が祀られており、嘉内はその祠をスケッチしている。

 風の三郎社は今は清里樫山地区の利根神社の境内に移されているが、嘉内のころは「五幹の松」と呼ばれる場所にあり、祠は倒れ、朽ち果てた状態になっていた。嘉内は権現岳登山の帰途、倒れた祠に野花を手向けていったものであろうか。『29.July.1911.』の日付のあるスケッチ『八岳(権現岳)麓ノ摩利支天(風神雷神祠ナリ)』には『KAERINIOITA INORI GUSA』と書き添えられている。」

大明敦・他編著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』,2007,山梨ふるさと文庫,pp.28-30.





“五幹の松”
 高根町清里 字・羽根尽
名称のとおり、根元で幹が5本(うち1本は枯死している)に岐れた老松。
もとは、ここに“風の三郎社”の祠があったという。
現在、置かれているのは、八ヶ岳権現社の石祠。



保阪嘉内が1911年に描いた
「八岳(権現岳)麓ノ摩利支天」のスケッチ



 最近、この清里の“風の三郎”伝説が、保阪嘉内を通じて、宮沢賢治に伝えられ、有名な童話『風の又三郎』の着想にヒントを与えた───ということで、たいへん話題になっています。

 たしかに、名作『風の又三郎』は、あたかもどこかの土地の言い伝えに取材したかのような妙なリアルさを感じさせるのですが、“又三郎”という伝説は日本中どこにもありませんし、

 “風の三郎”伝説は、この八ヶ岳南麓のほか、いくつかの地方に伝わっているようですが、岩手県にはありません。

 保阪の語る郷里の伝説の話が、賢治にヒントを与えた───という説は、真実らしく思われます。


 そこで、ギトンも、清里の“風きりの里”へ行ってみたのですが‥ 
ん〜〜 どうでしょうか??...

 ↑上の本でも紹介されている“風の三郎社”=“風の又三郎”説は、どうも。。。 ??



 ↑上の現地写真の“五幹の松”と、保阪が1911年に描いたスケッチを比べて見てください。

 現在の“五幹の松”は、その名のとおり、根元のところで幹が5つに分岐しています。しかし、スケッチの松の幹は3本で、しかも1本は離れて生えていますね。

 アカマツの寿命はどのくらいあるのか知りませんが、裸地に最初に生える陽樹で、しばらくすると他の種類の木(標高により、シイ、カシ、ブナ、またはシラビソ類)に取って代わられる運命の木ですから、屋久杉のように何百年というようなことはないでしょう。100年以上前に嘉内がスケッチした木は、ほんとうに、この木なのでしょうか?!

 それでは、“風の三郎社”の祠
(神社の建物のミニチュアみたいなもの)のほうは、どうでしょうか?

 1キロほど離れた利根神社に移されているというので、行ってみました↓






利根神社
 高根町東原



 こちらは、杉とヒノキが密集した“鎮守の森”が目印になります。

 しかし、木の鳥居と小さな祠が置いてあるだけの簡素なもので、看板も道標もありませんから、見つけるのに苦労します。






利根神社

左:利根神社の祠、右:風の三郎社の石祠。



風の三郎社
 近写



 ↑この石祠がバラバラになって置いてあったのだとすれば、たしかに保阪のスケッチは、この祠なのかもしれない...

 しかし‥、よく考えてみると、保阪のスケッチには、“風の三郎”とも“五幹の松”とも書いてありませんでした。「摩利支天(風神雷神祠ナリ)」としか、彼は記していないのです。「風神雷神」イコール“風の三郎”───と、かんたんに決めてしまうのは、どんなもんなのでしょうか?!




 とはいえ‥、そうした疑問点はあれこれ指摘できるとしても、この土地で“風の三郎”伝説が昔から広く伝わっていて、そこが、嘉内の足繁く通った場所で、“風の三郎社”と呼ばれる
(もじどおり、そう「呼ばれる」のであって、文字による表示は昔も今もありません!書き記してはならない‥おそれおおい‥という信仰があるのか‥??)祠も──嘉内がスケッチした場所かどうかは別として──あったのだとすれば、やはり、嘉内から賢治に“風の三郎”が伝わった可能性は高いでしょう。


 ただ‥、いまひとつ疑問なのは‥‥それだけ広く伝えられていた伝説だとすれば、“風の三郎社”は1ヶ所とは限らないのではないか?‥むしろ、あちこちにあったと考えたほうが自然でしょう。

 じっさい‥、ネットを調べてみると、この近くの別の場所(平沢山の付近)でも、“風の三郎社”の遺址を、最近発見した───と報告しておられる方がいます。


 しかも、もうひとつ言えば、保阪のスケッチに記された「権現岳の麓」という言い方もひっかかります。↑いちばん上の八ヶ岳の写真は、この“五幹の松”の近くから撮ったものですが、八ヶ岳は非常に遠いですね。「ふもと」と言ったら、もっと山の近くではないでしょうか?

 これでは、“権現岳の麓”なのか“赤岳の麓”なのか分からない... ちなみに、現在、清里からの登山道は、赤岳に登るものです。権現岳への登山道は、ひとつ小淵沢寄りの駅:甲斐大泉から出発します。



 そうすると‥、保阪が中学生時代にスケッチした“松の木の下の祠”が、“五幹の松”の下の“風の三郎社”だったかどうかは、疑わしくなってきます。別の場所だったかもしれない。別の場所にあった“風神雷神の祠”───それがそこでも“風の三郎”と呼ばれていたかどうか、分からないではないか。。。





 ‥というわけで、現地を訪れてのギトンのとりあえずの結論は: たしかに、嘉内の“三郎伝説”の話が、賢治の『又三郎』のモチーフになった可能性は高い。しかし‥、嘉内のスケッチをその証拠とするのは、まだ早いのではないか?‥“風の三郎”伝説自体の探究が、まだ不十分なのではないか?───ということになります。






 ところで、“五幹の松”の場所へ行ってみて、もう一つ‥ あっと驚くことがありました。




“聖なる地”?
 高根町清里
“五幹の松”(写真左端の林地の中)の近傍の谷地。


 ↑この風景を見て、なにか思い出しませんか?



 “デァ・ハイリゲ・プンクト(聖なる地)”ではないか!


 ギトンは、見たとたんに、小岩井農場の、賢治が「聖なる地」と名づけた“下丸7号耕地”の風景を思い出しました。(⇒農場への道(4)〔写真(w)〕


∇ 本記事はこちら⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜【小岩井農場・パート4】



 どちらも、やや高まった林地によって3面を区切られた奥行きのある平地──谷地
(やち)で、何となく暗くて神秘的な‥荘厳な感じがするのです。

 小岩井の“下丸7号”は、ちょうどその奥に岩手山が見えますし、こちらの清里の谷地も、少し場所を移せば、森の向うに八ヶ岳が見えます
(上の写真でも、ほんのわずかですが、木々の梢の間に、八ヶ岳の峰々の先端が覗いています)




 さうです 農場のこのへんは

 まつたく不思議におもはれます

 どうしてかわたくしはここらを

 der heilige Punkt と

 呼びたいやうな氣がします

宮澤賢治『心象スケツチ 春と修羅』「小岩井農場・パート9」より。




 『春と修羅』収録の長詩「小岩井農場」で、賢治がこの場所を「聖なる地」と呼んでいるのは、なにか荘厳なふんいきをもった奥深い斜面で、その向うに、‥あたかも聖殿のかなたに御神体を見るように‥霊峰・岩手山がそびえている───そういう風景だからだと思います。

 その「聖なる地」のふんいきが、この“五幹の松”近くの谷地でも感じられるのは、偶然ではないと思います。

 たしかに、賢治は、清里には来ていません。しかし、嘉内は、両方の地を踏んでいます。

 ここで少し想像をめぐらせば‥、嘉内が盛岡で、賢治とともに『小岩井農場』を訪れた際、《農場本部》から《小岩井小学校》のほうへ坂を上ってゆく途中で、


 嘉内「あっ!この景色は見覚えがあるぞ。八ヶ岳の麓にも、こういう場所があるんだ。‥ちょうど、こんなふうに、向こう側に山が見えてね。」

 賢治「それは、どんな場所なんだ?」

 嘉内「ほら、あそこに‥‥ちょうどあんな森の中に、古い祠がある。ばらばらになって崩れてしまっているんだが‥、俺はその近くを通るたびに、森の中へ入って行って、花でも手向けてやらずにはいられない気持ちになるんだよ...」


 たとえば、↑こんな会話があったのではないでしょうか?




 あわれしも世にいでざれど奥山のかの下艸と生きながらへよ。


 八ヶ嶽の麓の森の閑古鳥かの旅の日を思い出多し。

保阪嘉内短歌 in:『巡礼』第1号(1914年ころ)



 祀られざるも神には神の身土があると

 あざけるやうなうつろな声で

 さう云ったのはいったい誰だ 席をわたったそれは誰だ

宮澤賢治『春と修羅・第2集』「産業組合青年会」より





 そして、賢治は、“心象スケッチ”の歩行実践のために『小岩井農場』を再訪した際、この嘉内との会話を思い出し、そこを「聖なる地」と名づけた。。。

 賢治は、この「聖なる地」のきわにある4本の桜の木を、嘉内、賢治を含む同人誌『アザリア』の4人の仲間になぞらえます:




72向ふの青草の高みに四五本乱れて
73なんといふ氣まぐれなさくらだらう
74みんなさくらの幽霊だ
75内面はしだれやなぎで
76鴇いろの花をつけてゐる

    
〔…〕

109 (五本の透明なさくらの木は
110  青々とかげらふをあげる)

    
〔…〕

134みちがぐんぐんうしろから湧き
135過ぎて來た方へたたんで行く
136むら氣な四本の櫻も
137記憶のやうにとほざかる

宮澤賢治『心象スケツチ 春と修羅』「小岩井農場・パート4」より。
先頭の数字は「パート4」初めからの行番号。




∇ 本記事はこちら⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜【小岩井農場・パート4】

∇ 本記事はこちら⇒:
〜ゆらぐ蜉蝣文字〜【小岩井農場・パート9】




「若木のようだった四人の仲間たちはむらきな四本の桜ではなかっただろうか。
〔…〕それは桜の木になぞらえた『アザリア』の四人の仲間のことであり、目には見えていないが心には見えている四人のことである」

「賢治にとって小岩井駅から農場までの道のりを歩きながら心象をスケッチしていったのは嘉内を追い、嘉内を自分の中にとり戻すための道でありそして自分の歩く道、つまり、本部へ到る真実の道の確認のためでもあった。
〔…〕

 賢治が小岩井駅におり立った時、
〔…〕その目的は嘉内と共に歩いた道のりをもう一度辿ってみるという作業のためであったはずだ。

 かつて『絶対真理』のために生きるという決意を互いに語りながら歩いたであろうこの道は、二人の友情の原点に帰る道であり、又嘉内を取り戻す道であり、自分の目標に到る道、つまり本部※、を求める行程でもあった。」

菅原千恵子『宮沢賢治の青春』,1997,角川文庫,pp.173,178-179.

※ 菅原氏は(おそらく)農場現地を(徒歩では)訪れていないために気づいておられないのですが、長詩「小岩井農場」での賢治の経路は、往きと帰りとで異なるのです。往きは《農場本部》前を通り、帰りは《農場本部》前を通らない近道をして旧・網張街道伝いにまっすぐに駅へ向かっています。したがって、賢治が、“「本部」へ向かうこと”←→“「本部」へ向かわずに曲がること”に、──菅原氏の理解する内容とはやや異なるとしても──それぞれ特別な意味を込めていることは明らかです。







花園農村の碑
 韮崎市文化ホール前
↓下の保阪嘉内の文(〔…〕の前まで)と、
「来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働らきます。」
で始まる宮沢賢治の保阪宛て手紙(1925年)が刻されている。




 春は麦打ちせんと畑に立って遠山のかすみに消えゆく夢見る喜び

 夏田植して帰る田の水の上に浮む白玉

 秋は柿の梢に柿赤き頃 豊な稲はすゞ風にさらさらと波打って

 冬は縄なひ 草鞋作り 夕べは家庭のもっとも歓しきうたげにあわやかに降りつむ雪を見る

 われわれをして 田園都市を作らしめよ 模範農村を作らしめよ そしてわが幸ある天地の神に感謝をさゝげしめよ

    
〔…〕

 あゝ諸君、人民に行け、人民に行け、
〔…〕

 諸君人民にゆけ、百姓をせよ、そしてわれわれのハッピイ・キングドムを作れ、パラダイスを作れ。

保阪嘉内・ノート断片〔栄えを競ひしソロモンの〕(1916年?)より






 さて‥、今回は、嘉内が“五幹の松”の“風の三郎社”を訪れたかどうかは疑わしい───と先に言っておきながら、けっきょく最後には、その“五幹の松”の場所こそ、賢治の「小岩井農場」につながる“聖なる地”にほかならない‥などと勝手に納得してしまいました←

 “五幹の松”と嘉内との関係を肯定するにしろ否定するにしろ、細部の実証はまだまだこれからなのですが、

 ‥そういうこととは別に、感覚的に受けた印象とか、モチーフというのは、とてもだいじなことなので、とりあえず今回は、現地を踏んで得た印象を、多少の矛盾は承知で書いてみた次第です。




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