風の谷(1)




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 フォッサ・マグナ(大地溝)の峡谷を、八ヶ岳颪しが吹き抜ける───北甲斐の地は、賢治の親友・保阪嘉内のふるさとです。




盛岡で宮澤賢治に出会うまで‥‥‥‥

故郷での嘉内の生い立ちをたどります。







韮 崎






塩 川
 穂坂橋から上流を望む。
正面遠方(北)は八ヶ岳。西は、南アルプス前衛の山々が平地を縁どっている。

黒沢川は、韮崎市街地の東端を流れ、甲府の南方で
釜無川(富士川)に注ぎます。




 新宿から中央線、あるいは中央高速道に沿って甲府を過ぎると、左右を高い山に囲まれた細長い平地の底を、北へ向かって進むようになります。

 この平地は、本州を南北に横断する大地溝帯《フォッサ・マグナ》、

 その西側は、南アルプスから中央アルプス〜北アルプスへと連なる高い山脈が、壁のように並んでいます。《糸魚川−静岡構造線》です。

 保阪嘉内が生まれた山梨県北巨摩郡藤井村駒井(現・韮崎市藤井町駒井)は、この大地溝のほぼ中央、釜無川と支流塩川に挟まれた水田地帯にあります。








 聞けよ君、わが故郷は雪白きむら高山にかこまるゝ国、

保阪嘉内・歌稿ノート『懐中日記』(1914年)より



 甲斐が嶺の真白き雪を愛づと云ひし、むら立つ山を愛づと云ひにし、

保阪嘉内・歌稿ノート『ふるふ大地と山々の雪と』(1917年1-6月)より





嘉内の実家がある 
鳥居集落
藤井町 大字・駒井 字・鳥居 付近。
佐久往還(現・清里ライン)に沿って南方を望む。




 手作地主の家に生まれながら農業を忌み嫌った
「父とは正反対に、

 嘉内は幼いころから農作業を好み、雇い人たちの仕事を手伝ったり、畑から掘り出したままの、まだ土の付いている生芋や生葱を喜んでかじるような子どもであった。

 そんな嘉内が最も心を痛めたのが、この時期に藤井平を幾度となく襲った洪水である。

 
〔…〕塩川流域の入会いの山は、明治維新の後は皇室財産となったが、十分な手入れもされなかったために荒れ果てて保水力が弱ってしまった。その結果、明治の末ごろには、大雨が降るたびに塩川が氾濫し、ほぼ隔年で襲ってくる洪水が田畑を荒廃させ、農民とりわけ小作農の生活を苦しいものにしていたのはもちろん、労働力の不足や年貢米の滞りによって葛西の生家のような中小地主の生計をも圧迫しつつあった。

 中でも、明治39年と43年の水害は記録的な被害をもたらし、その惨状を目の当たりにしたことが嘉内の死生観や農村観の根底を成している。こうした恵みも脅威ももたらす自然との関わりの中で育まれた嘉内の思想は、
〔…〕のちに心友となる宮沢賢治に大きな影響を与えることになるのである。

   
〔…〕

 小学生時代の嘉内は、相次ぐ水害によって荒廃していく故郷の姿を見て、荒れ果てた故郷の村々を美田で埋め尽くす願いを思い抱くようになった。

 また、洪水で流された村はずれの河原の墓地は、
〔…〕祖先や近所の人々の遺骸や骨が散らばり、日に晒されている有様を目の当たりにして、

 『人は死んで地獄や極楽に行くのではない。ただこんなふうに溶けて崩れて、自然に帰り、土に化してゆくのだ』

 と考えるようになった。」

大明敦・他編著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』,2007,山梨ふるさと文庫,pp.18-19.






駒井付近の耕地
 北方・八ヶ岳を望む。




駒井付近の耕地
 南方を望む。
富士山と御坂山塊。




駒井付近の耕地
 西方を望む。
右寄り奥で夕陽を浴びる尖った山が、甲斐駒ヶ岳。その左に連なるのは鳳凰三山。





駒井付近の耕地
 東方を望む。
右の尖った山が、“日本百名山”の作家・深田久弥の終焉地として
知られる茅ヶ岳。その左が、金ヶ岳。





 今日も又、赤い赤い、夕日の沈む光が、駒嶽の彼方にあった。平野の夕暮、そう云ったやうな、日の光が自分は実になつかしかった。

 関東平野と、それに住んでゐる人々が非常にうらやましかった。今自分は山梨の山にとぢこめられた狭い野に農民として生きねばならない。

保阪嘉内・歌稿ノート『懐中日記』,1914年4月30日.







地図(韮崎)





 両側の高い山々に挟まれた幅広い河谷───という地形から、保阪の故郷・北甲斐は、宮沢賢治の故郷である花巻、北上平野と似ているのではないか‥‥ と思うかもしれません。

 しかし、じっさいに行ってみると、両地域は、まったく印象が異なっていると言ってよい。むしろ対照的だとさえ言えます。

 まず、標高が違う。北上川は、石巻湾に注ぐ河口(旧河口)から約135km溯った花巻(イギリス海岸)でも標高65mで、ほとんど仙台平野と変りません。したがって流れは非常にゆるやかで、岸の河岸段丘も、ゆったりとした傾斜で並んでいます。花巻城址のいちばん高い場所でも標高80m、川岸からの比高わずか15mなのです。

 これに対して、釜無川(富士川)の場合は、韮崎付近で標高350m前後、小淵沢で670-680mです。西側の南アルプスと北側にそびえる八ヶ岳には、標高3000m前後の峰が連なります。

 ↑いちばん上の写真に映っているように、塩川の河床は深く掘り込まれて、岸には岩石の断崖が露出しています。これは、本流の釜無川でも同様です。洪水時には荒れて、人も家も押し流してしまいます。

 北上川の“洪水”が、単に雪解け水などで増水して、水面がゆっくりと上がってゆくにすぎないのと対照的です。

 もし宮沢賢治が嘉内に出会わなかったら‥ あれほど自然の脅威に敏感にはならなかったかもしれません。


 しかし、周囲の山々の姿は、北甲斐のほうがずっとロマンチックです。ロマンチックというより、メルヘンチックと言ったほうがよいくらいです。

 ギトンは、はじめて韮崎駅で下車して、観光案内図を眺めながら‥、「ハイジの村」だとか「銀河鉄道展望台」だとか、この土地の人はアニメの見すぎではないだろうかw ‥などと思ったものですが、それは全くの誤解でした。

 ここは、もともとの風景そのものが、絵のように整って美しいのです。子供用アニメの舞台装置が、非常にしっくりと周りの風景に調和する土地柄なのでした。

 南の富士山も、東側の茅ヶ岳も、アニメの背景のようにきれいで、他方、西側と北側のアルプス、八ヶ岳の冠雪した峰々は、神々しいばかりの輝きを放っています。

 このような環境に生まれ育った人は、直情径行で、人を信じやすく、一途な正義感に燃えて、ひたすら駆け抜ける人生を歩むのではないでしょうか?




「君
〔保阪嘉内──ギトン注〕は直情径行的の性格で、自分が善と信じ、正しいと思ったことは、世の毀誉褒貶等は聊も考慮せず、容赦なく実行してはばからず、世間的妥協苟合性などは薬にする程も持合はさなかった。これがために社会人としての君は、或る一部の人達からは蛇蝎のやうに視られ、毛虫のやうにも嫌はれた。

 が、君の真情をよく知り、理解してゐる者の間には気骨漢として称揚され、信望も持たれてゐた。」

内藤新三「故保阪嘉内」(初出:『みづがき』1938年7月号), in:同『歌文集 岩七里』,1957,山梨歌人発行所,pp.196-197.






∇ 本記事はこちら⇒:〜ゆらぐ蜉蝣文字〜




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